九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

古代からのつながり (2)

2016-03-26 | 古代からのつながり

近年の考古学調査では、この葛城郡辺りには縄文晩期より集落が存在したことが解っており、当神社北方には巨大祭祀施設の極楽寺ヒビキ遺跡(5世紀後半の豪族居館遺跡ともいう)や南郷遺跡群(5世紀以降の周濠遺跡)が広がっている。

その葛城氏の南郷角田遺跡から大規模な生産工房遺跡が出土した。膨大な量の金属・ガラス・鹿角製の遺物などが出土し、下層には壁が赤く焼けた穴が並んでいた。
遺物で最も多いのが小さな鉄片で、甲冑の一部や鋲留めした鉄製品、釘状製品などが出土。

当時のわが国ではそれら原料はインゴット(塊)や延板状で輸入していた。
本に拠れば、葛城氏が西日本の水運・海運網を掌握して対外交渉を主導していた事も書かれている。
そして、その水運・海軍網の維持、経営には鴨氏(賀茂氏)が従事していた。

その鴨族の神社である高鴨神社の鎮座する鴨神に南接するのが西佐味・東佐味である。
サビ・サミは刀剣を意味し、彼らが金属特に鉄の工人集団であることを示している。

高鴨神社の由緒『この高鴨神社のある地は古代の豪族・鴨族発祥の地で、鴨族は山を支配し、薬草・天体観測による暦・製鉄、農耕技術・馬術にすぐれ、弥生中期後半、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端、今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社を祀って水稲生活をはじめました、また東持田の地に移った一族も葛城御歳神社を中心に水稲生活に入りました。その為、一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりました。』
 
 高鴨神社の主祭神は、阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)という。
優れた鉄製利器を意味する【アヂスキタカヒコネ神】は本来、葛城襲津彦が連れ帰った渡来系金属工人集団である佐味村主氏や高宮村主氏を中心とする南郷遺跡群の渡来系工人集団が信仰していた神であった。

では、越中国と近江国にある佐味神社はなぜ【豊城入彦命】をお祀りしているのだろうか。
web Wikipediaよりだが、
『新撰姓氏録』では豊城入彦命の後裔氏族として、上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、大野朝臣、池田朝臣、住江朝臣、池原朝臣、車持公、垂水公、田辺史、佐自努公、佐代公、珍県主、登美首、茨木造、大網公、桑原公、川合公、垂水史、商長首、吉弥候部、広来津公、止美連、村挙首、下養公、韓矢田部造など諸氏族が記されている(詳細は「上毛野氏#氏族」参照)。とある。

いつの間にか佐味族の信仰が、アヂスキタカヒコネ神から、先祖である豊城入彦命に代わっていたのだ。その豊城入彦命には以下のような刀の出てくる逸話が出てくるため、いつの間にか同一視されたのではないだろうか。

Wikipediaより
『日本書紀』[原 2]によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。

さて、上で登場した崇神天皇の時代に、豊城入彦命と十市氏とに婚姻関係があつたのではないかと言われており、その十市氏とは中原氏の元祖である。
【十市氏】
『大和國拾五郡衆徒国民郷士記』の安寧天皇第三皇子磯城津彦命の後とする説。
『姓氏家系大辞典』の十市縣主の後とする説。
『和州十市城主氏姓伝』の藤原氏説などがある。

『大和國拾五郡衆徒国民郷士記』では、「十市家、中原氏、トアリ、大系図ニ中原、安寧天皇磯城津彦命之後也ト伝ヘルニ相合フ」と記されている。十市氏が中原氏を称したことは、十市遠忠の歌集「十市遠忠自歌集」などに兵部少輔中原遠忠とあることから知られる。
また、『平城坊目遺考』の「遍照院死」の項にみえる十市氏の姓も「中原」とあり、その中原氏は十市県主に出自するともみえる。
一方、『和州十市城主氏姓伝』は、まとまった十市氏系図としては唯一のもので、藤原豊成の長子継成が十市里に居住して十市氏の祖になったとある。しかし、同系図の記述は、『大乗院寺社雑記』『多聞院日記』といった記録と符合しないところが多く、そのままには受け取れないものである。

以下はweb上の記事を自分なりにまとめたものであるが、
その崇神天皇の娘に以下のような名前がついている。これはその頃十市氏と近い関係であったことの証ではないだろうか。
十市之入日売命(とおちのいりびめのみこと)

しかし、十市氏を衰退させたのも崇神天皇なのである。

また、私は、江州中原も、十市が衰退し各地に散らばった際に分かれた者たちだと思っている。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古代からのつながり (1) | トップ | 古代からのつながり (3) »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (りひと)
2019-07-04 13:52:24
佐味超好きです!
阿豆佐味天神社って東京にありますよ。
近々行ってみますね。夏休みにでも。
佐味関係の神さん会えるといいなあ。

多分お水とも関わる所じゃないかな?とは思ってます。
ならの佐味って文字だけでも行きたくなり近くは通ってみましたよ、電車でですけど。

あと佐ってダビンチコードにハマっていた頃あちらの方ではサは強調って聞いた事あります。なので佐味となると美味しいって事になりそうですよね。旨いって事。そうなると入彦さんも茨城でも追ってますけど、本来はアジスタカヒコネ味耜高彦根神で味ついてますね、怪しい。私も父の関係ある近江の神だと思ってます。岐阜と縁がありそうなのも超妥当ですし、納得です。鍬を使う時もありますが、それも農耕具での関係なので金属系でしょう。武器ではないでしょうね、お水の神事出来るなら。

あと可美って字もありますけどウマシマジって神さんいるんですよね。あれも旨いでしょう。いいお水は甘かったとか?なのでニギハヤヒっていうと好きではないんですけどウマシマジって神さんは好きです。浜離宮にも銅像あるんですよ、ニギハヤヒの息子ってなっているし物部の系統だと普通に言われてますけど私違うと思ってますよ、九里さんと関わる神だと思います。

安蘇郡でウィキさんである万葉集の歌には
可美都氣努 カミツケノで上つ毛ですって?カミで上ですね。昔から使われていた文字は音ごとの文字で考えるのもちょっと発見あります。渡良瀬川の氾濫に関する歌なのか?境界が関わってます。境界の神は水神さんだったかもしれませんね?植物や垣根の信仰や神の流れに佐味や九里が大元にいるんではないかな?と思ってます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代からのつながり」カテゴリの最新記事