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革命未だ成らず --辛亥革命論ノオト

2011年10月10日 | 革命のディスクール・断章
 きょうは辛亥革命100周年。10・8羽田闘争と同じく、6年前のノートを再録しておきたい。当時品切れだった『三民主義』岩波文庫版は近年復刻され、入手も可能なようである。


 1911年10月10日、辛亥革命 。

 唐突なようだが、重信房子さんには、三人のお子さんがいる。長女は命(メイ)、二女は革(あらた)、長男は強(つよし)。三人そろって「革命強し」。すばらしい。メイさんの生まれた5月(May)はリッダ闘争のあった月でもある。

 革命とは「命を革む」(あらたむ)。「天から命を受けて天子となり、姓を革めて世を易る(かえる)」という意味の古くからの中国語である。

 この「革命」は、王朝の交替をさしており、社会の根本的変革を意味する西欧のRevolutionとはニュアンスは異なる(re=against 逆らってvolvere=回転する)。しかしそこには、「新しい統治の時代が訪れる」という意味での社会の刷新も含意されている。すなわち、天子の統治がゆきづまり腐敗をきたすや、天は新たな代行者を指名するという「易姓革命」(王朝の姓を易る革命)である。

 辛亥革命こそは、数千年の中華帝国の歴史を終焉させ、近代中国の歴史をひらく「革命のなかの革命」になるはずだった。しかし、革命未だならず。

 以下、辛亥革命にいたるアウトラインを追ってみよう。

1.アヘン戦争-南京条約の締結
 清帝国崩壊の歴史的転換点はアヘン戦争だった。アヘン戦争の結果、南京条約(1842年)が締結され、中国はヨーロッパ列強の侵略体制に組み込まれた。
 このヨーロッパ列強の侵略によって、中国国内も従来の社会的システムが急速に崩れていった。アヘンの流入、流民の増加などによる社会不安・生活不安のなかで、民衆は各種の秘密結社に加わって、次々と叛乱を起こしていった。その頂点にあるのが1851年~1864年の太平天国革命である。

2.太平天国革命(*1)
 上帝エホバを崇める拝上帝会という新興宗教を創始した洪秀全とその一党の太平天国軍は、清朝軍と戦いながら北上し、南京を占領。そこに太平天国の首都「天京」を創設し、10年以上にわたって北京の清王朝と対抗する政権を維持した。
 太平天国革命は、決して単純な農民叛乱ではなかった。まず「排満興漢」をスローガンに、漢民族の復興による中国社会の再生をめざしたこと。そして、儒教的イデオロギーをしりぞけ、キリスト教的理想主義の影響を受けた宗教を信奉したこと。最後に地上の天国を建設するという強い政治性をもったこと。土地私有を禁じ、土地を農民に均分する、農地共産主義ともいうべき「天朝畝制度」(てんちょうてんぽせいど)などの政策を進めたのは注目に値する。またそのなかには纏足の禁止、など、男女平等につながるモメントも含まれていた。(*2)

 太平天国は、清朝軍(*3)と列強軍の武力弾圧と内部対立によって滅亡する。孫文は若いころから自らを洪秀全をもって任じたというが、太平天国こそは革命の象徴であり、新時代の先駆だった。

3.日清戦争敗戦から義和団の乱
 第三のターニングポイントが、日清戦争である。日本への巨額の賠償金(当時の清国の歳入総額の三年分)を支払うため、清朝が外国銀行から多額の借款を受けるなかで、鉄道敷設権や鉱山開発権が列強に握られていった。

 十九世紀末からは宗教的秘密結社・義和団が登場する。拳をかざして呪文を唱えれば刀も鉄砲もものとしない信じる義和拳教を奉じていた。義和団はが華東・華北一帯に勢力を広げた。義和団の「打富済民」の呼びかけは貧農や流民に訴えてまたたくまに広がった。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて、崩壊寸前の清朝を補強して帝国主義列強を一挙に排撃しようとする、強烈なナショナリズムの爆発だった。

 義和団は列強諸国の中国における権益の大きな脅威になった。独・日・英・米・仏・露・墺の八カ国連合軍が共同出兵して、義和団を鎮圧。中国の半植民地化の地位はこれで決定化された。義和団の鎮圧には、袁世凱も加わっている。以後の清王朝は列強の権益擁護を使命とする「洋人朝廷」に変質した。

 義和団事件以後、外国の軍隊が北京に常駐した。ロシアは中国の東北を占領したままだった。日露戦争は、清国が中立を守ったにもかかわらず、中国の東北を戦場として戦った。多くの知識人は清王朝の皇帝による立憲君主制による改革をあきらめるようになり、帝制の打倒による革命を志向していく。

4.辛亥革命への胎動
 革命の主張はまず在日中国留学生のなかにあらわれた。日清戦争後の「亡国」の危機のなかで、中国の知識人は不平等条約を中国に押しつけた日本に対する敵意を持つと同時に、明治維新の改革の成果、さらに日本を通して欧米の政治・経済・教育・思想に目を向けることになった。このなかで数多くの中国青年が日本へ留学した。昔の日本人は漢文訓読法によって中国の古典を学んだのと反対に、「和文漢読」法によって日本の文献にあたるようになったのだ。

 1903年、在日中国人留学生はロシアの侵略に抵抗するために拒俄義勇隊を結成するが、清王朝に弾圧。この義勇隊は軍国民教育会と解消して、清朝打倒に力点を移すようになった。その会員たちは1904年「華興会」を創立し、翌年湖南で武装蜂起。またこの年、上海で「光復会」が組織された。

 ホノルルで「興中会」を創立した孫文は1905年、ハワイから日本を訪れ、宮崎滔天らの支援を受けて在日中国人の各革命団体と連合して中国同盟会を発足させた。孫文の三民主義--「撻虜(満州族)を駆除して中華を回復する」(民族主義)、「民国を創立する」(民権主義)、「土地所有権を均等にする」(民生主義)が、中国同盟会の綱領となり、国民党にも引き継がれる。この時点での孫文の民族主義は、満州族支配者から政権を奪い取り、「洋人朝廷」を打倒するというものである。諸民族の平等の原則や、反帝国主義を明確に規定するのは晩年になってからのことだ。

 革命派は1907年から1908年にかけて南部各省で武装蜂起を試みるも、いずれも失敗。1911年4月、孫文と黄興の指導による、同盟会成立以来最大規模の蜂起(黄花岡起義)も失敗に終わる。

 革命を勝利に導いたのは、10月10日、武昌・漢口・漢陽で新軍(新建陸軍)が蜂起を開始してからである。日清戦争の敗北後、洋式訓練を受けた近代装備をもった軍隊が叛乱にくわわったのだ。この新軍の蜂起が起きると、たちまち革命は湖南、江西、山西、上海、浙江、広東など各地に波及。一ヶ月のうちう14省が清朝の支配を離脱した。

 清朝は光緒 30 (1904) 年頃までに、「北洋六鎮」といわれる新軍の6個師団を編成していたが、その精鋭の多くは袁世凱の編成になるものだった。この武力が、のちの袁の政権掌握を可能ならしめた。

 12月、革命軍は南京を占領。同年。1912年1月1日中華民国が発足、孫文が臨時大総統に選出される。しかし軍閥の巨頭袁世凱が、この革命を簒奪する。

 以上が中国の第一革命のあらましである。孫文『三民主義』(*4)に触れたかったのに、前史部分で、終わってしまった。また機会を改めたい。


注記
(*1)アメリカのヤコントフが『中国のソヴェト』(1934)を著し、中国ソヴェトの歴史を太平天国から説き起こし、その最大の意義は農民の革命運動であるところに重点をおいているという。在日の中国人研究者による『現代中国』(柏書房)の記述もおおむねこのラインに沿っている。いま注目しているのは、獄中の佐野学が執筆した『清朝社会史』で、太平天国を革命として大きく取り上げていることである(1945年)。

(*2) 太平軍には女子軍が編成され、纏足をせず、天足(自然なままの足)で労働した。また女性も科挙の受験もできた。しかし女性が纏足しないのは、太平軍の中核をになった福建・広東・広西の客家の慣習であり、男女平等をただちに意味するものではないという説もある。

(*3)太平天国討伐の主役は清朝軍隊ではなく、民間の義勇軍だった。直属の軍隊が腐敗していたためである。またフィリピン人を集めて、アメリカ人ワードを隊長とした外人部隊も加わっている。

(*4)孫文『三民主義』岩波文庫版は品切・重版未定。社会思想社の孫文選集は品切。中央公論社版の「世界の名著シリーズ」が、いま調べた限り(2005年10月10日)、新刊で入手可能なようである。
 手元にあるのは改造社文庫版(昭和14年8月14日、49刷)。余談だが巻末の目録が興味深い。マルクス・エンゲルス・レーニン・プレハーノフ・スターリン錚々たるラインナップがならんでいる。目録がある以上は、注文もできたのだろうか?(送料の案内もある) カウツキー『キリスト教の起源』など聞いたことのない本のタイトルもあり驚く。

【参考文献】
『現代中国』王曙光ほか(柏書房)
『中国』 中嶋嶺雄(中公新書)
『大清帝国』 増井経夫(講談社学術文庫)
【参考サイト】
http://www.mkimpo.com/diary/2001/tsukuru0106.html

(2005年10月10日記)

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