九里 【九里】を探して三千里

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惟宗氏 (4)亀井六郎重清の裔亀井茲矩の祖父が惟宗氏であった。

2019-11-24 | 雑記

2015年に来ていた佐々木哲氏のメルマガに「惟宗氏」と関係がある部分があった。

『亀井秀綱の系譜―惟宗藤原氏』である。
関係のある部分を書き出してみようと思う。

亀井氏は穂積姓鈴木氏、あるいは宇多源氏佐々木氏ともされる。
穂積姓鈴木氏は熊野国造の子孫で、本拠は紀伊国名草郡藤白邑である。
『紀伊続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」の項で、亀井六郎重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。佐々木系図で秀義の六男にあたる人物は、吉田氏の祖厳秀である。もし鈴木氏の系譜伝承が正しければ、厳秀と重清は同一人物ということになる。


出雲亀井秀綱は尼子経久・尼子晴久に仕えた。
亀井秀綱は寺社を統率する立場にあり、出雲国内の宗教勢力(杵築大社・鰐淵寺)と交流し、また寺院の創建や修繕に関わっていた。
秀綱の活動は享禄三年(一五三〇)まで見られ、天文年間には亀井安綱の活動が見られるようになり(日御崎神社文書・江北記)、天文九年(一五四〇)の竹生島奉加帳は、亀井太郎左衛門尉安綱によって記さている。その奉加帳の富田衆の最後に亀井藤左衛門尉国綱が記されている。安綱と国綱はともに秀綱の子であろう。

秀綱は「亀井藤兵衛尉」「亀井能登守惟宗秀綱」と署名している。藤兵衛尉と名乗るのは藤原氏であることを示しているが、また同時に惟宗氏も名乗っている



惟宗氏は渡来系豪族秦氏の子孫で、近江の愛智秦公も、もともと「朴市(えち)秦」と記したように、新羅王家朴氏の一族と推定できる



この惟宗氏の子孫で著名なのは、薩摩島津氏と対馬宗氏である。惟宗氏は、学者・実務官僚の家柄であり、在庁官人・荘官として活躍した。
島津氏は荘官、宗氏は在庁官人の出身である。


仮名が藤兵衛で、氏姓が惟宗朝臣ということは、亀井藤兵衛家に惟宗氏が養子に入ったと推定できる。
石見津和野藩主亀井家の系図で、亀井茲矩の祖父に「惟宗」を記すのは、惟宗氏を人名と誤り伝えたものと考えられる。

実は藤兵衛を名乗っていたのは秀綱だけではなく、子の国綱も「藤左衛門尉」と署名している(鰐淵寺文書)。また永禄五年六月二十七日付波根駿河守宛尼子晴久袖判状(波根文書)でも、亀井久清が「亀井藤兵衛尉久清」と署名している。このように国綱や久清の仮名から亀井氏が藤原氏と名乗っていたことが分かる。在庁官人惟宗氏の子孫であったために、寺社との交渉に優れていたと考えることもできる。

織豊大名亀井茲矩は本名を国綱といい、湯永綱の長男として生まれた。山中幸盛との関係から、幸盛養女(亀井秀綱女)を娶り、亀井氏の名跡を継いだという。亀井氏が佐々木氏になったのは、茲矩が隠岐佐々木流湯氏(頼清流佐々木氏)から亀井氏の名跡を継承したからと考えられる。これで亀井藤兵衛家は源氏の血筋になったのである。



ところで武蔵国に亀井城(神奈川県川崎市)があり、『新編武蔵国風土記稿』の「上麻生村」の項では、「小字亀井 亀井と云人居住せしより、かくよべりともいへり」と記されている。現在の神奈川県川崎市麻生区であり、佐々木氏領の川崎庄・渋谷庄に隣接する。

===*===

上記に登場した氏をweb情報で。

http://www2.harimaya.com/amago/am_busyo.html

湯 氏

 湯氏は宇多源氏佐々木氏の一族である。出雲守護佐々木義清の孫頼清が出雲国仁多郡湯村を領し、地名に拠って湯氏を称したのがその始まりといわれる。
 永正の頃の泰敏は尼子経久に仕え、その子が湯信濃守惟宗である。惟宗は、尼子晴久・義久の二代に仕えた。天文八年八月の毛利元就攻撃に参陣し、永禄元年五月の小笠原応援軍にも加わり、石見出羽表において吉川軍を破る功を立てている。
毛利元就が出雲侵入して白鹿城を攻めると、尼子義久は応援軍を派遣、惟宗はこの軍に加わって出陣した。この合戦は『雲陽軍実記』にその激戦ぶりが描かれている
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亀井氏

 亀井氏が尼子氏と姻戚関係を生じ、尼子の一門と認められるに至った経緯については明確な史料に乏しく不祥である。尼子経久決起後は尼子御一門衆の一人として相当重用な位置にいたことは疑いない。
 大永三年(1523)毛利元就が家督相続の時、元就排斥の謀議に関係があったのも秀綱であった。戦国大名尼子氏の下で活躍した亀井氏は、その殆どが亀井秀綱であった。そして、当時の尼子家臣団における秀綱の権力は最高のもので家老職筆頭でもあった。
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隠岐氏

 天文元年(1523)、隠岐宗清は国府尾(甲尾)城を築き、宮田城から本拠を移した。宗清はここを拠点に、隠岐の統一をめざし、尼子氏の援軍を得て、島前・島後を支配するにいたり、以後、宗清の子豊清、孫為清の三代にわたって隠岐に威勢を振るった。
 為清は同族の故もあって尼子氏に仕え忠勤を励んだ。そして隠岐を支配し、永禄三年七月、尼子晴久の本城常光応援軍に参加している。また、隠岐の名馬を晴久に献じて賞せられたことが伝わっている。
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山中氏

 「山中系図」によれば、出雲山中氏の祖は尼子清定(貞)の弟幸久であるという。山中鹿介幸盛の名が広く知られている。
 三代満盛の注記には、尼子経久に従い塩冶掃部助を討つとあるから、文明八年元旦に経久が富田城奪回を果たした時、これに従って戦功を挙げたということになる。『雲陽軍実記』で、活躍する山中勘兵衛勝重なる人物は、さしずめ満盛に比定されるだろう。
 永禄九年尼子氏が滅亡すると、鹿介は尼子氏再興の中心となって各地で転戦するが、天正六年(1578)播磨上月城において、総力を結集した毛利氏の大軍に包囲された。

==*==
他の情報

神保氏
惟宗姓神保氏も徳川旗本となって神田神保町に屋敷を構えた。この二氏は何れも室町幕府管領畠山氏から賜姓され神保を名乗ったが、惟宗姓神保氏は元々、先祖を渡来人とする「惟宗」で在り、平姓神保氏は秩父平氏の「中村、二宮」を名乗っていた。⇒「神保系図」静岡県立図書館)

下総臼井氏から分かれた神保氏は、承久の乱の勲功賞として出雲国に地頭職を得て西遷。

神保氏張(惟宗姓)息の氏興は佐々成政の婿となり一門に準じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E6%B0%8F%E5%BC%B5

神保氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E6%B0%8F

以上から、九里氏との関係で連想できることは、

亀井六郎重清
吉田巌秀   1162年生まれ 同一人物説

九里家の伝承 広田与左衛門重元の広田氏も出雲佐々木氏
そして出雲国の久利氏。

亀井氏に惟宗氏が入っていたことで、出雲国・紀伊国とのつながりができる。
そして吉田巌秀と亀井六郎重清が同一人物とすると、惟宗氏と佐々木氏が繋がってくる。

久利・九里・久里氏、やはりつながっているように思う。
そして、江州中原氏と惟宗氏も「依知秦公」の時代から繋がっているのだ。

以前書いた記事に中に
『「亀井の井」の伝承もある。
・巌秀の母は誰なのかがわかっていないが、頼朝の乳母をしていた人物であるらしい。』
とある。
">

頼朝は1147年生まれ 巌秀は1162年生まれ
15年の差がある。
義経は1159年生まれ

そして乳母は、源義朝の妻の女房的存在であった女性かもしれない。
やはりそのあたりの謎に至る。

出雲佐々木義清の母は大庭景親の娘である。
景親と言えば、妹が波多野義常室である。

波多野義常の父は波多野義通。
波多野義通の妹は義朝の妻であり朝長の母である。
波多野義常の息有常は大庭景義に預けられていたともいわれている。

波多野義通妹は中原久経の母となったといわれている。(久経の妻という説もあるが)
この中原久経と中原経久が繋がっているのではないかと思っているが、違うかもしれない。

佐々氏・岡田氏・神保氏との関連

中途だが、これから調べてみようと思う。

平氏と惟宗氏↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%87%8D%E5%B0%9A

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3 コメント

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Unknown (りひと)
2019-12-01 14:45:45
なんか面白くなってきましたね。
登戸行って波多野さんともっと多摩川上流の枡が付く場所は稲毛さんで。亀井城って場所調べてみます。

頼朝の周りは本当に複雑なんですけど女系はシンプルなように思うんですよね。湯氏ってのも気になります。湯は探索キーワードでお湯の井戸というか湧き水というのも私の中ではビンゴでして。お水で言うと炭酸入ってたり冷泉でも過去はお湯だったりとか色々と思うわけで。産湯は冷たくても場所の情報は集めたいんですよね。

あと私が最近なんか調べているあたりも安徳さん時子さん尼子さん畠山さんは出てきたんで記事の見出しだけでも面白すぎて。

それから何だっけなあ?忘れちゃったんですが、そうそう大庭さんに預けられたとかあったっけ?
伊豆修善寺の北の方じゃないかな?とか。
川崎市と伊豆が頼朝の周りの人の関係で繋がりそうですよ、まあこれは私の頭の中だけなのかもしれませんけど。あと鎌ってのも昔は鎌足だったんですけど、鎌倉の地名なりあるとどうも源氏連想しちゃうんですけど掘ると平氏?って感じ。

川崎市や町田辺りの歴史って本当は全国的に大事なはずなんですよね。もっともっと考古学的な情報が出て来ないと東京から千葉の歴史は出ないんですよね。
源氏さん情報楽しみです。そうそう東京でも謎の藤原さんが出てくる場所あるんですよね。この辺りも歴史にも出ないんですけど富も含めて九里さんん絡みだと理解出来るんですよ。

まずは亀井城の場所がどこか超楽しみです。
稲毛氏ともつながる小山田氏 (kunorikunori)
2019-12-01 16:38:01
りひと様

私の周囲に「小山田氏」が出てきていますが、小山田有重って息に「稲毛重成、榛谷重朝」がいるのです。

さらに宇都宮氏も登場(wikipediaより)
「『吾妻鏡』(文治元年7月7日条)によると、一族が源氏方に付いた事から平家の棟梁平宗盛に拘束されたが、平家の家人平貞能のとりなしによって宇都宮朝綱と重能、有重は東国へ帰国したという。『平家物語』では一門都落ちの際に平知盛が、『源平盛衰記』では宗盛が重能・有重兄弟を諭して帰郷させたとしている。 」
Unknown (りひと)
2019-12-03 10:43:53
亀井城調べてなかったんですけど、まさか向ヶ丘遊園地あった山の辺りかな?父と良く行った場所です。
あとここのところあの辺行くんですよね。古墳もありましたよ。

それから亀井城と検索すると広島の亀居って出るんですけど竹の付く地名なんでここも関係ありそうに思いますよ。

それから地図アプリで麻生区と検索すると新百合ケ丘であそこも縁ある土地です。でそこから亀井城って検索したら亀井町って出たのが南の港南区の方で鎌倉へ繋がりそうですね。あと神奈川には亀住町ってのもありますよ、浦島太郎絡みみたいです。

最近八幡絡みで鎌倉に繋がるんですけどどうも多摩川登戸からのルートの関係かもしれませんね。カリタスの事件後なのか?お会い出来なかった登戸のお地蔵さんどうなるか?も気になります。夕日が似合う所で水運も関わるのでしょう。

稲毛さんには奥様がいましてその奥様の方私は探索中です。

そうそう渋谷庄の文字も記事にありましたけど、麻生というとあの辺りにもありますし父が関わりそうなお寺あるんです。そうとうエリアとしても広範囲ですよね。

さっき地図で稲毛神社って出てきたんで今年中に行けたらいいなあと思います。亀井さん湯さんともどこかでお会い出来そうな場所探しますね。

全く偶然なんですけど、こちらのワークとプログの記事が絡んでくる事がありびっくりです。

で今回私が稲毛さん知ったのは、酉の日。数年前から超行きたかったんですけど行きにくい所でなかなか行けずでしたが、今回用事で徒歩で行けたのが大笑いしました。子供の病気とか自分の方とかお邪魔もいっぱいありましたけどね。

そうそうそこで私が源氏山で貰ったお守りの実と同じような信仰を持つお守り頂きましたし、ちゃんとお守りも火打石みたいなお祓いもちゃんとしてくれた神職さんもいらっしゃいました。
鎌倉と繋いでみたいです。

多分私は女系ルートでそこに辿り着き、こちらは男系ルートの九里さんさんと合致したのかな?とも。で九里さん探求は父の探求と合ってくるので更にワクワクです。

亀と甕や瓶や釜や鎌や窯も文字だと概念違うように思いますけど多分お水で繋がるんではないかな?お湯でもいいはず。水神さんの信仰は多岐に渡るって事でしょうね。

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