新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

二つのイレブン 9・11と3・11を超えて

2019年09月11日 | 革命のディスクール・断章
最近、昔書いて、どこにも載せなかった映画レビューが見つかり、このブログにWeb供養した。せっかく書いたのだから、だれかに読んでほしい。

 その一つが、ポーランドのスコリモフスキ監督作品『イレブン・ミニッツ』の紹介記事。9.11と3.11、二つの「イレブン」を経た時代の精神を、みごとに映像化していると思った。

 私はこの映画のラストに、「おお!」と膝を打ったのだけれど、二回目も同じように楽しめるかどうかはわからない。しかし、「“死後の生”はサイバースペースにある」という本作のコンセプトは、今なお興味深い。

 スコリモフ監督は、被写体の死後も生き続けるサイバースペース上の写真や動画を、「サイバー墓地」になぞらえた。人類は、悲願の「死後の生」「永遠の生」をようやく手に入れたかわりに、サイバースペースという牢獄に囚われることになったのだともいえる。この監督の言葉に、私はボードリヤールの『象徴交換と死』を思い出したりする。

 9・11について、ボードリヤールは、「事件を起こしたのは彼らだが、そう望んだのはわれわれなのだ」という趣旨の発言をしたそうだ。私はボードリヤールがあまり好きではないのだが、また読んでみようかという気にはなる。

 9・11の直後、某派の諸君が、「アルカイダ断固支持」というアジビラを撒いているのに遭遇した。今風にいえば「炎上商法」「便乗商法」のようなものだったのかもしれない。まあ、「元同志」である私だって、アメリカ帝国主義に比べたら、アルカイダの方がマシだと、消極的相対的に後者を支持することもあるかもしれない。しかし、そんなことをしたって、その先にはどんな解放のビジョンも希望の原理もない。こんな連中の行き先は、昔は「歴史のくずかご」といったものだが、くずかごでは容積が足りなくなってきたようである。歴史の埋め立て地とでもいおうか。

 米帝に対して、何ができるのか。もう無差別テロしかないのか。しかし最晩年のサルトルが語ったように、倫理は不可能かもしれないが、不可避であるというだけだ。

 この「墓地」あるいは「瓦礫集積場」としてのサイバースペースは、別の側面から見たら、いわゆる「監視社会」の問題を提起しているともいえる。デヴィッド・ライアンは、監視社会を「消失する身体性」から説き起こしていた。

 「監視社会の勃興は身体の消失に深く関わる。距離を隔てて何かを行うとき、身体は消失する。電話をかけることは声だけでコミュニケートすることだが、eメールでは、この身体性の痕跡すら消え去る。だから、顔文字のような絵記号が登場するのだ。見えない顔の代用品というわけである」(『監視社会』)

 本書は、「個人の再-身体化」、「面と向かってのコミュニケーション」という結論で終わる。ネットやSNSに眉をひそめ、「リアル」「生身」の大切さを説く、頑固親父のお説教風だ。

 私はこの意見に半分同意する。ビジネスでも同じだが、人と人の信頼関係を築き、生産点や生活圏に根を張った、身体性を奪還するムーブメントを起こしていかない限り、現実の問題を解決することはできない。

 アラブの春や、3・11以降の「SNS革命」に、危うく私も夢を見かけたことがあるが、SNSによる相互依存、相互監視を嬉々として受け入れる人たちの存在が、現代のグローバル世界における「保守革命」を支えてきたことは、忘れてはなるまい。ネットは、人と人、都市と地方の距離をゼロに等しいものにするといわれながら、人びとの分断を進め、都市による地方の収奪を進めてきた。朝鮮・韓国人差別を扇動する差別排外主義者が自分を「普通の日本人」と思い込めるサイバースペースとは、『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが語った幻想の共同体である。人間から人のこころを奪い、「肉屋を支持する豚」のごときものを大量に生み出す、この幻想共同体を支える現実的・実在的な土台を根底的に覆していかなければならない。

 ただし、ライアンの『監視社会』は2000年代初頭のものだ。デジタルネイティブの若い女性には、「顔文字」を多用し、下心丸出しで、ネット上でも加齢臭芬芬(ふんぷん)たるFacebookおじさんは、今や嫌悪と軽蔑と揶揄との対象にすぎまい。デジタルネイティブにとっては、ネットもSNSも、「リアル」の一部であり、デオドラントが必要な「身体」の一部であるということには、おじさん世代には注意が必要だろう。

 マルクスは近代プロレタリアートを「資本主義の墓掘り人」と呼んだが、今や資本主義の自滅へのチキンレースをひた走るのは、マネーの奴隷に化したブルジョアジーたちである。サイバー墓地の「死者」たちも、この墓掘り人を地中に引きずり込み、共に地獄送りにする、『学校ぐらし!』の「彼ら」くらいの役には立つかも知れない。

 昨日のツイートより。

 「ネットはひどいものだね。ゴミが人のような顔をしているよ。でも、それは今に始まったことじゃない。「希望」がどこにもないのなら、作り出していくしかない。」

 年忌法要ではないけれど、これもWeb供養で、9・11の10年後に書いた記事にもリンクを貼っておく。

最新の画像もっと見る