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大阪の可能性 ふたたび

2019年08月25日 | 大阪
 かつては、「商人(あきんど)の町」が大阪のキャッチフレーズだった。しかし、バブル崩壊以降は、この「商人の町」のメッキもすっかり剥がれてしまった。

 「商人の町」あるいは「町人の町」というのは、宮本又次や司馬遼太郎が編み出したファンタジーにすぎない。司馬が産経の元記者らしく、いかに数字を操作してまで「町人の町」という虚像を作り出したかについては、藪田貫『武士の町大坂』に詳しい。

 司馬はマルクス主義歴史学を嫌った。それはいい。しかし、司馬は、ストーリー展開のご都合に合わせて、平気で歴史的事実をねじ曲げてしまう。その手並みの鮮やかさは、さすが産経で部長まで務めただけはある。しかし、小説家としては、「いくら伝奇小説でも、限度を超えた歴史の勝手な変改や捏造は許されない」と自らに厳しい戒律を課した山田風太郎の足元にも及ばない。

 風太郎は司馬と違って、マルクスを毛嫌いしたりせず、作品にも貪欲に取り入れた。風太郎の明治小説は、『資本論』第24章の「いわゆる本源的蓄積」を読んでいるような面白さがある。国有地の詐欺的譲渡、共同地の強奪、無遠慮なテロリズム、つい最近も聞いたような話ばかりだ。

 マルクスは、「資本は、頭から爪先まで、 あらゆる毛孔から、血と汚物をしたたらせながらこの世に生まれる」(長谷部文雄訳)といった。

 大阪の起源も、「茅渟海」(ちぬのうみ)の由来が「血沼海」だったことが示すようにかなり血なまぐさい。チヌダイは、「汚物」を食らい、「死人」を食らう卑しい魚として忌み嫌わたが、維新集団の牙城になるのも、歴史的宿命というべきだろうか。

 維新の嘘やペテンや詐欺は目に余るものがあるけれど、しかしゲール人を騙して土地を強奪したイギリス人のように、それが「商人」本来の姿なのである。あのがめつさ、品のなさ、頭の悪さ、あれもネイティブ大阪人の一形態である。東京からの転校生を寄ってたかっていじめ抜く、だめな小学生のなれの果てが大阪維新なのだろうと思う。維新政治に対して、民主主義、立憲主義、自由、平等、人権、平和、文化、道徳心、公共心、羞恥心、遵法精神、知性や教養、愛や優しさを説いたところで無駄である。橋下は文楽を否定したが、かれらが好きなのはマネーで、「人間」の顔は見るのもいやなのだ。「血」と「汚物」をしたたらせる資本主義を根底から批判し、乗り越える立場に立脚しない限り、人間をマネーの奴隷に変えるネオリベの権化ともいうべき維新を否定し去ることはできない。

 「自由」の概念は、ただ私企業と市場の自由を擁護するだけのものに堕落した。そして現代のネオリベどもは、歴史を巻き戻すかのように、「近代的所有」を解体して、「封建的および氏族的所有」に転化することに世界中で血道をあげている。しかし、逆説的だが、市場制度の外部に取り残され打ち捨てられた人びとの怒りや憎しみや絶望が、維新を支えてきた。「肉屋を支持する豚」というたとえがあるけれど、維新とその支持者の関係はパチンコ店とその客の関係に近い。「都構想」や「カジノ構想」も、パチンコのリーチ画面の派手な演出のようなもので、一発逆転の夢と希望にすがっているだけなのだから。「当たり」から遠ざかれば遠ざかるだけ、ますます深みにハマっていく。しかし、まっとうな仕事、まっとうな収入さえ得られたら、大抵の人はギャンブルなんかに夢を見たり、依存する必要はなくなる。

 「商人」だけが大阪人だけではないし、「維新」だけが大阪人を代表しているわけでもない。食いだおれ太郎を愛する大阪人は、「空腹は自由を生み出さない」というマルクスのラディカルな思想と原則を、世界で最も正しく理解できる頭脳とハートを持った人たちだ。大阪が変われば、日本は変わる。世界も変わる。それがこの街に生きる私の希望であり、大阪の可能性だ。しかし、腹が減ってはいくさはできぬ。「れいわ」についても書いていたが、話が混線するので、また機会を改めて。過去に同じタイトルのエントリをあげていたので、「ふたたび」とした。


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