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戦争と愛 この人間的なるもの ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て(6)

2020年11月01日 | ヴァイオレット・エヴァーガーデン
昨夜のエントリでも少し触れたが、本作は戦争の問題についても、考えさせる作品だった。

 オープニングで、デイジーが祖母に宛てられた手紙を一通り読み終えたところで、つむじ風が起き、一通の手紙が舞い上がり、アンの家のサンルームの天井のパネルの空いた部分から空に飛び出し、風に乗って、山を越え、海を越えた手紙は、ライデンに辿り着き、自動車や路面電車が走る市中を抜けて、最後にC.H.郵便社のヴァイオレットの部屋で舞い降りる。タイプライターはあるが、窓辺の犬のぬいぐるみはない。

 ここで、場面が過去に切り替わり、ヴァイオレットの少女兵時代の回想、そしてライデン市の「海への感謝祭」のシークエンスへと切り替わる。デイジーが見つけた新聞記事は、この海への感謝祭で朗詠された「海への賛歌」が、ヴァイオレットによって書かれたことを伝えるものだったのだろう。


 「海への賛歌」が「海の女神」によって朗読される場面は、BGMのみで音声はない(別のシークエンスでその全文が明らかにされる)。ホッジンズ社長やカトレアは、その素晴らしさを絶賛するが、ヴァイオレットは、海を眺めながら、「海には人格も功績もないので、褒め称えるのに苦労しました」と素っ気ない。アイリスが来年の「海への賛歌」は自分が書いてみせると宣誓したところで、従者を連れた身分がありそうな老夫婦が現れる。ライデン市の市長夫妻である。ホッジンズもジャケットの前ボタンを留め、挨拶する(このシーンを見るたび、まだ意識のある祖母に最後に会った日のことを思い出す。祖母が、ベッドから手を伸ばして、私のジャケットの裾を掴んで離さず、何か言いたげに引っ張り続けた。「ばあちゃん、帰らないといけないんだよ」と答えると、上着のボタンを指差す。上着のボタンは留めろといいたかったらしい。時系列がこの世界と似たようなものなら、ホッジンズと同年代の祖母には、許しがたいエチケット違反だったのだろう)。

 ホッジンズに促され、ヴァイオレットはスカートの裾を掴んで、市長夫妻に自己紹介の挨拶をする。

 「お客様がお望みなら、どこへでも参ります。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」


 ヴァイオレットの美しさに見とれる市長夫妻。「まるでお人形さんみたい」と感嘆する夫人。市長は、「海への賛歌」の起草者がヴァイオレットに決まったのは、自分が推薦したからだという。そしてフリューゲル王国の戴冠式におけるダミアン王子の宣誓文は、君のように素敵だったと讃える。しかし、「いま私を素敵とご形容いただきましたが、あの文章は陛下の理想と志を著したもので、私の人格とは別で関係ないと思います。あしからず」とヴァイオレットは市長を前にしてもいつもの調子である。表情が強ばるホッジンズたち。

 「つまり、ヴァイオレットちゃん……」と、フォローを入れようとするホッジンズ。

 それを遮り、「つまり、私は君を評価しているのだよ」と市長。偉い私が評価しているのだから、君も評価するに値する人間だ、とでもいいたいのだろう。

 「君は兵士としても、このライデンシャフトリヒを救った英雄だったのだから」

 「ライデンシャフトリヒが救われたのは、多くの兵が闘ったからです」ととりつく島もないヴァイオレット。

 市長が怒りださないか、気が気でないホッジンズ。

 「それに、私も多くの命を奪いました。私は讃えられるべき人間ではありません」

 英雄と呼ばれることをきっぱりと拒絶するヴァイオレット。このときのヴァイオレットは、海をバックにしているのだが、さっきまでと違い、画面の中央から右側に移動している。今日の映画では、主役は左、敵役は右に振り分けられるのがお約束だという。ヴァイオレットは主役なのだが、多くの命を奪った者として、命の母である海が主役、命を奪った元兵士のヴァイオレットは敵役、ということになるかもしれない。

 最後の決戦の回想シーンで、幼いヴァイオレットが両腕を失う場面は、何度見ても胸がえぐられる。本当なら、ふわふわの犬や猫やぬいぐるみを抱きしめるのにふさわしい幼い少女の手は、銃を握ることしか知らず、永遠に失われた。しかし自らを「少佐の武器」と呼ぶヴァイオレットにとって、腕も手もたんなる「道具」にすぎない。負傷して動けない少佐の軍服にかみついて、安全な場所まで運ぼうとするヴァイオレットは、最後まで不屈に闘う戦士の鏡である。

 この腕が落ちるシーンは、エンターテイメントであるアニメでギリギリ可能な、リアルな戦争描写だろう。もちろん、実際の戦場よりはきれいすぎるが(ヴァイオレットが失ったのが、耳や鼻だったら、どうだろう?)。この作品は、人間愛をテーマにしながら、インモラルな欠損性愛のモチーフも隠そうとしない。かつての主人、イザベラ・ヨークが語ったように、マシーンのように完璧無欠の職業婦人であるヴァイオレットが見せる最も人間らしい部分が、本人の意志と関係なくギィギィと鳴る機械仕掛けの義手である。
 終盤で、名前を変えて小さな島で教師をやりながら生きるギルベルトに、島の老人がこう語る場面がある。

 「戦争に行った男たちは、誰一人、帰ってこんかった。ライデンのやつらが、憎くて憎くてたまらんかった。しかし悪かったのは、わしら全員かもしれん。わしら全員じゃ。戦争に行けば、豊かになれると思うとったんじゃ。しかし、本当はみんな傷ついとったんじゃ、みんな。帰る場所があるなら、帰った方がええ」

 老人は、右腕と右目を失くしたギルベルトが、ライデン出身であることを薄々知っている。ライデンから、郵便社の青年と少女が訪ねてきたのを耳にしたにちがいない。


 原作はまだ通しで読んだことはないが、ヴァイオレットとギルベルトが再会するクライマックスシーンは、原作と映画で場面や情景は全く違ったが、セリフそのものは一緒だった。ヴァイオレットや老人が戦争に言及する場面はアニメオリジナルのようだが、セリフそのものは原作にもあるものかもしれない。しかし、私は「戦争」に、昨年の京アニ事件を思い重ねずにはいられなかった。

 詳しくは明らかにされていないが、京アニ愛がある日憎しみに転化したのであろうあの犯人は、ライデン市の市長と同じように大きな勘違いをしていたのだ。京アニは、SOS部でもなければ、古典部でもなく、吹奏楽部でもない。あくまでも現代の資本主義社会に生きる一民間企業であり、ヴァイオレットの言葉でいえば「任務」を遂行しているのにすぎない。愛していたのに、裏切られた? 裏切りを伴わない愛や資本主義がこの世に存在しうるだろうか?(私が生きてきた革命運動や労働運動もまたしかりである) ヴァイオレットが京アニの社員なら、あっさりとこういうにちがいない。

 「私も、多くのお金を奪いました。私は、ヒロインなどではありません」

 あの犯人は『黒塚』の鬼婆だと、以前、私は書いた。阿闍梨は鬼婆に、「鬼にも仏の救いがある」と教えてくれて、月の下で幸せに踊っていたのに、自分が本物の鬼と知ると、調伏にかかる。約束を破って、寝室をのぞいて死体を発見した強力は見逃したが、自分を有頂天にさせながら、裏切った阿闍梨だけは絶対に許せない。鬼婆の怒りは本物だった。

 京アニの作品に出会って幸せだった時期もあったのだろうあの犯人も、何かで裏切られた思いにとらえられ、深く傷ついていたのだろう。もちろん、それは自分勝手な言い分であり、傷ついていたからといって、何をしても許されるというわけではなく、現実の社会の法と秩序の下では極刑も免れないのかもしれない。しかし、「死体の製造に従事した人間を絞首刑にしても、何の意味もない」(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』)。

 私は、上田秋成の『樊噲』(はんかい)の結びの言葉を思い出す。

 「心をさむれば誰も仏心也。放てば妖魔」

『樊噲』は、大悪党でありながら、出家して高僧になった男の生涯を描いた作品である。 『黒塚』の阿闍梨は、まだまだ修業が足りなかった。誰でも「仏心」に到達できるし、誰でも「妖魔」になれるというだけだ。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は本当にすばらしい作品だ。現実の戦争やその犠牲者には一切関心のない人も、90分間は他者のために涙を流せる優しくて善良な人間になれる。

 けれど、あの犯人も、ユーフォを見ている間は、善良で人畜無害なオタクでいられたのだろう。そして、あの犯人は、ユーフォを見て、聖地を回ったあとにも(だからこそ?)、放火と大量殺人に出かけることができた。

 われわれも、あの犯人と少しも変わらない。戦争やテロリズムは、人々の命と未来を奪う憎むべきものだ。戦争やテロリズムの根絶を願うのは、大いに結構なことである。しかしアドルノのひそみにならえば、われわれの誰もが、京アニ事件の後になおも『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を楽しめるほどに残酷な存在であることは忘れてはなるまい。非人間的なもので、あなたと無縁なものは何一つ無い。そして、戦争が人間に人間をやめさせる営為だとすれば、愛は人間に人間を超えさせようとする営為であり、それは人間存在の切っても切れない両面性である。

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