原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第17回「稙髪聖徳太子像を求めて(2)」

2013年11月30日 | 下町散歩

 稙髪聖徳太子像は、龍眼寺のお隣の亀戸天祖神社にあるのではないかとの期待を胸に、9月の午後、同神社を訪れました。



 社務所を訪ねてみると、幸運にも同神社の田中寛之宮司から稙髪聖徳太子像の有無についてお尋ねする機会を得ました。宮司は、「それは一子相伝ゆえ、あるともないともお答え出来ない」「この地域は昔から水害に悩まされたところで、同神社も何度か被害に遭っている」との含みのあるお話をされながら、「天祖神社御由緒」を手渡してくれました。
この御由緒には、「往年度重なる大洪水大地震、先の大戦等で、文検等流失・焼失し現存の記録、古老の言い伝えによれば」「創建は推古天皇御代(約1400年前)、厩戸王子(聖徳太子)作のご神像をご神体として祀る。」との記載がありました。聖徳太子像があるとの夢だけは持ち続けたいと思います。

 ところで、亀戸天祖神社では、この400年以上、例大祭の際は流鏑馬式が行われています。天正年間(1573~1592年)疫病が広まったため、織田信長が同神社に使いを送り、奉幣をするとともに流鏑馬式を執り行った。ほどなく霊験が現れたため、以後例大祭の度この式を行うようになったとのことです。田中宮司から、丁度私が訪れた6日前の流鏑馬の模様を記載した新聞のコピーを頂きました。



明治末期頃までは馬場で行われていたが、都市化が進み、馬場が確保できなくなって、的の前に立って矢を放つ「歩射」になってしまったとのことです。
都会で伝統的行事を続けていく難しさを思い知らされました。

話は変わります。主に都内の小学校の先生方の取材に基づいて、1959年(昭和34年)から産経新聞夕刊で「東京風土記」という漫画地図を中心とした100行(15字詰)の東京案内が始まりました。1961年(同36年)8月まで2年余り、日曜祭日を除く毎日、563回連載され、大好評を博したことがありました。
1993年、この記事が一冊の本にまとめられました。その中に亀戸天祖神社に関わる記載がありました。次回は、この記載を巡って些か脱線させていただきます。

下町の名所旧跡を訪ねて第16回「稙髪聖徳太子像を求めて(1)」

2013年11月14日 | 下町散歩

 佐伯泰英の居眠り磐音江戸双子11巻「無月ノ橋」で、亀戸天満宮の船着場から主人公居眠り磐音たちが、「萩の寺」と呼ばれた天台宗龍眼寺に向かったことは既に述べました。萩の花の咲く頃再度訪れるとの約束を守るべく、9月「萩の寺」に向かいました。満開とまではいかず、楚々とした咲き具合でしたが、元々地味な花なので、それはそれで味わいがありました。





 「無月ノ橋」34~5ページには、「この寺の寺宝は聖徳太子自ら彫ったという自像であった。その身の丈2尺5寸で、御像の頭には太子と妃の御髪が植え込んであるといい、稙髪聖徳太子堂とも呼ばれていた。龍眼寺に伝わる『太子縁起』によれば、推古天皇11年葵亥(603)、太子御齢32歳、同年11月28日檜隈の宮において霊木を得て自親影像を作り、斑鳩の夢殿に納めたまふ」「それがどうして竜眼寺に安置されているのか。戦乱の御世、あちらこちらに移された後、慶長7年(1602年)頃、南都大安寺および花洛蓮華王院、高尾の神護寺、豆州田方の般若王寺、相州鎌倉の法華堂、武州小菅の最明寺、江州滋賀菅原寺、摂州金胎寺等を転々とした後、宝暦12年(1762年)10月に武州荏原郡の清谷寺より竜眼寺に移り、安置されたそうな。」とあります。
龍眼寺の寺務所に「この寺に稙髪聖徳太子像があると聞きましたが・・・」とお訊ねしましたが、「そのようなお話は聞いたことがありません」との返事。
 佐伯泰英は、小説であっても丹念に史実を掘り起こしながらそれを作品に散りばめる作風とお見受けしておりますので、この記載は全くの創作とは思えません。もし本当なら、国宝級の木像が亀戸のこじんまりとしたお寺(とはいえ江戸名所図会にも紹介されている古刹です)に眠っていることになります。



 乏しい調査能力の範囲内で、萩の寺にまつわるあれこれを調べてみました。
 その中に龍眼寺と亀戸天祖神社は1395年(応永2年)僧良傳によって創建され、稙髪聖徳太子堂は亀戸天祖神社の地にあったとの記載がありました。
 また、同神社のHPには別当寺(神社を管理する寺)は龍眼寺との記載がありました。次回は亀戸天祖神社を訪ねてみます。