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将軍 源実朝の事件の謎 公暁の《替え玉》として白河(藤原)義典か?

2022-02-21 | 佐伯・波多野氏

1219年 建保七年 1月27日

この事件のことはwikipediaで確認できる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D

 

googlebooksの情報を集めていくと

白河義典公暁の死を聞き自殺す

義典公暁の家人であったらしい」とある。

この白河は、宇治次郎刑部丞義定(俊職)の息であり、宇治には「白川」という地名があるのでそこから来ているのかもしれない。號白川と「河」ではなく、「川」となっている。

 

 

 

この白川義典は、矢代仁「公暁 鎌倉殿になり損ねた男」にもある様に、乳母子であった可能性があると思う。

中原俊職となったとすると、中原俊兼が義父であったろう。

中原氏には乳母夫が多い。

公暁も将軍頼家の息であるからには乳母がついていたであろう。

それが中原俊兼の娘であり、義定の妻であったと仮定し、公暁と共に育ったのが義典となる。

 

つまり、それが乳母子となる。

義典は公暁と兄弟のように育ちながらも、公暁の為にはいつでも命を捨てることのできる育てられ方をしていたかもしれない。

そして、公暁と共に「実朝が父を死に追いやった」と勝手に思い込み、誰かにそそのかされもし、仇討ちを決行する計画を立てたであろうと思われる。

公暁は何歳の時に僧門に入ったのであろう。

wikipediaよりその部分を拝借しよう。公暁1200年生まれである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81

「父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年善哉(=公暁のこと)が5歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。

建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。

 

10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝猶子となった。

建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮別当定暁[2]の下で出家し公暁の法名を受け、翌日には受戒のため上洛する。

 

園城寺において公胤の門弟として入室し、貞暁の受法の弟子となる。

建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。

同年10月11日からは裏山で千日参篭をおこなう。

翌年建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。

また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。

===*===

まず、18歳で鎌倉に戻っていて、鶴岡八幡宮寺別当となっているにもかかわらず、北条義時の顔も知らずに、間違って源仲章を切るだろうか。

さらに、矢代仁さんの著作のなかに「阿闍梨の面を見奉らず」という章がある。

此処を一部引用させていただくと、暗殺当日の『吾妻鑑』には、北条氏が公暁の顔を知らないことを意味する記載がある。

長尾定景が公暁の首を持ち帰り、三浦義村が北条義時邸に持参した。義時が出てきてその首を見た。」

その際の義時の言葉は「正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有り」だったそうだ。貽はすという意味だそう。

 

つまりは公暁ではなく他の首である疑いがある

北条義時は今まで何百もの首を見てきたであろうと思う。その人が疑いありと‥‥

 

さらに、公暁は他の者たちにも顔を見られぬようにか、鶴岡八幡宮に千日籠っていて、その間に替え玉となった白川義典にすり替わっていたのではないだろうか。

だいたいにおいて、僧兵というカテゴリーはあるものの、公暁という個人がはじめて人の首を切る際に誤らずに切れるものだろうか?

髪も伸びていたというが、それこそ千日の籠っていた間にすり替わった白川義典と分からなくするための工作であったのではないだろうか。

 

さらに、公暁が亡くなったとの知らせの後に白河義典が自害しているのだが、

白川義典と思われていた人物のそちらが本物の公暁であったのではないだろうか?

 

替え玉であった白川義典が証拠として公暁に見せるために首を離さずにずっと持っていたのではないだろうか?

 

実朝の首は秦野へ持ち帰り波多野忠綱が埋葬したという首塚伝説があるそうである。

いずれにせよ、波多野氏に関係がなければ、そのようなことをしたかどうか‥‥

 

私の個人的な説、白河義典が替え玉として「公暁」となっていた!でした。

まだまだ思う処はあるが、とりあえずココまで。

 

昨夜読み返してますます面白いと感じた本です。

 

 

 


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