新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

北斎とゴッホ 星への旅

2023年06月09日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
「ゴッホ・ア・ライブ」が消化不良に終わったので、過去に書いた記事をサルベージ。

以下は、2014年、私が編集する小冊子に掲載した「北斎 遥かなる青──ゴッホとともに富嶽三十六景を旅する」のあとがきに加筆修正したもの。


///////

『ゴッホの手紙』で、ゴッホが熱く語る「日本人」とは、北斎その人ではなかっただろうか。
ゴッホは日本の芸術についてこんな言葉を残している。

日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過ごしているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いや、そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。
ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎに季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。……いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。(テオドル宛書簡 第542信)


このことばほど、北斎の本質を捉えたものはない。「北斎辰政」と名乗って独立を果たした際、北斎は「師造化」の落款を用いた。それは「天の北斗七星(北辰)に誓って、自分の師は造化(自然)のみである」という宣言だった。

「人生はあまりにも短い」と書いたゴッホ自身の人生も、あまりにも短かった。主要作品の多くは、アルル時代とサン=レミでの療養時代のわずか2年あまりに集中している。そして「汽車に乗るように、われわれは星へ行くのに死を選ぶかもしれな
い。死は天上の交通機関である」という自らの言葉に引きずられるように、傑作《星月夜》を残して、死を選ぶ。

ゴッホは日本に似た風景を求めて緯度の近い南仏アルルに移住し、浮世絵工房のような芸術家の共同体を夢みた。しかし、この呼びかけに応じたのは、ゴーギャンただ一人で、その共同生活もわずか2か月で破綻してしまう。そして、左耳切断事件、度重なる精神発作。

ゴーギャンとの破綻以降、テオドル宛の書簡にも、あれほど憧れていた「日本人」への言及も激減する。しかし、ユートピアの夢が打ち砕かれたとき、ゴッホのなかで、北斎は異国の憧れの画家でなく、同じ宇宙に属する、時空を越えた「友」としてよみがえる。『星月夜』の星雲は、Greate Waveの愛称で世界中の人びとに親しまれる『神奈川沖浪裏』への限りなきオマージュではなかったろうか。





「人生はあまりに短い」という嘆きは、90歳で大往生した北斎も同じだった。

《冨嶽三十六景》の翌年、75歳で刊行した《冨嶽百景》初編の自跋(あとがき)では、こう書いている(現代語訳)。

私は6歳の頃から物の形を写す癖があって、50歳の頃からしばしば画図を出して世に出してきたが、70歳以前に描いたものはじつに取るに足らないものばかりである。
73歳になってやや鳥・獣・虫・魚などの骨格や草木の生態を知ることを得た。だから86歳になればますます画技が進み、90歳ではさらにその奥義を極め、100歳ではまさに神業の域に達しているであろうか。
110歳になれば、描いた一つひとつの点や線がまるで生きているように見えるだろう。長生きをする君子よ、願わくは私の言うことが嘘偽りでないことを見てください。
                               画狂老人卍筆

北斎の最晩年の号は「画狂老人卍」。
北斎には、80歳を過ぎて「猫一匹描けない」といって落涙したという逸話も残る。

芸術の道に終わりはない。

飯島虚心『葛飾北斎伝』は、北斎の臨終の様子をこう伝える。

翁(おう)死 に臨み、大息(たいそく)し「天我をして十年の命いのちを長ふせしめば」といひ、暫しばらくして更に謂いて曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画となるを得べし」と、言吃(ことおわ)りて死す。

あと十年、いやせめて五年生かしてくれ。
そうすれば、真の絵描きになってみせる!
辞世の句は「悲と魂(ひとたま)でゆくきさんじや夏の原」(人魂になって夏の原にでも気晴らしにいくか)であった。

北斎とゴッホ。絵を描くことしか頭になかった二人の「画狂」は、遙かなる空の青みの果てにある、燃える星の世界に還っていったのである。




最新の画像もっと見る