九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

小堀五郎と九里小五郎から予測してみよう!

2024-09-07 | 九里バラバラ情報



五郎と小五郎…という事は、父親も○○五郎であった可能性もあるか?と思い「五郎の線」で調べてみることにした。

「九里ではなく、小堀で調べていくと何かがわかるかもしれない。」と以前調べた際に秀郷流が出てきた。

では、秀郷流の中のどの氏なのか?を突き詰めてみようかと思う。
まず、○○五郎がいる氏から!







佐野氏の中の小堀氏は、系図の中に見つけた。






「佐野氏」で関係がありそうな箇所は以上であった。
小堀彦太夫政長と小堀宮内長利である。

が、これだけではよくわからない。

「五郎」「秀郷流」にこだわると、他にも接点があるかもしれない。
以前の記事につけた系図 
五郎の系 波多野五郎義景
     菖蒲五郎実経 ↓


石見国美乃知黒谷地頭職は「菖蒲五郎真盛自関東所給預也」 
石見国長野庄美乃知谷承久三年九月源助長は「依勲功賞」より当郷地頭職に補任せられたが、これは当然承久乱の功によるものであろう。


もしや、九里氏となる以前は「波多野流の菖蒲五郎の系だったか?」
とも思うのだが、決め手に欠けている。
萩藩の和智氏が持っていた文書に、広沢実方の名がみえる。
この人物も義通の息か…と云われている。

石見国も大事だが、紀伊国熊野でいないか?
「五郎」「秀郷流」

いた!小山氏である。
我が家に以前購入した『紀州小山家文書』という本がある。
そこにいくつかの系図が載っている。
小山政光ー朝政ー長村(小山五郎左衛門・小山大夫判官・母中将宗長女)ー時長(小山左衛門五郎・小山下野大掾)ー宗長ー五郎左衛門ー貞朝(小山四郎左衛門尉・下野守評定衆ー高朝(小山下野守)ー秀朝(小山判官)ー朝氏 童名犬丸・改蒲生)

高朝ー実隆(小山新左衛門尉・文保二年1318年任左衛門尉 小山三郎、後入道法眼浄円)ー隆長 (実隆嫡子 号小山五郎 正平七年1352年文書有)ー 隆春(小山五郎左衛門・元中九年1392年)ー隆義(小山五郎三郎・)

九里が熊野に赴いたのは1300年代初めではないかと思う。
実隆以降とかかわりを持っていたかもしれない。
実隆は、熊野にいたようで、文書に熊野山小山三郎殿・・・と1289年に文書(書状の写し)が残っている。

『是時湖山判官秀朝舎弟新左衛門尉実隆、同八郎経幸等亦奉鎌倉命、率一族十三人従平、三百余騎上洛、実隆・経幸為守護南辺、下向熊野、実隆在牟婁郡潮崎庄古座浦、経幸同郡冨田郷(子孫今在三箇庄)、・・・・・』

これは、小山氏の五郎とつながっていたかもしれない!という気がしてくる。
小山実隆と息の五郎隆長あたりを調べてみよう!



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近江国 紀氏 木村氏 そして九里氏につながるか?

2020-04-05 | 紀氏

下野守
・1110 紀盛宗の娘
     ‖―――佐々木定道 従5位下 佐々木宮神主 太郎太夫
    宇多源氏源行定 佐々木宮神主 従5位下


1190頃 紀盛親の娘
       ‖―――新屋源太行景
     宇多源氏源行實 従5位下 井上三郎太夫

これが正しいとなると私が持っている系図は違っていることになる。
良く調べた結果、下に系図を貼ったが、 行実ではなく、 行方が正しいか。

しかし、行定と行実は「母が紀氏」は共通だが、母はそれぞれ違う女性であるという事を示唆しているのかもしれない。

佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_13.html

行真の娘婿道澄の兄源七郎道正は、木村定道(権守)の子息木村道政(新大夫)である。木村定道は、東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道と同一人物と考えられる。鯰江庄下司は貞道の次男貞政が継承して、さらに景政・家政と受け継がれた(春日大社文書:文永五年正月日付鯰江庄下司相論由来)。そうであれば道正は紀氏である。

 また道正の妹婿家次は仮名が愛智三郎であり、愛智家行(権守)の子息平井家次(権守)に当たる。近江国愛智郡には郡司愛智秦氏があり、仁平三年(一一五三)三月五日に秦為次が近江掾(近江国司の三等官)に補任された(『本朝世紀』)。「次」の字が兄弟間の通字と考えられることから、家次は秦為次の兄弟の可能性がある。
彼らは権守あるいは大夫を称しているように、従五位下に叙爵されていた。経済力で院に接近して、自らが開発した荘園を寄進し、位階を獲得していたのである。

☆行真=行実である。

===*===
確かに昨日の表を作る際に紀氏には鯰江荘に関する文書が多く残されていたことを知った!

さらに佐々木哲氏のメルマガよりその部分を紹介させていただこう。↓
===*===

東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道は、沙沙貴神社所蔵佐々木系図に見られる木村道政(道正)の父木村定道と同一人物と考えられる。これで名字木村の由緒が分かる。紀氏の血族集団を紀氏の群(村)という意味で、木村と称したのだろう。本姓紀氏を名字として、佐々木氏と同様の源朝臣を氏姓にしたのである。また、この本姓の紀氏は、中央貴族の紀氏とは直接血縁関係があるのではなく、孝元天皇皇子大彦命の子孫佐々貴山公が、同じく孝元天皇の子孫である紀氏を名乗ったと考えられる。
鯰江庄下司は貞道から次男貞政(道政弟)に継承され、さらに景政・家政と受け継がれた。兄道政の系統は源氏を名乗ったが、貞政の系統はまだ紀氏を名乗っている。そして貞政の孫家政のとき、叔父建部入道西蓮と鯰江庄の権益をめぐり相論が起きた。叔父西蓮は建部氏を名乗っており、紀氏と建部氏が姻戚関係にあったとわかる。

建部(健部)は、ヤマトタケルノミコトの功績を後世に伝えるために置かれた名代部である。名代部は在地首長の子弟からなり、一定の期間に都に出仕して大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシワデ)にあたった。

===*===

以前、木村成俊に関し調べていたはず。
それが、ここでまた中原氏と紀氏の関係上必要になってくるのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%88%90%E4%BF%8A


もう一度考え直してみたい。
木村氏と九里氏もとても近い!が、系図のどこかが違っている。
佐々木氏の系図と近江国御家人井口中原系図の中の九里周辺が「成俊」をキーワードに整合してみると合わない。
しかし、伊香三郎と木村三郎成俊は伊香にいた…とあったような気がするのだ。それをまず見つけなければ。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/kimura.html
https://tabi-mag.jp/kimura/
「木村氏の血筋は出雲神話から始まる「神氏」(じんし)一族ともいわれているし、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるようだ。

木村さんのルーツとして重要なのは、近江国蒲生郡木村(滋賀県東近江市木村町)発祥の木村氏だろう。
『源平盛衰記』に記される湊川で平通盛を討ち取る木村成綱は、紀朝臣(きのあそん)成高の後裔。
また、同じ紀氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏流の木村一族はつとに有名で、佐々木氏のルーツ・佐々木成頼(ささきなりより=源成頼)から6世の佐々木成俊が、近江国伊香(いか)郡木村(現・長浜市)に因んで木村と称したという。」

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/21ca1eda53cea162452dcbbb5e39f86a




===*===

紀氏とすれば、富来氏(豊前国 国東半島)も紀氏という。

===*===

紀氏と熊野memo
1200 長済 安楽寺 法印・別当
    ・1219-10-13 熊野那智大社 善長房
           ・善長房 譲 善宝房状 譲与
           ・那智山内「尊勝院」房地並諸国壇越等事
           ・尊勝院:那智山の潮崎氏が代表する
    ・先師:尊念 瀧本執行法橋を継ぐ 
    ・父:菅原朝臣(五条家)
    ・母:不詳
    ・生没:不詳
子┌宝済(善宝房)那智執行(先師:尊念とは親類)
  └俊済(円道坊)弟 長済から房地十間壇越等を譲られる

===*===

追記 ココは解決 


===*===

木村紀太蔵人…だったのかもしれない。

http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
紀氏のルーツさんより 

近江八幡市

①木村氏(安倍氏・佐々木氏流)「佐々木神宮職」を相続したもの
     ・蒲生郡木村より起こる

  ・佐々木行定は母姓を冒して木村権守道政という
       ・佐々木宮神主 家紋:四目結または釘貫

  ・木村源三成網は佐々木庄に住し姻戚上の関係より
           佐々木とも云う、源姓を称した

  ・木村重成葉豊臣秀頼を助け活躍した青年将校、24才で戦死

宇多天皇―敦實親王―雅信―扶義―成瀬―義経
                    │
   ┌───────────────────────┘
   │  紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔)    
   │    ‖   ※1              ┌成経
   │    ‖―木村行定─┌定遠→成俊→資経→成経─├俊綱→宗綱
   │    ‖ 従5位下 │            │
   └──佐々木経方近江守 └定道太郎太夫 従5位下 └木村源三成綱
     近江国惣追捕使    佐々木宮神主      (佐々木姓) 
        
        ・・・・・・・・・・・

①「日牟禮八幡宮」旧:県社・別表神社
       ・祭神:応神天皇・神功皇后・比賣神(宗像女神)
       ・創建:伝131年
          ・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時
           武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を
祀ったのが草創とされている。
       ・鎮座地:近江八幡宮内町257

②「大嶋神社奥津嶋神社」旧:県社・式内社
       ・祭神:大国主神・奥津島比売命(宗像女神)
       ・創建:伝成務天皇の時代
          ・治世に武内宿禰により勧請されたとされる
       ・鎮座地:近江八幡市北津田町529

③「長命寺」天台宗系単立
     ・山号:姨綺耶山
     ・本尊:千手観音・十一面観音・聖観音
     ・創建:伝 619年
     ・開基:伝 聖徳太子
     ・第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の下に
       「寿命長遠諸願成獣」と彫り長寿を祈願した。
        このため宿禰は300才の長命を保ったと伝えられる。
     ・住所:近江八幡市長命寺町157

④「沙沙貴神社」=「佐々木神社」式内社
     ・祭神:宇多天皇・敦實親王・大昆古神
     ・創建:927年以前
     ・鎮座地:近江八幡市安土町常楽寺1

⑤「広済寺」天台宗→浄土真宗本願寺派
     ・山号:不詳
     ・本尊:阿弥陀如来
     ・開基:592-628 天台宗武佐寺
     ・改宗:1235 
     ・1354 後光巌天皇は「広済寺」に落ち延びた
     ・住所:近江八幡宮市武佐町597   

⑥「大光寺」天台真盛宗
      ・住所:近江八幡市土田町1058



蒲生郡

①「馬見岡綿向神社」旧:県社
     ・祭神:天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
     ・創建:545年に祠を建てたのが始まり
     ・移転:796年に現在地へ
     ・境内末社:①「稲置三麿神社」
            ・祭神:蒲生稲置三麿
            ・859年 紀武人雄子とういう人、
                 大宮社地に遷し玉椿神社と共に末社と
            ②「玉影神社」
             ・祭神:小舎人紀重方・紀實方・紀實信
・代々の宮司の御霊、氏子内の英霊
             ・当神社に功績のあった人の御霊
      ・鎮座地:蒲生郡日野町村井705

②「十二社」
     ・祭神:国常立命・伊弉諾尊・天照大神
         彦火火出見尊(神武天皇の祖父)
         鵜茅葺不合命(神武天皇の父)
     ・鎮座地:蒲生郡日野大谷1

③「天満宮神社」
     ・祭神:紀貫之命・菅原道真公
     ・鎮座地:蒲生郡日野町河原504



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佐々木伊勢守貞綱 加地佐々木・潮崎氏となる か?

2018-08-22 | 佐々木氏

熊野のことに詳しい方のHPからの一部分です。↓


http://www.keyspot.info/fudoki/siozakisho.html

潮崎氏は平相公清盛の弟、池大納言頼盛卿の孫、河内守保業の子、保定の裔である。承久3年北条泰時が京都に乱入のとき、保業を京方であるとして罪を負わせて紀州に流した。よってこの地に住まう。その子、保定が地名の潮埼をもって氏とする。

後村上帝の御時、当国の目代佐々木伊勢守貞綱潮崎氏と婚を結んで一族となったという。潮崎氏がこの荘を全て支配するようになったのはこの時代のことであろうか。


元弘の乱のとき、北条高時が小山左衛門尉実隆、同経幸に命じて熊野の海辺を守護させた。実隆が来て潮埼荘にいる。それより代々この地に住まう。その支配する地の広さは詳らかにしがたい。

小山氏また塩埼氏と隣好厚く婚を通して一族となり、共にその境界を守り、軍を出すときは互いに人衆を出して互いに助けたと見える。延元の頃、南朝より塩埼一族中小山一族中と1紙に載せられている綸旨が2通ある(三前郷の西向浦の小山氏蔵)。また正平21年潮埼逸学討死のことを小山より奏する状がある(この文書は安宅荘の久木村の小山氏蔵)。これらによってみると、両家が相並んでこの地を支配するので、その境界の広狭大小はいま詳らかにしがたい。

~~~*~~~

このほかにも、小山氏と中原氏のコンビで荘園を経営?しているらしき文書も残っていた。

潮崎文書、興味深いデス! (東京大学史料編纂所データベースで読むことができます。)

~~~*~~~

さて、この目代をしていた「佐々木伊勢守貞綱」とは、佐々木哲学校の記事に出てくる人物だろうか?
http://blog.sasakitoru.com/201003/article_1.html

以下は、記事の部分である。

実は沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、七郎左衛門尉氏綱流の佐々木加地氏は氏綱―景綱―貞綱―宗綱と続く。

でも読んでいくとその貞綱が貞経、宗敦、と変形していき?わからなくなるのだが、ともかく沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、貞綱が書かれている、ということだ。

では、貞綱の父である氏綱を調べてみようと思う。

盛綱~信実~9人の息子たち秀忠・実秀・時秀・信重・資実・義綱・時基・氏綱・信朝


佐々木加地氏綱 佐々氏綱(さっさ うじつな)は、佐々木盛綱の子加地信実の八男。鎌倉時代前期の人物。

上総国佐々庄に本拠を構え、佐々氏を称したとする説がある。子孫に戦国武将・佐々成政などがいる。
また、佐々庄の二・三代目は佐々氏長・氏春だそうだ。(鎌倉中期とあるので、貞綱もか?)
しかし貞綱は「佐々貞綱」では検索しても出てこない。

上記の記事の「後村上帝」の時代は1339-1368年で、この貞綱の生きていた時代とは鎌倉中期(1222-1287年)

時代が違う! 加地の貞綱ではない暗雲が垂れ込めてきた。。。。

またの検討が必要なようだ。残念! 下とつながりそうだったが…違う可能性大。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/e/1a6b9b5ace768eb15f4e6962f82d4710



















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九里龍作と大江氏系図

2018-05-04 | 大江氏


この本によると「惟宗姓五代系図と大江氏系図写九里龍作系図」とある。
大江氏が土台になって、そこから派生した「九里氏」の系図を作ったのではないだろうか。

ここに真実があるとすれば「九里の祖」は 中原氏=大江氏の中から生まれたことになる。
そして、龍作氏の叔父であった「九里」が、「九里の祖」の続きである、ということになる。
九里庄二郎、庄三郎は「近江国」から紀州に移り住んだ人たちであったことになる。

そしてもう一つ、大江家に関してのブログを見つけたのでここにご紹介したいと思う。

http://koremori.net/%e5%a4%a7%e6%b1%9f%e5%ae%b6/

これによると、「平頼盛の孫に保教(保盛の子)がおり、承久の乱に参戦し討死している。
この事から保盛の兄の保業が京を追われて船で串本の潮崎の庄(今の潮岬)に上陸した。
そして、その地名をとって潮崎姓とした。この保業の船に大江親広もちゃっかり同乗してきたのではあるまいか。
そうだとすれば、大江家分家の潮崎辰雄氏のいう「潮崎の庄へ上陸したので潮崎姓にした」という証言とも話しは合ってくる。
ひょっとしたら大江家の先祖はその先祖を割り出す手がかりとして、分家に潮崎姓をつけさせたとも解釈できる。」とある。


その頼盛は池家では? wikipediaによると、
頼盛の息子平保業は承久3年(1221年)、池大納言家領のうちの播磨国在田庄預所職に補任される(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2813号)とともに、関東祗候を要請され(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2814号)、以後御家人として鎌倉時代末期に至るまで代々の将軍家に仕えた。また頼朝の推挙により朝廷より河内守に任じられた。
池家は、その後は「保業 - 光度 - 為度 - 維度 - 宗度 - 顕盛」と室町時代まで継承されたが、
在田庄ほか丹後国倉橋庄与保呂などの池家の所領は顕盛養子の朽木経氏に伝領された。
(朽木文書・『鎌倉遺文』30280・31207・31245号、『寛政重修諸家譜』)。

なお頼盛に返還された池大納言家領のうち息子光盛に伝領されたものは、娘たちを通して外戚の久我家へ継承された。薩摩国の有川氏はその後裔と自称した。

~~~*~~~

この潮崎氏のあたりは、以前も調べていたが、中途半端だったので、今度こそ!
それに赤字にした「久我家」こそ、大江親広の養父「源 通親(みなもと の みちちか)」の苗字ではないのか?
「頼盛の息光盛の娘たちを通して外戚の‥‥」の意味を調べてみた。

http://chibasi.net/iseheisi4.htm


「子孫の平頼盛の所領はのちに池大納言家領として頼盛の子へ伝領された。そのうち、嫡男・従二位平光盛に伝領された分は、「まんさい御前」を通じて久我家領となる…

では、この「まんさい御前」とは?
確実ではないが、源(久我)通忠室ではないか…ということである。平光盛娘ということである。



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熊野別当行範(2) 

2017-08-24 | 熊野氏
熊野氏に関して符合する所を書いてみようと思う。

姓氏家系大辞典より(ポイントをメモ)

出雲国意宇郡に熊野の地ありて、熊野大社鎮座す。
丹後に熊野郡あり。
丹後国司解「久萬乃」
近江伊香郡に熊野南庄北庄、また当国、及び越中に熊野神社有。
太古の熊野家 天祖の御子に熊野久須毘命あり。
熊野国造 国造家は物部氏の族
熊野連 子孫を和田氏という。
本宮社家 楠・長田・竹内等
新宮社家 宇井・鈴木・榎本
長快・新宮に住して、三山の政務を司る。その長子を長範という。長範の子を行範といい、新宮法眼と称す。
その裔・世々新宮の住して、別当に補任せしを以って新宮別当という。

また、長快の四男を湛快という。湛快の子を湛増という。初めて田辺荘に住す。
その裔・世々田辺に住して別当に補任せしを以って田辺別当という。

衆徒 永田・石垣・長田
神官 秦地・宇井・鵜殿鳥居
社僧 横山・鈴木・楠木・榎本・宇井・石垣・神倉・等

那智社家 潮崎・汐崎・米良(熊野別当)・鹽崎(平姓)・橋爪(源・新宮十郎行家後)・西 等
熊野別当は長快初めての別当に補せられ…云々



これらに加え、江州中原氏との関係! 
しかも伊香郡の北熊野・南熊野庄は、まさに九里氏の祖とダイレクトにつながっている系が「伊香大夫」などで繋がってきた場所である。
江州中原氏は天慶二年(938年)より伊香にいたのである。




もう一つ、行範の息(六男)行遍wikipediaより
行遍は若年の頃、熊野新宮の社僧・御師としてその家業に従いつつ、熊野で修行していた紀伊出身の有名歌人西行法師(1118年-1190年)から歌道を学んだ。その時期は1160年代後半から1170年代前半にかけての時期と推定される。

元久元年(1204年)、熊野行遍法橋は、『新古今和歌集』の撰者の1人である藤原定家の九条宿所を訪ね、西行のことなどを懐かしく語り合い(『明月記』元久元年6月15日条)、定家に自らの歌をゆだねた。その結果、『新古今和歌集』に「法橋行遍」という名前で上記の4首が入撰したと推定される。

元久2年(1205年)、行遍は、実兄の23代熊野別当範命(1148年-1208年)の推挙により、法眼に補任された(『明月記』元久2年1月1日条)。
行遍の死亡時期は、鎌倉時代初期の1210年頃に比定される。享年60前後か。僧侶としての極位は法眼。行遍は、後に紀伊の新宮や有田の宮崎水軍の統率者となった宮崎氏の祖とされている。

以前調べた「宮崎氏」ともココで、つながったのである。




コメント (4)
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私の考えた九里系図と繋がり (1)

2016-03-06 | 日記

本当かどうかは神のみぞ知る…で、自信もありません。

しかし、書いておけば、どなたかが何か思い当ったり、何か解明の糸口になるかもしれないと思うのです。


九里系図と繋がり

九里の祖の先代が、中原姓から橘姓に改めている。橘次経任(経遠?)


九里太郎経久=蓮忍入道

卜部基仲(蓮浄) ― 娘婿 藤原実明(1153生まれ 北家閑院流)― 公真か?(蓮乗) ― 

九里太郎経久(蓮忍)富木または富城中太蓮忍 ― 経重 ― 秀重(唐崎合戦討死) ― 秀宅 ー 秀方(熊野住)


卜部基仲の娘は、白川家に嫁いでいる。(web系図より)(近江守卜部基仲女。神祇伯仲資王の妻、業資王・資宗王の母、建春門院伯耆)

蓮乗の祖父が卜部基仲である。(醍醐寺文書より)

実明の息子が蓮乗である。  (醍醐寺文書より)

蓮乗の再興した室尾谷観音寺は河守御荘にあり、其の河守御荘の地頭になった蓮忍は再興となった観音寺に山林を寄進をしている。(1239年)

御荘と「御」が付くときには、偉い方の荘園だそうである。

室尾谷と書かれているときもあり、室谷と書かれているときもある。


蓮乗の祖父卜部基仲だが、近江入道蓮浄と言われ【鹿が谷の陰謀】で配流された人物でもある。

蓮乗の父である実明は、兄実宗が西園寺家であり、その後、九条・三条へと広がりをみせる閑院流である。


その実宗と実明の実父は藤原公通 実母は持明院通基の娘であり、その母の異母兄弟に持明院基家がおり、基家の妻は平頼盛の娘である。

そして、頼盛の娘の娘(孫)は実宗の妻になっているのである。(姉は後高倉院妃、後堀河天皇母である)

また、実宗の娘は藤原定家に嫁いでいる。定家は御子左家である。



頼盛に関しては、熊野とも関連がある。(web情報より)

熊野那智社社家、潮崎氏は頼盛の子息、河内守保業の末裔を称している。

承久三年、紀州に流さる。因りて此の地に住す。

其の子保定・地名の潮崎を以って氏とす。潮崎を領す。」『続風土記』より


『牟婁郡那智山社』解説より

頼盛の子孫・当郡潮崎荘に居住し、其の地を押領せしより、潮崎を氏とせしなり。

家系に尊念といふあり、『那智山執行法印、昇殿』とあり。又、代々の系を挙げて、皆瀧執行と記せり。


塩崎氏*解説  

池大納言頼盛卿の孫【河内守保業】承久の乱・当国塩御崎に逃れ、塩崎荘を領す。

嫡子保秀は那智山廊坊の養子となり、濱宮勝山に居城す。


近江国との関係では、↓朽木氏との関係があることがわかった。


頼盛末裔 池氏と朽木氏

寿永三年四月五日に源頼朝は、池大納言平頼盛の母池禅尼が平治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため、平家没官領中の頼盛の家領三十四ヶ所を返還した。

…と頼盛は平氏ではあるが、領地を没収されたままではなく、返してもらっている。

また、wikipediaより情報では、

朽木氏

高島郡の有力武士の一つであった。義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。


朽木家文書(東京大学史料編纂所のデータベース)では、この池顕盛はまた【河内次郎顕盛】とも記載有。

そしてなぜ朽木氏が気になってきているのかは、次回に書こうと思う。


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