鹿苑日録の記事を読むと、源兵衛と共に『永原氏』が登場する場面がいくつか見つかった。
永原氏は祖は藤原秀郷流の系と近江の佐々木経方から始まり愛智源四郎大夫家行につながっていく系もある。
深尾秀長の祖母は永原越前守重行の娘であった。(系図の見方では秀長の母とも読み取れるのだが…)
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九里源兵衛は、永原家に匿われていたのかもしれない。(養子として六角高頼の弟重が入っているので匿われたのではなく、預けられたとも考えられるのだが。)
系図をよく見ると、永原氏には他の越前守も何名かいたため重行とは限らないことに気が付いた。が、乾氏との接点で言えば、可能性が大きいのが永原越前守重行である。
この永原系図の下の方に山内・永原・乾氏のつながりを示す系図がある。これが非常に重要と思う。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html
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永原(山内)刑部大輔一照 ( -1620)
諱は一照(かつあき)。字は刑部大輔。本姓は永原氏。山内刑部と称す。本山山内氏の初代なり。
天正12年(1584)山内一豊に召抱えられる。
土佐御国入の時、藩主山内侯より本山に領地を賜い、「山内」の称号を許されて、山内刑部と称す。土佐藩家老なり。
元和六年(1620)6月30日卒去。墓は土佐國長岡郡本山にあり。
嫡男一長、二男正行
この次男が乾氏と成るのである。
乾(永原)金右衛門正行( -1649)
諱は正行(まさゆき)。金右衛門、平九郎と称す。本姓は永原氏。
永原(山内)刑部一照の二男に生まれ、乾(板垣)加兵衛正信の養子となる。山内但馬一長の実弟。
慶長年中、養父加兵衛正信の跡目高千石の内から、三百石三人扶持九歩を下し置かれ養子相続する。
同19年(1614)江戸城御普請の御用を仰せ付けられる。
慶安2年(1649)12月18日病死する。
明治元勲板垣退助伯爵の血縁の先祖なり。
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この乾氏と同じ家紋のわが系 九里八郎右衛門家である。
しかし、我が系は 土佐国とは関係が無いようであるし、江戸時代以降の柏原藩の系図にも乾氏との婚姻関係もない。
この乾氏がキリシタンと仮定し、我が系も始まりはキリシタンであったとし、その当時流行っていた紋であった‥‥とか、何かあるのかもしれないが、珍しい家紋でもあり、同じ紋というのは非常に気になる処である。
しかも、他の九里家では使っていない点も気になる。
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永原氏と乾氏の関係に注目してみると
【乾甲斐守秀之】はこの永原系図に出てくる乾氏の関係者ではないだろうか?
本当は秀行で、「行」の字が通字となっているようにも思える。
とすれば、九里員秀の娘の聟であった人物なのではないだろうか? 乾甲斐守。
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永原氏のことに関しての学びとしては佐々木哲学校の記事が詳しかった。
http://blog.sasakitoru.com/201302/article_6.html