原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第23回「隅田川七福神めぐり(2)」

2014年01月28日 | 下町散歩
 隅田川七福神めぐりの歴史は、文化元年(1804年)向島百花園に集った文人達の発案に始まるとされています。
 園主佐原鞠塢(きくう)は、福禄寿の陶像を愛蔵していました。ある初春の一日、百花園で風流に浸っていた文人たちが誰ともなく、福禄寿にちなんだ正月の楽しみ事はないかと言い出し、七福神ができないかという話になりました。
 多門寺に毘沙門天が、長命寺に弁財天が祀られていることは分かっていましたが、何とか七福神を揃えようと考えを巡らせ、三囲神社に恵比寿・大黒天の小祠が、弘福寺に布袋和尚の木像があることが判明しました。
 しかし、残る寿老人が中々見つかりません。思案を巡らす内、白髭明神は白髭というからには祭神は白い髭のご老体であろうから、これを寿老人としようとなって、七福神が揃ったと言われています。
 因みに隅田川七福神めぐりを始めた文化人としては酒井包一、太田南畝(蜀山人)、加藤千陰、村田春海らが知られています。
佐原鞠塢

酒井抱一

太田南畝

加藤千陰

村田春海

 この隅田川七福神めぐりは、一巡り4キロの適度の距離と墨堤沿いを遠景の筑波山や数々の史跡を眺めながら散策できることで人気になりました。しかし安政の大地震や明治維新の混乱期のため、明治期前半には一時衰退したと言われています。
 明治31年(1908年)、地元向島の人々を中心に榎本武揚ら政府要人、大倉喜八郎ら財界人も巻き込んで「隅田川七福会」が結成され、隅田川七福神めぐりが復興されました。
榎本武揚

大倉喜八郎

 明治41年(1918年)には、北村霊南、当舎宝仁らが発起人となって「七福神案内碑」が建立されるなど、再び隆盛を迎えるようになりました。再興後1世紀を経た現在、初春の風物詩としてすっかり定着し、今日では遠隔地からも多くの人々が訪れ、巡拝者数は七草後も加えると年間数万人にも及ぶと言われています。

下町の名所旧跡を訪ねて第22回「隅田川七福神めぐり(1)」

2014年01月23日 | 下町散歩
 七福神めぐりは、正月元旦から7日までの間に7つの福徳の神を祀る社寺を回って開運を祈る行事です。
「最澄が比叡山で大黒天を台所の神として祀り始めた。その後、大黒天信仰が民間で土着の恵比寿信仰と結びついて一組で信仰されるようになり、平安以降は、これに鞍馬の毘沙門天を加えた三神信仰が広まった。平安末期から鎌倉期になると、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになり、毘沙門天を除いて弁財天を加える三神信仰が広まっていった。室町時代に入ると、中国から仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人信仰が伝わり、室町末期に関西で7柱の神仏が一組となり、江戸期に現在のような七福神の顔ぶれに定まった。」
七福神の歴史を概観するとこうなります。

 その起源が最澄にまで遡ると言えば古い歴史を誇るとも言えますが、その顔ぶれが定まったのは江戸期に過ぎないので比較的新しい行事ということも出来ます。

 まず七福神「毘沙門天」「寿老人」「福禄寿」「弁財天」「布袋尊」「恵比寿」「大黒天」の顔ぶれを、多門寺を出発点とする隅田川七福神めぐりの順路に従って簡単に紹介しておきましょう。

 「毘沙門天」(多門寺)
 ヒンドゥー教のクベーラ神が仏教に取り入れられた。上杉謙信が篤く信仰したことで有名で、勝負事の神様。

 「寿老人」(白髭神社)
 福禄寿の三星中の寿星が単独で日本に伝わったものと言われ、長寿・幸福の神様。

 「福禄寿」(向島百花園)
 道教に由来する福星・禄星・寿星の三星を神格化した三体一組の神様。福徳と長寿の神様。

 「弁財天」(長命寺)
 ヒンドゥー教の女神サラスヴァテイ神に由来する学問と財福の神様。

 「布袋尊」(弘福寺)
 唐の明州(浙江省寧波)に実在した仏教僧。開運・良縁・子宝の神様。

 「恵比寿」(三囲神社)
 唯一の日本土着の神で、商売繁盛と五穀豊穣の神様。

 「大黒天」(三囲神社)
  ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命と神仏習合して豊作の神様となった。
 次回は、隅田川七福神めぐりの由来を探ります。

下町の名所旧跡を訪ねて第21回「古民家シリーズ(3)」

2014年01月17日 | 下町散歩
 下町の古民家を訪ねてシリーズ第三回は、江東区の旧大石家住宅を訪ねました。その建物は地下鉄東西線南砂町駅の北側へ徒歩10分程の仙台堀公園内にあります。元々江東区東砂8-21に建てられていた建物でしたが、1996年(平成8年)ここに移築された、江東区内で一番古い民家です。屋根裏から発見された150枚以上の祈祷札などから今から160年ほど前に建てられたと見られています。
安政の大地震、大正の大津波、関東大震災、東京大空襲といったいくつもの災害を免れ、建築当初の姿をとどめている貴重な建物です。木造平屋寄棟造の土間に床張り二間、畳敷き二間があり、床面積は24.03坪となっています。



 江戸時代二階建ての建物の建築は禁止されていました。しかし、この地域は江戸時代よりいわゆる江東ゼロメートル地帯で、しばしば水害に悩まされたところでした。そのため大石家では、浸水時に避難生活を送れるように、屋根裏が広く頑丈に作られていました。庶民の知恵が目一杯発揮された好例でしょう。



 屋根裏へ登るための梯子も常備されていました。


 大石家周辺の家々の多くは、砂村ねぎ等の畑作を中心とした農業と海苔の養殖を行う半農半漁の生活をしていました。上の写真中、梯子の前に写っている道具が海苔作りに使う道具類です。
 この当時の海苔とりの様子を描いた浮世絵が残っています。今この地域では到底見ることができない長閑な雰囲気を味わってみてください。



 東京の海苔は浅草海苔と言われることがありますが、浅草で海苔がとれたのは元禄(1688年)頃までで、実際にとれていたのは砂町も含めた深川や品川でした。そこら辺の事情は、元禄5年の次の狂歌からうかがわれます。

「武蔵なる浅草のりは名のみなり おこころざしの深川のもの」

 残念ながらこの地域での海苔とりの風景は、埋め立てと工業化が進んだ1960年代には殆ど見られなくなってしまいました。

下町の名所旧跡を訪ねて第20回「古民家シリーズ(2)」

2014年01月11日 | 下町散歩
 下町の古民家を訪ねてシリーズ第二回は、墨田区の立花大正民家園内の旧小山住宅を訪ねます。JR平井駅の北側へ徒歩10分程の旧中川西岸沿いに旧小山家住宅があります。1998年(平成10年)墨田区のものになり、翌年から区立公園として開園しました。ここへは旧中川の縁から随分と下って行かなければなりません。地面が相当低いことが分かります。
 

 約410坪ある庭は大変手入れが行き届いて、ヒマラヤスギ、モッコク、ツゲ、モチ等の木々が生い茂っております。
 

 そして木々の間には庭石、灯篭、七福神石造等が配されていて、しばし時を忘れさせてくれます。
 

 さて肝心の旧小山家住宅です。1917年(大正6年)平井・吾嬬を中心に活躍した大工田口鉄五郎(通称大鉄)の手になるもので、格子窓や格子戸等は江戸時代の町屋の伝統が色濃く出ていると言われています。格子窓は、次の写真に写っている窓です。
 

 格子戸は、次の写真の右側に写っている引き戸です。
 小柳ルミ子が歌って大ヒットした「瀬戸の花嫁」の一節「♪格子戸を潜り抜け~♪」と歌われた「格子戸」、と言えば分かる方が多いのではないでしょうか。
 
 
 近代以降の一般住宅においては、接客空間に比重が置かれ、奥の座敷は客間として転用されることが多いとされており、この旧小山家住宅もその形式を踏襲していると言われています。
 また天井は根太天井として丈夫にし、水害時に貴重品や生活用具を屋根裏に引き上げ、一定期間そこで生活できるようになっています。
 

 何度となく水害を蒙った経験から生み出された生活の知恵なのでしょう。今更ながら、この地域が昔からゼロメートル地帯であったことを思い知らされます。