原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所・旧跡を訪ねて 第8回法恩寺橋から竪川へ

2013年06月29日 | 下町散歩
第8回『法恩寺橋から竪川へ』
 我が下町の太陽法律事務所の所在地墨田区江東橋二丁目14番7号は、尾張版江戸切絵図(1849~1870年)によると、大名牧野遠江守か夏目近江守の下屋敷のあった辺りと思われます。我が事務所は、JR錦糸町駅から徒歩3~4分、京葉道路に面した賑やかな場所にあり、往時の面影は殆ど残しておりませんが、江戸末期の雰囲気を知る手掛かりが、佐伯泰英のベストセラー小説居眠り磐音江戸双子11巻「無月ノ橋」にありました。

「御用船は法恩寺橋の船着場から横川を南に向かった。横川の両岸は船問屋など水運に関わる店が並び、人の往来も賑やかで、水上にも雑多な船が行き来していた。」(無月ノ橋32ページ)

 まず事務所から北へ歩いて15分程のところにある法恩寺に行ってみました。
法恩寺は1457年太田道灌開基の由緒あるお寺で、参拝客で賑わい、その門前には食べ物屋が軒を並べていたと言われています。
<写真1>
今も長い参道が残っていて、かって20の塔頭11の末寺を従えた大寺だったことを十分想像させてくれます。
<写真2>
<写真3>
 法恩寺橋の袂は、船でやってきた参拝客の船着場があって賑やかな場所でした。そして法恩寺橋際には、眠り磐音と行動を共にする御用聞き竹蔵が主の「地蔵蕎麦」があったとの設定になっています。現在、竪川以北の横川は全て埋立てられ大横川親水公園となっていて、往時の賑わいを想像するのは容易ではありません。
<写真4>
<写真5>
<写真6>
 かって横川は竪川、小名木川と交わり隅田川に注いでいましたが、現在は竪川と交わった辺りから南側だけが大横川の名で残されています。
<写真7>
 
 次回は眠り磐音とともに横川と交わる竪川に入り、横十間川を北上いたします。ご期待ください。

下町の名所・旧跡を訪ねて 第7回「萬年橋から中川口へ」

2013年06月22日 | 下町散歩
「萬年橋から中川口へ」第7回

 小名木川に入った行徳船が真っ先に潜る橋が萬年橋です。
<写真1>
 かってはこの橋のたもとに船番所がありましたが、中川番所ができて、寛文年間(1661~1673年)に廃止されました。現在は一片の説明版が残されているだけです。
<写真2>
 現在の萬年橋も震災復興橋として架けられたソリットリブタイドアーチ橋という個性的な橋です。江戸時代にはここには虹型に架けられた優美な橋が渡されており、葛飾北斎の富嶽三十六景中の「深川萬年橋下」として浮世絵にも描かれています。
<写真3>
 昭和30年頃になると小名木川を通る船は一日4隻ほどまで減少し、舟運はすっかりすたれてしまいました。それとともに忘れられた川になっておりましたが、現在では一部を除いて川べりに遊歩道が設けられたきれいな川に生まれ変わっております。萬年橋を東行して1キロ程行った大横川と交わる川べりからスカイツリーを眺める風景などは中々のもの。桜の季節に是非もう一度訪ねたいものです。
<写真4>
 ここから500メートル程東行すると小名木川橋を潜ります。この橋のたもとに歌川広重の浮世絵に有名な「小名木川五本松」がありました。
<写真5>
 そこには現在三本ほどの松が植えられていますが、残念ながら当時の五本松ではありません。
<写真6>
 小名木川橋からさらに400メートル程東行すると横十間川と交わり、そこに洒落たクローバー橋が架かっています。かっての小汚い小名木川を知る私には、地元の中学校ボート部の中学生たちが練習に励んでいる姿を見るなどは感動ものでした。
<写真7>
 小名木川の北側を並行して流れる竪川がほぼ原形を失いつつある現在、小名木川再生事業は水郷の町の再生のための試みとして評価したい。江戸時代水郷の町と言われていたかっての本所・深川を取り戻したいものです。

下町の名所・旧跡を訪ねて 第6回「行徳船の船着場・日本橋小網町の行徳河岸からケルンの眺めへ」

2013年06月19日 | 下町散歩
 寛永9年(1632年)本行徳村は幕府の許可をもらって江戸―行徳間の小荷物運搬と旅客輸送を独占するようになり、行徳船の運航が始まりました。水行三里八町(12・6キロ)の航路で、多い日には62隻もの船が出ていたことは既に見てきた通りです。
行徳河岸は、元々は行徳塩を陸揚げするところでしたが、やがて野菜や魚なども陸揚げされる賑やかな場所になっていきました。明治時代に入ってもここから利根川を経由して銚子、茨城県の鉾田などまで通う蒸気船が、旅客と荷物を運び、賑わいを見せていました。井上安治の蠣殻町川岸の図からその雰囲気を味わってください。

<写真1>

 しかし鉄道の発達とともに、舟運は衰退の一途をたどり、今では当時の賑わいの跡形もありません。行徳河岸は埋め立てられて高速道路脇の道路となってしまっています。

<写真2>

 
 日本橋川を下って豊海橋に出ると、その先は隅田川です。豊海橋は1927年(昭和2年)に震災復興橋として造られ、梯子を横にしたようなフィレンデール橋と呼ばれる独特の外観を持つ珍しい橋です。南側に見える永代橋とマッチするように造られたそうで、シンプルなデザインの中に鋲止形式という古い形態を残した名橋と言われています。

<写真3>

 豊海橋から隅田川の下流を見ると、1926年(大正15年)に架けられた国の重要文化財の永代橋とその奥の佃島の高層ビル群が織りなす超現代の隅田川風景が広がります。永代橋は、震災復興橋しかもその第1号として架けられた橋で、ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした現存最古のタイドアーチ橋と言われています。

<写真4>

<写真5>

 豊海橋から隅田川上流に向けては、遊歩道が設けられています。遊歩道を歩き始めると、すぐ目の前に清洲橋が迫ってきます。清洲橋もやはり震災復興橋として1928年(昭和3年)に架けられた橋で、世界で最も美しいと言われたドイツのケルンの大吊り橋をモデルにしたものです。

<写真6>

 隅田川に出た行徳船は、この橋100メートル程上流から小名木川に入ります。この入口に芭蕉庵史跡展望庭園がありますが、ここからあるいは次に述べる萬年橋からの清洲橋の眺めは、その美しさから「ケルンの眺め」と呼ばれています。

<写真7>

 今回は橋めぐりになってしまいました。次回は小名木川を東行し、中川口まで見ていきたいと思います。ご期待ください。

下町の名所・旧跡を訪ねて  第5回『妙見島・蒸気河岸・堀江ねこざね』

2013年06月12日 | 下町散歩
 行徳船は、新川口を出た後は妙見島を川下に見ながら新河岸に向かっていました。しかし、明治時代に入ると、浦安と江東区高橋までを1時間30分位で結ぶ蒸気船「通運丸」が走るようになり、この「通運丸」は新川口から妙見島を南下して境川入口付近の蒸気河岸(写真1)から発着するようになりました。この船着場も、今は一片のレリーフ(写真2)を残すのみで、釣り船の係留地になっており、高い護岸に遮られて一般の目には触れにくい殺風景な場所に成り下がっています。

  <写真1>

  <写真2>

「利根川ばらばら」と題する歌川広重の浮世絵(写真3)が描かれた場所とおぼしき妙見島から浮世絵と同方向に向けて写真を撮ってみました(写真4)。江戸川は、徳川家康の命で利根川の東遷事業が開始されるまでは利根川であったため、昔の名残で「利根川」と呼ばれていたのです。

  <写真3>

  (写真4>

「堀江ねこざね」と題する歌川広重の浮世絵(写真5)が描かれたとおぼしき浦安市堀江と猫実の間を流れる境川からも浮世絵と同方向に向けて写真を撮ってみました(写真6)。

  (写真5>

  <写真6>


 妙見島といい、境川といい、かっての長閑さは全く感じられない灰色の雰囲気に覆われた地帯になってしまっています。そんな雰囲気は、あの高い護岸と緑の不足がもたらしているのでしょう。取りあえず緑を増やすこと位、それ程お金を掛けないできるのと思われますがどうでしょうか。

下町の名所・旧跡を訪ねて  第4回『新川口から新河岸(常夜灯公園)へ』

2013年06月07日 | 下町散歩
 江戸庶民の一泊二日の手頃な旅行の代表が成田詣でした。日本橋小網町を船出した行徳船は、小名木川から中川口を経て新川に出て、新川口を経て行徳の新河岸までを行き来していました。そこから成田街道を徒歩や駕籠で成田山新勝寺へ向かうというのが成田詣でのお決まりのコースでした。
 江戸所代の新河岸は、最盛期には一日62隻もの行徳船が到着する賑やかな船着場であったようで、江戸名所図会の「行徳の船場」からもその賑わい振りが見てとれます。 


「行徳船場」の左下に「常夜灯」が描かれていますが、それは現在旧江戸川の高い護岸上に設置されております。
  


この護岸からの旧江戸川の眺めはコンクリートの高い護岸ばかり目につき、かっての長閑な雰囲気は殆ど感じられません。


地盤沈下の結果このようにならざるを得なかったようですが、著しく興趣を削がれていることは間違いありません。
「行徳の船場」右上に「名物ささやうどん」店が描かれています。有名なうどん屋だったようで、現在もその建物が残されています。


残念ながら現在は一般民家になっていて営業はされておりません。

とはいえ、この笹屋の一角には結構旧家が残っていて、訪ねる人の目を楽しませてくれます。是非足を伸ばしてください。