新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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若紫としてのヴァイオレット ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て(5)

2020年10月31日 | ヴァイオレット・エヴァーガーデン
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は35回観たけれど、『魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』も31回観た。今日は、『叛逆の物語』を観てから七年目である。公開はその前の週の土曜、10月26日だった。

その頃、私は源氏物語に関する本を書いていて、その日が校了日だった。仕事を片付け、まず思ったのは、ビフカツとビールでささやかな祝杯を上げること。たまたまハロウィンだったから、いろいろな人に勧められていた、話題の魔法少女アニメも観に行くことにした。上品な和三盆の和菓子が続いたので、ジャンクでキッチュなコンビニスイーツを食べたい気分だったのである。

しかし映画館では、全く想定外の世界が待っていた。「まどマギで煙草をやめた話」でも書いたように、原作の知識はほとんどない私は、白紙状態から徐々に記憶を取り戻していく、作中の暁美ほむらと完全にシンクロすることができた。これは千人に一人の貴重な体験だったのではないだろうか。

しかし、源氏物語を忘れたかったのに、『叛逆』は私に源氏物語の世界を思い起こさせずにはいられなかった。これもまた、ゼロとはいわないが、珍しい見方であることには違いないが、暁美ほむらの生き様は、まさに紫の上の「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしかな」だったのである。ほむらのイメージカラーも紫である。紫式部もまどマギ世界なら、魔法少女だったかもしれない(そのうちFGOで英霊にされるかもしれないが)。


『外伝』でも思ったが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、源氏物語を思わせるところもある。孤児を引き取るところは「若紫」だし、引き裂かれた姉妹が手紙で再び関係を取り戻すところは明石の君と姫君の母子の物語であり、降りしきる雨の中、家の外で立ち尽くすヴァイオレットは「東屋」だ。そして、源氏物語も、桐壺更衣、藤壺、紫の上、玉鬘、そして宇治の三姉妹、運命に翻弄される男たちの愛の形代(ドール)に過ぎない女性に、愛や救済や自立は可能なのかを、根底的に問いかける作品である。

ギルベルトが、ひらひらと舞う蝶に見とれるあどけないヴァイオレットを思い出しながら、「戦場に駆り出すのではなく、美しいもの、かわいらしいものに心ときめかせるような子ども時代を送らせてあげたかった」と後悔の念を語るとき、私が思い出したのは、中野重治の『おまえは歌うな』だった。 


中野重治は、『風立ちぬ』の堀辰雄の親友であり、太宰治の死に際しては、「死なぬ方よし」と同情的な追悼文を寄せた。中野は、太宰を完全否定した宮本顕治などとは異なり、源氏物語にも通じる、「すべてのひよわなも」「すべてのうそうそとしたもの」すべてのものうげなもの」「すべての風情」に対する深い理解と造詣と共感があり、好きでたまらないのだ。中野こそは真の文学者であり、真の革命家だった。だからこそ、プロレタリア革命の戦士たるために「撥(はじ)き去れ」と書かねばならなかったのだろう。

しかし『村の家』を書いた中野は、それは誤りだったことを思い知っただろう。「すべてのひよわなも」「すべてのうそうそとしたもの」すべてのものうげなもの」「すべての風情」とは、マルクスのいう人間的自然のすべてなのだ。善でも悪でもない人間的自然を包括できない革命運動は、必ず腐敗するし、必ず民衆を裏切る。

孤児として、愛を知らず、戦うことしか知らなかったヴァイオレットは、そのすべてと無縁だった。国際共産主義のプロレタリア文学が、あるいは日本帝国主義の軍国主義が理想とした、「たたかれることによつて弾ねかえ」り、「恥辱の底から勇気を汲み」、「咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげ」る、まさに軍人の鏡だった。

しかしこの若紫物語は、どこまでも残酷である。最後の決戦で、彼女は両腕を肩から失う。銃を握っていた、その腕と手と指は、ふかふかの犬や猫やぬいぐるみを抱いてその毛並みを優しく撫でて愛おしむ、幼い少女のものだった。このシーンは何度見ても、心をえぐられる。

だがヴァイオレット本人の受け止め方は違う。「少佐の武器」である彼女は、腕を失ったことは、たしかに不便だったが、少佐を失ったことに比べたら、どうってことはなかったのだろう。「武器」にとっての腕は、道具にすぎず、機能だけが問題であり、義手で代用可能なのである。ヴァイオレットは、今度は少佐のためではなく、自分自身のために、「あいしてる」を知るべく、他者の思いを言葉にするドールの道を生きる。

『外伝』は、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、エリュアール、ブルドン、少年の日に傾倒した象徴派やシュルレアリスムの文学を、懐かしく思い起こさせた。青年期に読みかじったフランス現代思想は、今では読み返すこともないが、『ヴァイオレット』を観ていると、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』はもう一度読み返してみたくなる。

幼児がいちばん遅れて習得し、認知症患者がいちばん最初に失う言葉が、「私」という一人称であるという趣旨の精神分析学の見地を、別の著作でバルトは引用していた。少佐と再会を果たしたとき、「少佐」「わたし」と幼児のように泣きじゃくって繰り返すヴァイオレットを見て、その一節を思い出したのが、バルトを読み返したくなった理由である。彼女が一瞬、ことばにしかけて、後が続かなかった「あい」は、「あいたかった」であり「あいしてる」であり、その両方なのだろう。

「私」であることは、幼児にとっては楽園追放であり、「私」を忘れることは老人には極楽往生だが、「私」とは「他者」と「世界」にアクセスするためのIDでもある。ヴァイオレットがギルベルトと再び巡り合えたのも、逆説的だが、「他者」の想いをことばにするドールの仕事を通じて、「少佐」と「わたし」だけでない、「友達」もいて「仲間」もいる新しい世界を手に入れたからであることは、本作のファンには、改めて説明は無用だろう。


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