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原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第30回「立石様(1)」

2014年05月04日 | 下町散歩
  このシリーズで初めて葛飾区に足を踏み入れました。訪れたのは「立石様」です。京成の立石駅から徒歩7~8分程の ところにその方は鎮座されております。
  江戸名所図会では、立石様は「立石村五方山南蔵院といへる真言宗の寺境にあり。地上に顕れたる所わずかに一尺(約 30センチ)ばかりなり。土人相伝えて、石根地中に入ることその際りをしらずといえり」と紹介されておりました。要 するに根が知れないほど深いということですが、この石が有名になったのはそれだけの理由ではありませんでした。この 石は冬になると縮こまり、春になると縮こまったところが膨らんで元の形となる不思議な石だということで村民たちは、 この石を立石様と呼んで親しみ、信仰の対象ともしてきたのです。
  この不思議な石は、次回ご紹介する熊野神社の石棒とともに葛飾名物となり、江戸市内からも大勢の見物客が訪れ、江 戸名所図会で紹介されるまでになっていたのです。
  
  さて、その立石様です。何とブランコ・滑り台・シーソーだけの小さな児童公園内の一角に、子供の背丈ほどの小さな 鳥居が建っています。
  
  
  児童公園内に建っているので、おもちゃの鳥居かと思って近づくと、傍に葛飾区教育委員会の説明版がありました。
  鳥居の建っているところは「立石祠」で、昔から「立石様」と呼ばれて立石の地名の起こりとなった。祠の鎮座してい る石は、鋸山の海岸部に産する凝灰岩で、古墳時代後期の古墳石室の石材として運び込まれたが、官道整備の際の道標に 転用されたものと推定される。とあります。
  
  早速立石様を拝もうと不躾に祠を覗いて見たのが次の写真です。
  
  病気に効くとか、日清・日露戦争時に弾除けのお守りになるといった信仰から、立石様を欠いて持っていく人が絶えな かったせいでしょうか?現在の立石様のお姿はよく見ないと分かりません。
  「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の感無きにしも非ず。
  それにしても、立石様は、立石町民の皆さんのルーツなのです。もう少しそれに相応しい遇し方があってもよいのでは ないでしょうか。

下町の名所旧跡を訪ねて第29回「隅田川七福神めぐり(8)」

2014年04月19日 | 下町散歩
  弘福寺を南へ徒歩2~3分で最後の三囲神社に着きます。同神社が文和年間(1353~1356年)近江三井寺の僧 源慶による再興が実質的な創建とされていること、及び、その名の由来は、本ブログ第14回で述べた通りです。
 社殿は、安政の大地震後の文久2年(1862年)大工平野忠八によって再建され、関東大震災、戦災をも免れた貴重な 建物で、江戸末期の様式を見ることができると言われています。
    
  境内には年輪を重ねた石造物とりわけ著名な石碑が多く設置されており、本ブログ第14回で述べた其角の句碑以外に も、三井家から奉納された延亨2年(1745年)奉納の石造狛犬、寛政11年(1799年)4月の銘がある一対の石 造常夜灯、享和2年(1802年)12月奉納の石造神狐などがあります。
   
  中でも是非紹介しておきたいのは、境内の南西端、恵比寿大国神祠の南の高さ152センチ、幅142センチの「一勇 斎歌川先生墓表」です。一勇斎歌川と言われて分からなくても、歌川国芳と言えばお分かりの方もいるでしょう。「通俗 水滸伝豪傑百八人一個」の連作で武者絵の第一人者と言われ、風刺画、擬人画、風景画、肉筆画などあらゆる分野で高い 水準の作品を残した浮世絵師で、近年の研究では北斎と並ぶ浮世絵師としての評価が高まっております。
   
  次いで大鳥居も紹介しておかなければなりません。徳川吉宗の時代に治水のため中州を取り払って土手を盛り上げたた め、下流から船で来ると鳥居がまるで土手に突き刺さったように見えたことから「土手下鳥居」とか「せり出し鳥居」な どと言われ、見えそうで見えないことから男女の心の動揺の比喩にも用いられて、小説・小唄・川柳などにも登場しました。安政の大地震で倒壊し、久2年(1862年)三井家によって再建されました。
   
  最後に隅田川七福神の掉尾を飾る恵比寿様、大国様に触れなければなりません。恵比寿は漁業の神様、大国は農業の神 様とされますが、この二神、商売繁盛の神様として一組で祀られることが多いようです。三囲神社の二神は、いずれも像 高18センチ、享保年間(1716~1736年)、三井高房によって寄進された古木を削って作った小さな素朴なお像 で、ここにも三井家の存在が見てとれます。

  

下町の名所旧跡を訪ねて第28回「隅田川七福神めぐり(7)」

2014年04月08日 | 下町散歩
 
 長命寺の南隣が弘福寺です。京都宇治の黄檗宗萬福寺の末寺で、江戸期には関東黄檗四刹の一つとして知られました。延宝元年(1673年)小田原藩稲葉正則が開基し、鉄牛禅師を開山に迎えて現在地に移って堂宇を建てたと言われており、江戸名所図会でも紹介されています。
  

 安政の大地震、関東大震災の2度の震災によって被災し、昭和8年(1933年)、現在の山門、鐘楼、方丈、客殿、庫裏とともに大雄宝殿が再建されました。
 
 
 このように弘福寺は度重なる震災で創建当時を偲ばせるものは少なくなっておりますが、銅製の梵鐘は希少文化財となっております。銘文によれば、貞亨5年(1688年)に製作されたことが分かります。江戸期には3万に及ぶ梵鐘が製作されましたが、現在確認されているところでは、墨田区内の寺院が所有する梵鐘の中で最古のものと言われています。
 
 さて、肝心な布袋様です。
 向島百花園に集った文人達は、弘福寺には布袋和尚の木像があるとして、この和尚を七福神に加えました。
しかし、大雄宝殿に安置されている布袋様は座高40センチの銅造布袋尊坐像です。大倉喜八郎がインドから取り寄せたものを寺に寄進したものですので、
 当初の布袋様ではありません。布袋様は唐代の実在の禅僧で、常に布の大きな袋を持ち歩き、困窮の人に遭えば惜しげもなく財物を施し、その中身は尽きるところがなかったと言われています。真の幸せとは欲望を満たすことではないことを身をもって示し、世人の尊敬を受けました。この坐像は些か金満家風気の雰囲気がしなくもありません。お寺の表看板ゆえ磨き挙げているだけのことなのかもしれませんが、布袋様は、内心「俺は金持ちとは正反対の生活をしてきたんだけどな」と困ったお顔をされているのではないでしょうか。

 

下町の名所旧跡を訪ねて第27回「隅田川七福神めぐり(6)」

2014年03月30日 | 下町散歩

  向島百花園から水戸街道に出て、南下すること15分程で長命寺に到着します。長命寺は元和元年(1615年)頃の 創建と伝えられ、元は常泉院と号していました。寛永年間(1624~1644年)三代将軍家光が鷹狩に訪れた際に体 調を崩して同寺に休息し、境内の井戸水を汲んで薬を服用したところ、たちどころに痛みが消えて快癒したため、家光が その井戸を長命水と命名し、寺号を長命寺と改めたと言われています。


  このような長命寺の由来を記しているのが「長命水石碑」です。


  長命寺は、境内に名碑が多いことでも有名です。その中から二つだけ紹介します。
  江戸時代長命寺は雪見の名所として知られ、多くの人が雪見に訪れました。
  そこで芭蕉の雪見の句碑を一つ。
  「いざさらば雪見にころぶ所まで」
  但し、この句、名古屋の書店風月堂で吟じたと言われています。


  もう一つは「五狂歌師辞世の句連碑」という面白い石碑。その中から十返舎一九の辞世を紹介します。
  「此世をばどりやお暇にせんこうの 煙と共にはい左様なら」



  長命寺と言えば「長命寺桜もち」に触れないわけにはいきません。
 長命寺の門番であった山本新六が、享保3年(1717年)、墨堤の桜の葉を利用した桜餅を思いついて作り出したもの と言われています。桜もち屋山本屋は明治21年(1888年)頃、正岡子規が下宿していたことでも有名です。

  さて肝心な弁財天です。
  像高18センチ、琵琶湖竹生島の宝厳寺の像を勧請したもので、最澄の作と伝えられています。


下町の名所旧跡を訪ねて第26回「隅田川七福神めぐり(5)」

2014年03月25日 | 下町散歩
  白髭神社から徒歩5分程で、向島百花園に着きます。文化4年(1804年)骨董屋として財を成した佐原鞠塢(きく う)によって造園されました。かねて付き合いのあった文人達から寄贈された梅樹360株を植えて梅園とし、亀戸の梅 屋敷に対して新梅屋敷として知られるようになっていきました。

  池波正太郎の剣客商売二の「不二楼・欄の間」の章に、主人公秋山小兵衛が四谷の御用聞き「弥七」と、かねてなじみ の浅草・橋場の料亭「不二楼」の淡い夕闇漂う庭先を見ながら「見よ、弥七。梅は百花に先駆けて咲くが、それだけに、 また、得もいわれぬ気品があるのう」「ははあ・・・・」「春もやや、けしきととのう月と梅・・・こんな句を聞いたこ とがある。むかしの、何とやらという俳人の句じゃというが・・・」「風流なことで」といった会話を交わすシーンがあ ります(文庫本295ページ)。この会話に出てくる「何とやらの俳人」芭蕉の句碑がここにあり、「春もやや けしき ととのう 月と梅」と読めます。
  
  新梅屋敷と呼ばれるようになって以後、各地の名花名草が集められ、次第に百花園と呼ばれるようになってきました。 江戸名所図会からも、その賑わいぶりがうかがわれます。
  

  今に残る東京の名園は,その殆どが大名藩邸ですが、ここは町人文化の粋と隅田川情緒が結実したところに特色があり ます。とはいえ、この百花園も明治以降周辺地域の近代化や度重なる洪水により荒れ果てていたと言われています。19 39年(昭和14年)東京市に譲渡され、現在は史跡に指定されております。
 栞門の「花屋敷」の額は太田南畝揮毫の額を複製したものです。
     

     
  尊像は、佐原鞠塢遺愛の像高35センチの陶製福禄寿坐像です。東京大空襲の際にも、この像だけは焼け残ったといい ます。
      
  向島百花園は秋の七草その他秋の花の美しさで知られています。ぜひ秋の七草の季節に訪ねたいものです。