知多市史 本文編 によると、
佐治氏は南北朝のころは丹波国に住し、のち近江国甲賀郡佐治郷に移って佐治を称するようになった。
甲賀郡の飯道山の岩本寺に居たこともあり、飯道山の修験道から身を立てたものともいわれる。
(飯道山の岩本寺…九里が鎌倉時代後期~紀伊熊野に移る前までいた場所でもある。)
佐倉市史
康平五年近江国甲賀郡小佐治郷に補任し佐治殿と称されたと伝う(佐治氏由緒書)。以来、江州甲賀郡の古士三十一人衆の中に列した。
佐治氏の本質は近江国甲賀郡佐治之郷
佐治城は、甲賀衆の佐治氏の城とされる。
康平5年(1063)に平業国が伊豆から移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったという。
尾張國諸家系図によると、
國香流一北條氏族佐治氏系図(一)系図七十一佐治氏発祥;近江国甲賀郡佐治庄発祥八郎与九郎信吉爲興佐治駿河守上野介宗貞爲貞家紋丸木骨開扇子長兵衛-爲忠-女嫁水野藤次郎——藤十郎示相國寺-陳西堂善応院住職-女二人姉嫁大沼三郎九郎妹同寺本城主花井勘八-女 ...
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佐治氏系図尾州知多郡大野村(現常滑市大野町)宮山城主。『尾州諸家系図集』所収近江国甲賀郡佐治庄発祥は桓武平氏国香流北条氏族。佐治宗貞駿河守。大野村宮山城主。「享禄三年九月七日卒、法名前駿州大守斎年寿山大居士。」佐治爲貞杉王丸。
佐治氏系図尾州知多郡大野村(現常滑市大野町)宮山城主。『尾州諸家系図集』所収近江国甲賀郡佐治庄発祥は桓武平氏国香流北条氏族。佐治宗貞駿河守。大野村宮山城主。「享禄三年九月七日卒、法名前駿州大守斎年寿山大居士。」佐治爲貞杉王丸。
花井勘八(土岐氏守護代)とweb情報にはある。
花井氏は紀伊の九里氏系図の中にその名が一名だが挙がっている。
皆どこかでつながっているような…同じ佐治氏が別れて住んでいただけなのだろうか?
前回の『出羽中条家』
八田知家の養子となり、藤原北家道兼流と称していた。出羽守であったので其の出羽中条家と思うのだが、
1318年に佐治氏の佐治郷が川を挟んで北と南に分割されたのだろうか?
曳田という名前になった方の佐治氏だろうか?
曳田は、斉藤・(清原)・大江氏と関係の深い疋田氏にも通じているような気がしているが、まだシッポを捕まえていない。浄円あたりか?
この他に、近江国では蒲生から佐治となる。(近江蒲生郡志)説もある。
儀峨氏と同じ祖 蒲生俊光を持ち・馬渡氏とつながった。
一方、平業国の子孫とある。
此の平業国とは、近江名跡案内の本によると、平維時の息であるそうだ。
なるほど、北条時政の高祖父が維時なのだそうで、しかも維時の息は直方で、直方の娘は源頼義の室となっているので、佐治氏の立ち位置と近いのではないだろうか。
佐治一族は武門である平氏の平業国が佐治荘を領したのが始まりの名門である。分家が尾張国知多半島の大野に移住し大野佐治と呼ばれるようになるが、諸国への売薬や東三河の設楽との間を往来する大原一族とは水運でも縁が深かった。(家康と甲賀忍者 大原一族 太伴原甲賀著) ↓ (小説)
佐治氏も鈴鹿山警固で入った‥‥という説もあり、山中氏・深尾氏ともつながってくる。
深尾氏の一族の浅小井氏もまた、北条とつながる処を見ても、似ている。
右の白抜きが小佐治周辺。
左 貴生川の小学校付近に飯道寺がある。
鎌倉時代後期から 九里氏もそこにいたことがある。(系図にはたしか飯童寺…と書かれていた。)