九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐光基の養子であった「光衡」と「弟の光行」 そして、伊賀氏との関係 + 浅小井氏と大仏氏

2021-01-23 | 土岐氏

光基には頼基という息がいた。
いたのだが、平清盛に何事かあって誅されてしまった。

そこで、養子にとったのが「光衡」であった。光基の弟光長の息であった。(光長1184年に歿している。)
では、頼基と共にいたはずの兄の「光行」はどうしたのであろうか。


光行「伊賀判官」
頼基「伊賀蔵人・後白河院蔵人」



年代は、兄弟の光衡と似たような年代と仮定すると、
光衡は平治元年(1159年)生ー元久3年3月25日(1206年5月4日)没である。享年38歳


何故、土岐光基は頼基亡きあとに、光行を跡取りにせずに「光衡」を養子に入れたのだろうか。
光衡が優秀であった事にもよるのかもしれないが、ヒントはこの光行の「伊賀判官」にあるのでは…と思ったのである。

伊賀光季は伊賀判官とよばれていた。
私には、この土岐光行(光基の息の方)が伊賀光季(光末)となったように思えてならない。

===*===

上記のことに加え、【稲葉山城】と関係があるように思える。

稲葉山城 wikipediaによると、
「1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。」

以上のように、その始まりには深く関係している。

「稲葉山城」のことを調べてみると、光資が光季の跡を継ぎ、稲葉山城に居城している。


https://books.google.co.jp/books?id=NDaUDK9kS_8C&pg=PP599&dq=%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E3%80%80%E5%9C%9F%E5%B2%90&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjr5fqhmrHuAhWxIaYKHWALDrEQ6AEwA3oECAQQAg#v=onepage&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E8%B3%87&f=false



二階堂氏と土岐氏は足利尊氏が出てきた時代にも関係は続いていたのではないかと思う。特に、夢窓疎石を師と仰いでいた人たちの中に二階堂氏・土岐氏がいたと思うのだ。

更にその夢窓疎石の出自として佐々木氏・乾氏・北条氏が関係し、更に浅小井の乾五郎朝房がその近くにいたように思えるのである。

乾五郎朝房の兄であった公宣の息が北条師方であったのだが、其の妻は「大仏宣時の娘」であった。
宣時の兄に北条朝房がいる。まさか…と思うのだが、この浅小井氏がイコール北条氏だったのだろうか?
【大仏朝房 妙性】と【乾五郎朝房】 乾五郎は佐々木定高の養子に入っていた。定高は土佐に配流となった。
その後に何かあったのだろうか?

いや、別人でしょう。。。という声も聞こえはするのだが、
では、なぜ浅小井師方之妻に大仏宣時の娘が入ってきたのだろう。

何故、ココで北条氏とがっちりとつながりができたのか。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北条政子、女の勘か? 伊賀... | トップ | 浅小井朝房(乾五郎朝房)と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

土岐氏」カテゴリの最新記事