原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所・旧跡を訪ねて  第3回『西水門から新川口へ』

2013年05月31日 | 下町散歩
 中川口から荒川、新中川を東側に横切ったところにある西水門から、旧江戸川との合流点新川口まで約3キロメートルを新川といいます。江戸川区では2007年に「新川千本桜計画」を発表し、水辺に1000本の桜を植えて桜の新名所とし、江戸時代から続く新川の歴史に触れることのできる江戸情緒あふれる水辺づくりを目指すとしています。
 
 西水門広場には火の見櫓が建てられており


 水辺の両岸の並木とマッチして、心休まる景観を見せてくれています。
  
 
 
 ここから東側へ向けて両岸に遊歩道が作られていています。道端には釣り糸を垂れる人の姿がちらほらし、親子連れでカヤックを漕いでいる人もいます。

 
 まだ新川大橋の東側から新川口までの護岸整備は終わっていませんが、汚かった新川が見事に生まれ変わっています。あんな殺風景だった新川がこのように生まれ変わるとはと感心する一方、そもそも「新川千本桜計画」は歴史遺産を再現しようとするものではないのではないか。
 全く存在しなかった火の見櫓や江戸情緒溢れる橋や 
    
 桜並木を    
      
作ろうとしているのではないかとの疑問ももたげてきてしまいました。旧跡再現の在り方について考えてみる必要があるのではないでしょうか。

下町の名所・旧跡を訪ねて  第2回『(続)中川船番所を訪ねて』

2013年05月28日 | 下町散歩
 前回、中川口をご紹介しましたが、是非ともご紹介しておきたい絵図、浮世絵、写真がありますので、これらを中心にご説明させていただきます。
  (小さい写真はクリックしますと拡大表示します)

<写真1>

江戸名所図会中の「中川口」を描いた絵図です。
前回添付した写真 と同方向から描いたものです。

<写真2>

小名木川の上の空から東側に向かって中川口を描いた歌川広重の浮世絵です。
いずれも江戸郊外ののどかな雰囲気を感じ取ることができるかと思います。

<写真3>

大正時代に写真1とほぼ同方向から撮影した写真です。
この頃になると、中川口一帯は工場地帯に変貌していることが分かります。この頃から長らくこの一帯は、緑に乏しい灰色の工場地帯という余り人目を惹きそうにない地域であり続けていました。
そのため元々中川口が写真1~2のような場所であったことが忘れられていました。それが1995年の再開発によって現在のように生まれ変わっているのです。

<写真4、5>
   
ロックゲートを写したものです。
このロックゲートは、月1回観光船が出入りするときに開かれます。有名なパナマ運河等にあるもの同じもので、一見の価値はあろうかと思います。




下町の名所・旧跡を訪ねて 第1回「中川船番所を訪ねて」

2013年05月08日 | 下町散歩
現在の中川口



都営新宿線東大島駅から番所橋通りを南へ500メートル程行くと、小名木川(1枚目の写真)に架かる番所橋があります。以前から「変わった名前だな」と思っていましたが、それ以上のことは考えないまま今に至っていました。江戸末期の天保7年(1836年)に上梓された江戸名所図会を眺めていて、小名木川と旧中川の交差する「中川口」(2,3、4枚目の写真)を描いた絵図に目が行きました。そして、やっと番所橋は中川番所際にあるからこの名がついたと気が付きました。
 寛永年間(1624~44年)に関東一円の大改修工事が完了し、江戸城大手門から小名木川、船堀川を経て江戸川、利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されることになりました。中川番所は、延宝7年(1679年)、房総方面へ往来する船や荷物を監視するため、小名木川と旧中川の交差する中川口に設けられた関所でした。
 江戸は水郷の町といってよいくらい水路が張り巡らされ、水運は物資輸送の最重要手段となっていました。中川番所設置当時は、主に年貢米などが運ばれていましたが、商品経済の発達とともに酒・醤油・穀物・干鰯・小間物・呉服といった様々な商品が運ばれるようになっており、中でも行徳の塩は、江戸市中のみならず関東一円に運ばれていました。今では中々想像しにくいのですが、小名木川は江戸の生活物資流通の大動脈だったのです。
 中川番所は、昔からその存在は知られていたものの、歴史に埋もれたままになっていました。平成7年{1995年}に辺り一帯が東京都の防災拠点として再開発され、中川番所の跡地の発掘調査が行われました。その結果、鉢や茶碗、硯や瓦などが多数出土し、それらは平成14年(2002年)10月、中川番所跡地のやや北側に竣工した江東区中川船番所資料館(5枚目の写真)に展示されています。
 小名木川は、かっては旧中川を経て、その東側の船堀川を通じて行徳方面へ続いていましたが、現在は中川口で途切れてしまっております。それは、もはや小名木川が昔日の水運の動脈としての役割を終えてしまったということもあるでしょうが、旧中川の東隣を流れる荒川と旧中川の水面の高低差が1・5メートルもあるということが大きいと思われます。
 旧中川自体も、中川口のやや下流で途切れてしまっておりますので、もはや正確な意味では川と言えなくなっているのかもしれません。その代わりと言ってよいのかどうか判りませんが、旧中川の終点にロックゲート(6枚目の写真)が設けられており、荒川と旧中川の高低差1.5メートルを乗り越えて船が行き来することができるようになっております。
 さて現在の中川口です。私は2013年4月20日に中川口を訪ねましたが、辺り一帯は水辺公園として整備され、周遊バス、水上バスなども行き交うピクニックコースとなっています。中川船番所資料館に入館すれば、かっての賑わいぶりに思いを馳せることもできます。私が成少年時代を過ごした昭和30~40年代のうらぶれた灰色の工場地帯の雰囲気が、緑溢れ、心安らぐものに変わりつつあります。
 1~2時間で行って来ることができる、美しい水辺です。水運に携わった江戸町民の生活に思いを馳せながら水辺を散歩すれば、下町が好きになることは間違いありません。一度足を運んでみてはいかがでしょうか。