NINAの物語 Ⅱ

思いついたままに物語を書いています

季節の花も載せていきたいと思っています。

ひかり(1)

2010-03-25 16:42:39 | ひかり
 片田舎の春はまだ寒い。
早朝から晴美は気持ちよく眠っている子供たちを起こした。
長女の美香と長男の和樹を連れて夫の健太のいるロスアンゼルスへ一週間だけ遊びに行くために関空へと向かった。
バッグには魚の干物や海苔、醤油、味噌、かき餅など日本で食べているものを健太のために入れた。
同居している晴美の母は隣町に住む妹の千夏が留守中預かってくれるので、昨日千夏の家に車に乗せられて連れて行かれた。
 夫の健太は二年前に勤めている会社のロスアンゼルス支社へ転勤になり、本来なら晴美も子供たちも付いていくはずであったが、晴美の母が脳梗塞を患い二人姉妹の姉の晴美が面倒を見ることになって、健太は単身赴任をせざるを得なかった。
子供の夏休みと春休みには一週間程度遊びを兼ねて会いに行くことにしている。

 飛行機の中では小学1年の美香と幼稚園児の和樹が父親に会うことより外国旅行に行く方が嬉しそうで、持ち込んだ小さなゲーム機ではしゃいでいた。
それでも空港に着くと子供たちは、迎えに来てターンテーブルで荷物を探している健太を見つけ、走り寄って抱きついた。
健太も子供たちをかわるがわる抱き、頬ずりをして嬉しそうだ。
正月も仕事が溜まっていると帰ってこなかったので父子が会うのは昨年の8月の夏休み以来7カ月振りだ。
「大きくなったなあ。美香もおねえちゃんらしい顔になったね。
和樹もしっかりママのお手伝いをしているか。」
目を細めて子供たちに話しかける健太の顔を見て晴美は驚いた。
青白く痩せ細っているのだ。

 彼のアパートメントホテルは広い通りに面していて、ダイニング、リビング、ベッドルーム全てが驚くほど広い。
大きな窓から明るい光が差し込むリビングにはソファーが対面して置かれ、その横の机にパソコンがある。
ここで健太は会社から帰ったら仕事をしているのだ。
この家族がここで生活をするには充分な広さである。
今、日本で住んでいる建て売りの一戸建て住宅は狭い部屋が数個あるだけで、この広々とした明るい部屋に子供たちは大喜びである。
翌日から健太は仕事に没頭し始めた。
朝は子供たちが目覚める前に家を出て会社に向かう。
夕方帰宅すると、リビングルームの隅に置かれている机のパソコンに向かって夜遅くまで仕事をする毎日である。
晴美は朝食と夕食はここのキッチンで作っているが、健太がこのキッチンを使った形跡がない。
昨年の夏に来た時、晴美が買い揃えた調味料が少しも減っていない。
ということは毎日健太は外食かファーストフードを食べているのだろう。
昼間、晴美は子供たちを近くのリトル東京やユニバーサルスタジオへ連れて行ったり、サンタモニカの市場やビーチを歩いたりして過ごした。
あっという間に一週間は過ぎてしまった。
健太が子供たちと接したのは夕食時だけだった。
「ああ、この子たちがいるから俺は頑張れるんだ。」
娘や息子の顔を見ながら言う健太が自分自身を元気づけているように晴美には見えた。
「楽しかったか?
ごめんな。パパが一緒に付き合ってやれなくて。
今どうしてもやってしまわなくてはならない仕事があるんだ。」
「いいよ。ママと一緒に行って遊んだから楽しかったよ。
またパパのところに遊びに来るからね。」
子供は屈託のない返事を返す。
しかし夫と離れ離れの生活がまた始まる寂しさで晴美は日本へ帰るのが辛かった。
出来ればずっとここにいたいと思う。
子供たちも本心は父親と一緒にいたいのではないだろうか。
幼心に親に気を使わせているのではと胸が痛くなる。

ひかり(2)

2010-03-25 12:46:46 | ひかり
 関空から乗った電車から見る大阪の風景は大小の家が混然と入り混じって とても美しいとは云えない。
しかしアメリカから帰って来ると、あちらのすっきりと大きな建物が建ち並ぶ風景に違和感を抱くのか、小さな家がひしめき合うように建っているこの風景にいつも日本に帰ってきた安堵感を味わうのだ。
重いキャリーケースを引きずって子供たちと家にたどり着いた。
門扉を開けると狭い庭に、木いっぱいに咲く桜の花が目に入ってきた。
長女の美香が生まれたとき、嬉しくて健太と一緒に小さな苗木を買ってきて、この庭に植えたものだ。
毎年桜の花の咲く頃に、この木の生長を見ながら娘の成長を祝ったものだ。
この前 ロスアンゼルスに発つときには固いつぼみだったのに、もうこんなに美しく咲いている。
健太に見せてあげたい。今夜メールで知らせようと晴美の心は浮き立った。
ロスで買って航空便で送った土産が翌日届いた。
早速近所や親戚に子供たちと配り歩いた。
親しくしている近所の家へ土産を持って行くと、美香と和樹はユニバーサルスタジオなどで遊んだことを子供らしく楽しそうに そこの主婦に話した。
「いいわね。お宅はいつでも行こうと思えばアメリカへ行けるんだもの。」
と羨ましがられ、近くに夫のいない寂しさと不安を理解してくれていないと晴美は少し不満に思う。
夫の実家へ行けば、
「健太も一人でかわいそうね。元気にしていましたか。」
と姑が訊ねる。
その言葉に健太の青白く痩せこけた顔が脳裏に浮かび、「ええ。」とだけ曖昧な答えしか出来ない。
早々にいとまを告げ妹の千夏の家へ行った。
千夏の子供は晴美の子供より一歳ずつ年下でよい遊び相手となり、家の中を四人で飛びまわって遊んでいる。
「今日はここでお泊りする。」
美香が言うと和樹も、
「ぼくもお泊りしたい。」と言う。
「いいわよ。泊っていきなさい。」
千夏が許したので、
「それじゃあ 一晩だけね。」
と晴美は半身不随の母だけを連れて家に帰ることにした。
 
 門の前で車を停め、母親を支えて家の中に入り彼女をベッドに寝かせた。
そしてまた外に出てカーポートに車を入れて、門扉を閉め振り返った。
暮れて間もない空に紗をかけたようにうっすらと小さな星が数個またたいている。
外気はひんやりと冷たい。
今日は忙しかったなあ、と晴美は両手を上げて大きく「はあー」と深呼吸をした。
すると突然、家の右上の空にピンポン玉大の黄色い光が目に映った。
その光はだんだん大きく赤みを帯びてゆっくり近づいてくる。
月ほどの大きさになり、ぼんやりした光になって晴美の家の屋根の中央で止まった。
こんな光は見たことがなく晴美は目をそらすことが出来なくて、身震いをしながらじっと見据えていた。
するとその光の中に、何と健太の笑顔が見えるではないか。
目をしばたいてもう一度よく見た。
それは先日見た頬のこけた顔ではなく、若い頃のふっくらした健太の顔であった。
「健太さん。」思わず晴美は叫んだ。
その途端 光がすうっと消えた。
「健太が一人でかわいそう。」と言った姑の言葉が気になっていたのか、それともロスで見た痩せた健太の姿が心配になっていたのか。
そんな理由で幻想を見てしまったと晴美は思った。
「私疲れているんだわ。」
幻想を振り払うように頭を振りながら家に入り、母親と二人だけの晩飯の支度に取りかかった。
母親の好きな野菜の煮物を作ろうと大根を切っているそのとき 電話のベルがなった。
受話器の向こうから男性の声が聞こえてくる。
「健太さんの同僚の山口と申します。
実は昨夜オフィスで健太さんが急に倒れられて、近くの病院に運ばれました。
暫くして心臓が停止した状態になり、蘇生処置をしていろいろ手を尽くしてもらいましたが、残念ながら助かりませんでした。
まことに急なことでお気の毒で・・奥様も驚かれたことと・・・・・・・」
ここまで聞いて晴美の頭は思考することも相手の声を聞くことも出来なくなってしまった。
ただぼんやりと赤い光が目の前にゆらゆら動いている・・・

ひかり(3)

2010-03-25 11:48:14 | ひかり
 ようやく四十九日も過ぎ落ち着いたかに見える晴美だが、心の中はぽっかりと穴が開いたように虚ろだった。
子供たちを学校や幼稚園へ送りだすと、ダイニングの椅子に腰掛けてぼんやりと窓の外を眺めてはいるが何も目に入ってはいない。
母の八重子が足を引きずりながら壁伝いにダイニングルームにやってきた。
「桜の新緑が美しいね。」
と言いながらレースのカーテンを開けた。
晴美は我に返り、目の前の桜の木がこんなに葉を茂らせているとは気付かなかった自分に驚いた。
あの不幸な電話がかかってきた日の朝、子供たちと土産配りに出掛ける際、この桜は花が美しく咲き、ヒラヒラと花弁が自分や子供の肩に散っていたことを思い出す。
あれから木や花のことなどに気を留める余裕もなかった。
外に出て改めて庭を見て見るとパンジーやアネモネなど春の花が開花時期を終え、茶色く枯れて雑草が生い茂っている。

 晴美の家庭は金銭的には健太の死亡退職金や保険、八重子の年金などで暫くはやっていけるが、これからの生活や子供の将来を考えると働き口を探さなくてはならない。
しかし晴美にはそんな行動を起こす気力もなく、ただ楽しかった過去と今の寂しさが去来するのみで思い出しては涙にくれる毎日なのだ。
あの赤い光でいいから健太に会いに来てほしいと願う。
「そんなに毎日メソメソしていないで、お買い物で楽しんでくるか外でも歩いてきたらどうなの。」
母の言うことをきいてショッピングセンターに行ってみたが、出会う人々の顔が皆幸せそうに見えて余計に切なくなる。
そうだあまり人に出会わない山を歩いてみよう。
思いつくと晴美は翌日自宅から見える近くの山に行くことにした。
杉林の続く暗く細い道路を車で登っていくと周囲2kmほどの池がある。
その横に車を停め、池の周りについている狭い山道を歩きだした。
緑の低木に覆われたその山道は木の根が出ていたり、アップダウンがあったりとかなり歩き難い。
注意深く足を運んだ。
池を見ると周囲の木々の緑と青い空が水面に映って素晴らしい景色だ。
子供が生まれる前は度々健太と二人でここを歩いた。
秋にはこの緑の木々も鮮やかな紅葉に染まり、青い池との対比が美しくて二人で感嘆の声を上げたものだ。
確かこの時期にも来たことがあり、野草の名前を健太から教えてもらったことがあると周囲を見回すと、岩に張り付いたように丸い葉があり、その上に房の先をハサミで細かく切ったような可愛いピンクの花が其処此処に咲いているのを見つけた。
名前は何だったかしら。確かイワカガミ?いやオオイワカガミと言ったかと健太の顔を思い浮かべながら、かすかな記憶を辿ってみる。

ひかり(4)

2010-03-25 10:50:53 | ひかり
晴美は健太との思い出の場所を確かめるように歩を進めた。
池の周囲の道を半分ほど来たとき、木の枝でよく分からないが前方に人影を見たような気がする。
慎重に足元に注意しながら歩いて行くと、10mほど先に白いパーカーに白いズボンと帽子の男性らしき人物が立って池の水面をじっと見ている。
その後ろを通り抜けて進もうかと思ったが、誰も他に人のいないところなので危険かもしれないと引き返した。
翌日の午後、晴美はまたあの池に向かっていた。
晴美自身も不思議に思える。無意識に足が池に向かっているのである。
昨日と同じ山道をあのピンクの野草を見ながらも注意深く歩いた。
すると昨日と同じ場所に同じような人物がまた池を見つめている。
今日も引き返そうかと思ったそのとき、その人物が晴美の方を向いた。
晴美はその顔を見て息をのんだ。
色白で鼻筋の通った面長のすずしい目元をした美形の若者なのだ。
顔を見てから引き返すのも悪いと思い、
「こんにちは。」
と声を掛けると若者はにっこりと笑顔で返した。
彼の後ろをすり抜け、振り向くこともなく急いで池を回って車を停めている所に戻ってきた。
胸がドキドキ動悸を打っている。
これまで見たこともない美しすぎる男の顔を見て、怖ろしさの方が先立った。
車に乗ると震える手でハンドルを持ち、杉林の中の細い道を逃げるようにスピードを出して下った。
一体あの若者はあそこで昨日も今日も何をしていたのだろう。
釣りをしているようでもなかったと、晴美は考えながら全身から冷や汗が噴き出るのを感じていた。

 あんな体験をしてから晴美は何故か憑き物が落ちたかのように元気になり、庭の手入れを始めたり、部屋の模様替えや健太の遺品の整理に余念がなかった。
あの日以来あの山の池には近付かないようにしている。
この年もまた何事もなかったかのように梅雨の季節がやってきた。
しとしと降る雨に庭に植えた草花が生き生きと葉を伸ばし、桜の木やサツキが鮮やかな緑を燃え立たせている。
先日から晴美には気になることがある。
雨戸を閉めるとき、山の方を見ると雨の夜の闇の中に山の一部がぼーと白く見える場所がある。
大きさもほんの小さくサッカーボールほどで弱い光なのだが、山の中から光が漏れてくるようにもみえる。
見付けた日から毎夜気を付けて見ているが、毎日ではなく時々見られるのだ。

ひかり(5)

2010-03-25 09:51:56 | ひかり
 晴美は夫を失った悲しみのためか何かと苛立ち、ささくれ立った感情が表面に現れるのを抑えられなかった。
母の八重子の症状もリハビリのお陰かかなり良くなり、右手足は自由に動かせないものの自分のことはほとんど介助なしでやれるようになってきた。
しかし何をするにも時間がかかる。そんな母を見ていると心の荒れているときの晴美は母がじれったく、また腹立たしくも思える。
娘の美香は小2になったが宿題や片付けを一人でしようとしない。
晴美に急かされて嫌々やりだすが、そこへ和樹が邪魔をしに来る。
ヒステリックな声を出して二人を叱りつける毎日だ。
しかしこのところあの闇の中の白い光を見ていると、何故か胸のあたりが温かくなって優しい気持ちになる。
母の八重子や子供たちにも落ち着いた気持ちで接することが出来るのだ。
白い光は健太との思い出のあの池の辺りから発しているように見える。
梅雨が明けたらもう一度あの池へ行ってみようと、明るい光の降り注ぐ夏が来るのを心待ちにしていた。
 7月半ばに入り、やっと梅雨が明けた。
木や草、土からむんとする暑さが立ち昇り体中から汗がにじみ出る。
「この家は風通しが悪いわね。」
八重子がダイニングの椅子に掛けて、リモコンを左手で操作してエアコンを入れた。
「そうね。この辺は冬が寒いので日当たりのことばかり考えて、夏の暑さを想定しないで家を買ってしまったわ。」
晴美は窓を閉めながら、この家は失敗だったと今更ながら思っている。
この時期の来るのを待っていた晴美は、子供たちのいない午前中に例の山の池へと向かった。
あの光は確かこの辺りから出ているように見えたが、と周囲を見回したり歩いてもみたがそれらしきものは見付けることは出来ない。
強い日差しに汗が滴り落ちるが拭くこともせずに、木の根を避け凸凹道の池の周りを歩いた。
あの美しすぎる若者の姿もなく、池はいつものように静かで青空と緑の木々を映して、時折蝉の声が聞こえるだけだった。
 子供たちが夏休みに入り、妹の千夏の子供たちが晴美の家に遊びに来たり、美香と和樹が千夏の家に遊びに行ったりと父親がいなくても子供たちは結構楽しそうに毎日を過ごしている。
時には千夏の夫が皆を海や山に連れて行って楽しませてくれた。
妹の家が隣町で近いこともあり、妹夫婦が晴美の家族に心配りをしているようだ。
夏休みに入ってから晴美は、毎日家事に追われ子供に気を取られているうちにあの光のことをすっかり忘れている。
健太が単身赴任になって以来、夫のいない生活には慣れていたがメールや電話での会話を週に2~3回は必ずしていた。
それが夫婦の心の交流であり絆でもあった。
心を満たすもの、頼るもののない今は空にフワフワ浮いている風船のようにすがるものもなく不安定に心が落ちつかない。

ひかり(6)

2010-03-25 08:53:08 | ひかり
 もの憂う秋がやってきた。
庭の桜の葉が赤くなり、家から見える山も少しずつ赤や黄に濃く染まってきた。
街路樹のイチョウの葉が散り、草木が茶色を帯びてくるに従い、心のすき間を埋められない晴美は将来への不安もあり寂しさがどんどん増してくる。
子供たちは学校や幼稚園で、今日も晴美は母の八重子と二人で昼食をとっていた。
前日の残りの野菜の煮ものと鶏のから揚げ、八重子にはイワシを焼いた。
「そろそろ勤めに出ようかしら。
お母さんもこの頃元気になったし、午前中だけの仕事なら何とか勤められそうに思うの。」
「家の中にいると気の滅入ることもあると思うけど、健太さんの一周忌が済むまでは外に出ない方がいいのじゃないかしら。」
「今日ね、大通りの坂口歯科の入口に<受付事務員募集>の張り紙がしてあったのよ。
午前と午後の勤務があって、午前は9時から13時までで、午後は16時から20時までと書いていたわ。
午前だけでも午後だけでも良いらしく、希望するならその両方の勤務でも良いと書いていたのよ。
和樹の幼稚園は水曜日だけが午前中に帰ってくるけれど、お母さんが家にいてくれるから心配ないと思うので午前だけ勤めることにして応募してみようと思うの。
どうかしら。」
「晴美が勤めたいのなら無理には止めたりはしないわよ。」
坂口歯科医院は晴美の家から1キロほどの所にあり、距離的にも近い場所だ。
早速坂口歯科医院に電話をしてみた。
今週の土曜日午後2時から面接をするので履歴書をを持って来るようにとの返事だった。
 土曜日 晴美は午後2時15分前に歯科医院の玄関ドアを開けた。
入ると直ぐに待合室があって、布張りの長椅子が窓際に並べてあり、晴美より少し若いと思われる女性が二人その椅子に掛けていた。
話をしてみると二人とも面接試験を受けに来ているという。
一人は31歳で幼稚園児が一人いて夫の両親と同居しているという。午前中の勤務を希望していた。
もう一人は24歳の独身で午前と午後の両方の勤務を望んでいるという。
勤務時間の合い間に習い事をするのだそうだ。
2時になり、診察室から白衣の女性が出てきて一番若い女性の名前を呼んで中に入るよう促した。
その間にもう一人の女性と話をしていて知ったことだが、この医院は歯科医が二人と衛生士が二人、歯科技工士が一人いてかなりよく流行っているらしい。
事務の仕事も忙しいそうだ。
晴美の面接は最後で、診察室の奥の部屋に案内された。
狭い部屋に大きなテーブルと椅子が何脚かあり、小さな食器棚や湯沸かしポット、コーヒーメーカーなどが見える。
ここは休憩室なのだろうか。
テーブルの正面に白衣の50歳くらいの男性が座っていて、その前の椅子に座るよう指示された。
履歴書を出して、家庭のことなど問われるままに答え、午前の勤務を希望することを伝えた。
結果は来週の初めに郵送で連絡するとのことだった。
どうも受かるようね気がしない。
39歳の晴美は自分より若いあの二人に条件的に劣っているような気がするのだ。

ひかり(7)

2010-03-25 07:54:16 | ひかり
ダメだと思いながらも晴美は次の週の月曜日から郵便受けを見るために何度も庭に出た。
面接をした医師や衛生士が穏やかで感じの良い人柄に見えたので、働きやすい職場のように思えてその歯科医院で働けるのを半分は期待していた。
水曜日の朝、郵便受けに白い封筒が入っていて、それは歯科医院からのものだった。
急いで開けてみると返送された晴美の履歴書と不採用通知だった。
がっかりして肩を落とした。
半分は諦めていたのにこの落胆ぶりはどうしたことだろう。
寿退職をして以来初めて受けた就職試験は晴美の生活がかかっている。
それだけに本当は期待が大きかったのに、もしもの場合を考えて受かることを否定していたのかもしれない。
また職探しをしなければならない。
その夜、子供たちが寝てから久し振りにリビングの窓を開けて山を見た。
虫の音が煩いほど聞こえてくる。
またあの白い光が虫の音に合わせるように強くなったり弱くなったりしながらぼんやりと光っている。
この光を見ていると不思議なことに、沈んだ気持ちに元気が蘇るような気がしてくるのは以前経験した時と同じなのだ。
「こんな時間に窓なんか開けて寒いじゃないの。
用心も悪いし早く閉めなさい。」
八重子がいつの間にかリビングに来ていた。
「お母さん、あそこに不思議な光が見えるのよ。
お母さんも見てみる?」
八重子が右足を引きずりながら窓際にやってきた。
「何も見えないじゃないの。」
「ほら、あそこよ。」
晴美は山を指差した。
しかし八重子には見えないようだ。
母は歳をとって目が悪くなったのだろうと解釈した。
それからは精力的にハローワークへ行ったり、求人広告を見たりして職を探したが晴美の希望する時間帯や仕事内容の一致する求人がない。
短時間で事務的な仕事というのはなかなかないものだ。
それからも時々夜に山を見るが、あの白い光は見えなくなった。
冬も過ぎ南の方から桜の便りが届き始めた。
4月になれば和樹も小学校に入学する。
フルタイムの職に就くには学童保育という手段もあるが、金銭的に負担が大きくなるのでやはり体の不自由な八重子に帰宅した子供たちの面倒を見てもらうしかない。
4月から働けるフルタイムの仕事を探し始めた。
 庭の桜がほころび始めた。
健太が逝ってからもう一年が過ぎようとしている。
葬式の時にも世話になった近所の寺の住職に依頼して、一周忌の法要をつとめることになった。
健太の両親と兄、そして晴美の妹夫婦が出席して晴美の家で行った。
法要後の食事は車で7~8分の料理屋に会席料理を注文していたのでマイクロバスが迎えにきた。
皆で健太の思い出話や子供たちのこと、晴美の現在の生活などを話しながら会食をしていた。
健太の母は思い出話になると涙を流して、
「可哀そうに。」を連発している。
健太の兄が晴美に同情を示したのか、
「晴美さん、子供たちもまだ小さいのでこれからが大変だね。
就職先が見つからないようだが私も心当たりを探してみます。」
「よろしくお願いします。」
と頼んだが晴美は殆ど当てにしていなかった。

ひかり(8)

2010-03-25 06:55:30 | ひかり
和樹の入学の日 家族4人でささやかなお祝いをした。
赤飯を炊いて、ソーセージやローストチキン、野菜を入れたオードブルを作り、小さいながらも焼いた鯛も買ってきた。
それらを並べると豪華な祝いのテーブルになって、ここにはにこやかな4人の家族の顔があった。
学習机は健太の両親が買い与え、ランドセルは八重子が入学祝いとして3万円晴美に渡したのでその中から買った。
和樹は新しい机の前に座ったり、前のライトをつけたり消したり、ランドセルを背負ってみたりと、この1週間は彼にとって忘れられない嬉しい時間を過ごしたことだろう。
晴美は相変わらず職探しを続けている。
先日も求人広告で見付けた電子部品を作っている会社の試験を受けてみたが、二人の求人に20人を超える求職者が来ていて職を得る難しさを痛感した。
案の定そこは不採用だった。
晴美は独身時代に食品メーカーの経理部門にいたが、パソコンにデーターを入力するのとアウトプットするだけの単純な仕事しかしていなかった。
専門的な知識が身につく前に辞めてしまったので、こんな就職試験の際に胸を張ってこれが出来ると言えるものがない。
職種をもう少し広げて探してみようかとも思う。
新入学生の和樹も3年になった美香も近所の友達と元気に登校している。
帰ってくれば、学校で勉強したことや友達のことなどを楽しそうに八重子や晴美に二人で競うように話す。
二人とも学校を嫌がらないだけ晴美にとっては安心して職探しが出来る。

 4月も半ばに入ったある日、健太の兄から電話が入った。
義兄の友人が父親とスーパーを経営していて、この地域にも店舗を5ヶ所持っている。
晴美の住む近くにもそのスーパーはあり、いつも利用している店だ。
この友人に義兄が晴美の雇用を頼み込んだのだと言う。
一応面接をするので、明後日履歴書を持って隣町にある本社へ行くようにとの電話であった。
仕事内容も分からないので少々不安ではあったが、頼りにしていなかった義兄がここまで骨身を惜しまず世話をしてくれたことに感謝をして面接試験を受けることにした。
その日、指定された時刻午前10時前にそのスーパーの本社があるビルに行った。
受付カウンターにいる若い女性にその旨を告げると社内電話で誰かと話していた。
そして右手にあるドアを指して、そこを開けて中に入るよう指示した。
そのドアの方に向かおうとしたら、ドアの横に白いパーカーと帽子を被ったあの山の池で出会った男性が立っていた。
その場に似合わぬ恰好を怪訝に思ったが、この会社の従業員だったのかと納得して会釈をすると、その青年もあの時と同じようににっこりと美しい笑顔を返してきた。

ひかり(9)

2010-03-25 05:57:58 | ひかり
 ドアを開けると長机二脚が二の字に並べてあり、奥の机の正面に二人の男性が椅子に掛けてこちらを見ている。
手前の机の前に椅子が一脚置かれている。
一人は40歳代後半と見られる細い黒縁の眼鏡を掛けたスーツ姿の男性で、もう一人は50歳代半ばの白髪混じりの頭で薄いブルーのジャンバーの作業着姿の男性だ。
「山本晴美と申します。
よろしくお願いします。」
晴美は頭を下げた。
「そこにお掛けください。」
スーツ姿の男性が言った。
晴美は持ってきた履歴書をその男性に渡して椅子に掛けた。
先ず若いスーツ姿の男性が履歴書に目を通し、横の男性に渡した。
「山本政広君は幼いころからの親友でしてね。」
スーツ姿の男性が話しだした。
山本正弘とは健太の兄の名前だ。
「家が近かったこともあって、幼い頃から政広君や弟さんの健太さん達と一緒によく遊びました。
政広君とは小学校から高校まで同じ学校だったんですよ。
弟さんがあんなに早くなくなるとは思いもしませんでした。
貴女も大変ですね。」
「はい。」
「我が社は基本的には新卒を雇っています。
しかし、政広君から貴女のことを頼まれまして、社長・・私の父ですが・・社長とも相談をして一度会いましょうということで今日来ていただいた訳です。
少しでも力になりたいとは思っています。」
「ありがとうございます。
ご無理をお願いして申し訳ございませんが、よろしくお願いします。」
晴美は恐縮した。
「履歴書を見せて頂いたところ、しっかりとした学校をご卒業ですね。」
前の会社での仕事内容や家族のこと、仕事に対する意欲などを訊ねられた。
前にいる白髪混じりのジャンバー姿の男性は在庫管理部門の部長とのことで、その部門にいる社員がこの6月に結婚のため退職をするので、晴美がもし採用になればその部署に配置する予定のようだ。
「この会社はお中元やお歳暮、決算期が大変に忙しくて残業もありますよ。
お子さんがまだお小さいようですが勤められますか。」
とその部長が訊ねた。
晴美の心の中では大丈夫だろうか、もし子供が病気になったらどうしようなどと動揺していた。
「はい、家には少し体は不自由ですが、母が子供たちの面倒をみてくれますので大丈夫です。」
と口では答えた。
実際フルタイムで働くことは何処へ行ってもその覚悟が必要なのだと、改めて働くことの厳しさを思い知った。
 面接が終わり、受付の前で頭を下げて外へ出ようとして、ふとあの青年のことが気になリ受付の女性に訊ねてみた。
「先程私があの部屋へ入る時に、ドアの前にいらっしゃった白い服の男性はこちらの従業員さんですか。」
女性は一瞬怪訝な表情を見せた。
「先程からどなたも見かけていませんが。」
「あっ、そうですか。
私の勘違いで申し訳ありませんでした。」
晴美は早々にその場を後にした。

ひかり(10)

2010-03-25 04:58:30 | ひかり
 ビルを出ると晴美は背中や脇の下に冷や汗が流れていた。
確かにあの青年はドアの前に立っていて、何時かと同じ美しい笑顔で晴美の会釈に応えてくれた。
受付の女性は見ていなかっただけなのかもしれない。
家に帰ると八重子が玄関先で杖をついて立っていた。
「お母さん、庭のお花を見ているの?
今年はきれいな花壇になったでしょう。」
昨年は夫の急逝で庭の手入れどころではなかったが、今年は少し気持が落ち着いて草花を植えたり、草を取ったり、肥料を与えたりと手入れをしているので美しく花が咲き誇っている。
「あんたが心配だから家の中でじっとしていられなかったのよ。
面接はどうだった?」
八重子は健太の兄が世話をしてくれたので気を揉んでいるのだ。
晴美はキッチンで昼食の炒飯を作りながら、スーパーの経営者でもある義兄の友人が力になると言ってくれたことを話した。
「いつも冷たいあの政広さんが、今度は随分と骨を折ってくれたものね。」
八重子は皮肉たっぷりな言い方をした。
健太が生きているときには政広がこの家に来たこともなかったし、話すこともほとんどなかった。
兄弟仲が悪いわけではないが、政広は妻と8年前に離婚をしてそれ以来一人身だ。
弟の幸せそうな家族を見るのが辛かったのかもしれない。

 その夜、晴美は久し振りに家の前の山を見た。
あの白い光がぼんやりと見える。
次の夜も白い光は見えた。しかしその夜の光はこれまでとは違って見たこともないような明るい光になっていた。
驚いて晴美は八重子を窓際に連れてきて見せたが、その光が八重子には見えないらしい。
光は何かの信号のように強くなったり弱くなったりして突然消えてしまった。
見ている途中で消えることは、これまでにはなかったことだ。
その翌日、例のスーパーから一通の封書が届いた。
晴美を採用するとのことだ。
5月10日から出勤するようにとのことだった。
嬉しいけれど少し不安もある。
会社勤めには長いブランクがあり、新しい仕事を覚えるには時間がかかりそうだ。
子供たちのことも気になるが、思い切らなければ前へは進めない。
夜に政広に電話を入れてお礼を述べた。
「晴美さん良かったね。
僕の方にも彼から連絡があったよ。
面接に立ち会った部長も気に入っているようだと言っていたから大丈夫だよ。
体に気を付けて頑張ってください。」
政広からこんなやさしい言葉を掛けてもらうのは初めてのことで、嬉しくて涙が出そうになった。
「実はこの前の一周忌が終わってから健太が度々僕の夢に出てくるんだ。
いつも晴美、晴美って僕の顔を見て言うんだ。
余程 健太は晴美さんのことが心配だったようだね。
それで例の友人に就職のことを頼んでみたんです。」

その夜また初美は山を見たが、あの光はなかった。
次の夜もまた次の夜も、その後光は現れなかった。
池にも行ってみたが何も変わりはなく、あの若者の姿もなかった。

               完

愛の行方1. 暑い夜

2010-03-24 16:45:09 | 愛の行方
あの日も蒸し暑い夜だった。
物足りない気持ちのまま自宅に帰った麻衣は、家族に顔を合わせないまま風呂場へ行き、シャワーを浴びた。
今別れたばかりの和也の匂いを消すかのように、ボディーシャンプーの泡を体中に付けて擦っていた。
バスタオル一枚を体に巻きつけて二階の自室に上がり、灯りを点けないままクーラーのボタンを押した。
クーラーはなかなか冷たい風を送ってくれない。
閉め切った部屋は息が詰まりそうに暑い。
窓を開けて、前庭に植わっているケヤキの枝ごしに向こうを見ると、麻衣が勤めている銀行のある街一帯の空が薄いオレンジ色をして明るい。
麻衣の勤めている銀行は地方都市の中心にあり、自宅はそこから少し外れた郊外にあった。そこは500戸余りの集落で、家々はそれぞれに植木のある庭を持っていた。

麻衣は先ほどまでいた和也のアパートでのことを思い出していた。
あの熱い息使い、激しく気持ちを高揚させる和也の体の下で、以前の彼、修司の顔を思い浮かべていた。
年下の和也に心が添って行かないもどかしさのある中で、愛の行為は終わっていた。
「いつまで修二を想っているのよ。」
自分に言い聞かせるように呟いた。

愛の行方2. 幼い日(父の死)

2010-03-24 16:43:50 | 愛の行方
麻衣は窓辺に横になり、空を見上げると流れ星が一つ右から左へと流れていった。
その先を見ると、ひと際大きく強い光を放つ星が煌めいている。
修司のことが頭の中で整理できないまま、ぼんやりとその星を眺めていると、5歳の頃の記憶が不意に甦ってきた。

3月も終わりのまだ肌寒い朝であった。
麻衣は庭の苔の上に落ちた赤い椿を拾い集めて遊んでいた。
家の中から父の苦しそうな呻き声が聞こえてきたので中に入り、少し開かれた襖の間から父の寝室を覗くと、父の周りを囲んでいる叔父や叔母たちが、
「苦しいね。」「よく頑張ったね。」と 口々に慰めていた。
それを見て麻衣は、父の命がもう消えようとしていることを幼いながら悟っていた。
しかしその苦しみまでは理解できていなかった。

呻き声は暫くしてなくなり、昼になったので、皆食事をするために他の部屋に移動していった。
ほんの10分か15分ほどして皆が戻ってくると、父の息は絶えていた。
麻衣は珍しいものでも見るように、父の臥している布団の周りを回りながら父の顔を見ていた。
父の眼は、誰かが瞼を静かに押さえて閉じるまで、大きく開いたままで、麻衣がどの方向から見ても、自分を見つめているように見えた。
そんな麻衣を見て、親戚の人たちは、
「この子はまだなにも分っていないんだねぇ。」と涙を流していた。
しかし麻衣は心の中で思っていた。
「私はお父さんが死んだこと分かっているのに。」
死についても、もう二度とこの世に帰ってこないことは分かっていた。

その時も、その後も母の涙は見たことが無かった。
母の父への愛、父の母への愛はどんなものであったのだろうと、両親の顔を交互に思い浮かべながら麻衣は考えていた。

「麻衣。麻衣。」階下で呼ぶ母の声に、追想の世界から目覚めた。
冷房がよく効いていて、バスタオルから出ている肩が冷たくなっている。
慌てて服を着ると、食事をするために階下へ降りていった。

愛の行方3. 麻衣の父母

2010-03-24 16:42:20 | 愛の行方
麻衣が生まれた頃、父雅彦は織物工場を営んでいた。
工場の隣に従業員の宿舎があって、母美佐は毎日家事の他に従業員の食事なども作っていた。
子どもは麻衣の上に男の子と女の子がいた。
雅彦は病弱で、何度も入退院を繰り返し、最後は胃癌であった。

亡くなる一ヶ月ほど前、雅彦は布団の中から麻衣を呼んで、枕もとの飴を食べるように促した。
麻衣は飴を舐めながら、雅彦の足を擦っている母美佐の傍に座っていた。
「その織物、傷が付いている。誰が付けたんだ。」
「そんなに高く反物を積んだら崩れる。早く降ろしなさい。」
等と、まるで目の前のものを見ながら言っているような口調で、雅彦は美佐に話している。
美佐は困った顔をして、
「ええ、そうですね。」と相槌を打っていた。
麻衣は父の言っていることが現実には無いことなので、可笑しくて声を上げて笑った。
「麻衣はよく分かっているね。」雅彦は言った。
後で考えると、あれは父雅彦の病状がかなり悪くなっていて、脳に支障をきたし幻覚を見ていたのだと理解できた。

雅彦は麻衣が記憶している限り、美佐に対して優しい言葉をかけている姿を見たことがなかった。
いつも命令口調か、叱っている場面だけが思い出される。
雅彦の死に際し、涙しなかった美佐は、夫の余命が短いことを以前から知っていて、覚悟が出来ていたのだろうか。
それにしても気丈な人だと麻衣には思えた。

雅彦の死後、美佐は工場を縮小して細々と経営を続けていたが、繊維業界の不況は情け容赦なく中小企業を叩きのめした。
麻衣の兄と姉が就職したのを機に工場を畳んだ。

そんな父のいない生活の中で、男の存在意義が分からないまま育った麻衣は、男性からの愛の受け方が分からない女性であった。

愛の行方4. 花火

2010-03-24 16:40:00 | 愛の行方
修司は彫りが深く、テニスが得意な浅黒い顔をした、麻衣より2歳年上の28歳の青年だった。

初めて知りあったのは、3年前の夏、同僚の良江に隣県のS市である花火大会に誘われた時だった。
良江には、彼女の婚約者 清と一緒だと聞いていたので、三人で行くものだと思っていた。
仕事を終えて、私服に着替えるのももどかしく、二人は待ち合わせ場所の駅前の広場に急いだ。
約束の場所に停まっていた車の中には、中年の男性が運転席にいて、清ともう一人若い男性が車の外に立っていた。
良江の婚約者清がその若い男性を紹介した。
「この人、僕の同僚で木村修司っていうんだ」
「木村修司です。よろしく。」
修司は健康そうな白い歯を見せて笑顔で麻衣に手を差し出した。
麻衣もおずおずと手を出し握手をした。

車はワゴン車で2列目に良江と麻衣、その後ろに清と修二が座り、運転をしているのはどうやら修司の親戚の人らしい。
花火会場までは大変な渋滞で、ようやく着いた時には既に午後10時を大幅に過ぎていた。
大勢の人混みの中を歩いていて、麻衣は良江達とはぐれてしまっているのに気づいた。近くにいるのは先ほど会ったばかりの修司だけであった。
夜の知らない街で一人になるのは不安で、修司の腕をしっかりと掴んで歩いた。
花火はあまり見ないまま、ほどなく終わってしまい、良江達と合流するために、修司はその町の「バー沙織」へ麻衣を連れていった。

ドアを開けると右手にカウンターがあり、その中に和服を着た40歳代の目鼻立ちのはっきりした女性が笑顔で二人を迎え入れた。
他にホステスが2・3人いるようだ。
カウンター席の他に、左側にボックス席が20席ほどあり、奥の方で清が手を挙げているのが見えた。
そこには運転をしていた男性がウーロン茶を飲んでいて、清と良江がウィスキーの水割りを飲みながら、つまみを口にしていた。

帰りの車の中では麻衣の隣に修司が座り、肩に手を掛けてきて、「今日来て良かった。」と麻衣の耳元で囁いた。
意味は分からなかったが、悪い気はしなくて、先ほどの水割りが効いてきたのか心地よい眠りに陥った。

愛の行方5. お付き合い

2010-03-24 16:38:35 | 愛の行方
次の月曜日、出勤した麻衣は昼休みに、良江に屋上へ呼び出された。
「修司さんが貴方とお付き合いをしたいと言ってるわ。
あの人、この前彼女と別れたばっかりなのに。
彼の気持ちが分からないわ。」
良江は不機嫌そうな顔で言った。
良江の言葉で、麻衣は修司が自動車の中で囁いた、「今日来て良かった。」の言葉の意味が分かった。
そしてあの日は、清が修司のために仕組んだ花火見物であったことも気づき、良江はそれを知らなかったのだ。

修司は公務員で、職場はA銀行とは自動車で15分ほどの距離にあった。
退庁時間が麻衣の帰り時間と合わせやすく、二人は毎日のようにデートをした。
麻衣の勤めるA銀行近くの喫茶「ビオラ」で待ち合わせ、夜の公園を散歩するのがお決まりのコースだった。
時には公園の先の海へ行き、二人で岩に腰をおろして夜の海を眺めることもあった。
麻衣は修司の顔を見ない日は、落ち着かない、何か忘れ物をしたような時間を過ごすのであった。

秋に二人は良江たちと一緒に登山をしたり、冬はスキーをしたりして楽しんだ。
車好きな修司は麻衣を度々ドライブに誘い、二人で取り止めのない話をして笑い、二人でいることに酔っていた。
麻衣の心はバラの花びらに包まれて、幸せの雲の上にふわふわと浮いているように喜悦していた。