九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

わが九里の家紋

2019-09-16 | 雑記

私の曽祖父の九里家の家紋は

なぜか乾氏(土佐)の板垣退助家と同じ
榧之内十文字紋 https://kamon-db.net/portfolio/kayanouchijumonji
なのだが、

和歌山の九里家は
折敷に橘紋  http://mizuhiki.shop-pro.jp/?pid=3793636

そしてわが家の大井氏か九里氏かわからないお祖父さんの写真の家紋は
丸に三ツ星紋 大江氏の紋でもある。



私の勘では「九里敬三」と思う。
九里八郎右衛門政敬の孫である。

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二人の光俊…土岐国房の息(源光俊)と土岐光行の息(饗庭光俊)

2019-09-16 | 清和源氏

土岐関係に「光俊」が二人いる。

土岐国房の二男 光俊
土岐光定の兄 饗庭二郎光俊 (土岐光行の二男)


関係があるかどうかは?であるが、↓

【如漢 三才 阖會】 に 赛月能 囀 如 肯 比 志 利 古木 利と も あり 山から にも 似た る こと あり 光俊が 歌
「山からのまはすくるみのとにかくに もてあつかふは 心なりけり」

【新撰 六帖】 に 源 光俊
何として いかに やけばか いづみなる 横 山ず みの 白くなるらん
今は此 處河內 なる にや 光ノ瀧より 出づ


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土岐国長 幕府司? そして 饗庭光俊

2019-09-16 | 土岐氏

土岐氏は大きな一族のため、なかなか目が行き届かないのだが、土岐光長の息 国長という人物を見つけた。

幕府司(土岐国長)宿所の・・・と記載があった。
侍所の長という事だろうか?



情報が少ない国長だが、幕府と密に関係しているあたりが気になる。

そうこうしているうちに今度は「多治見国長」「饗庭国澄(純)」「饗庭光俊」に行き着いた。

饗庭氏 wikipediaによると

「 美濃国大野郡饗庭、近江国高島郡饗場(相場)を本貫の地とする流れがあらわれ、相羽は饗庭、饗場、相場などに通じ用いられた。

近江の饗庭(相羽、相場)も光俊の子孫であるという。





『興地志略』に近江の相場氏は、源頼朝の近臣相場三郎、美少年六千騎を集めた花一揆を率いた足利尊氏の側近饗庭命鶴丸がこの地を領したことが比叡山延暦寺の旧記に記載されている。

以上のことなどから、鎌倉より室町に至る間、この地の領主の氏族であったことがうかがえる。

長享元年(1487年)常徳院(足利義尚)江州動座着到に遠州饗庭太郎とあり、遠江国にも饗庭氏が存在していたことを知る。相羽という人が近代まで静岡県森町にいて、「今川義元の家老であったが桶狭間の戦いで敗れ、森町に逃げてきた」と口伝いにつたわっている。

また、饗庭命鶴丸は三河の人であるといい、近世、徳川幕府御家人に相場氏がある。恐らく三河、或いは甲斐の饗庭氏より出て幕臣となったものと思われる。 」

また、饗場氏直のwikipedia

「饗庭氏は三河国饗庭御厨を根拠地とする武士で、大中臣氏を本姓とする。」

室町幕府奉公衆饗庭氏。大中臣。

ご興味のある方は、下記の論文に詳しいので是非!
http://www.okuraken.or.jp/files/4514/9135/7013/63_kobayasi_ronzetsu.pdf


三星紋を家紋とする大中臣氏で想起されるのは、常陸国鎌倉御家人の中郡氏である。同氏の系図「大中臣氏略系図」

によると、中郡氏の始祖中郡権守頼経は、源義家の命令で、海道小太郎業平(清原氏)を下野国氏家・風見楯にて討取り、夜は黒塗りの鞘に差し、昼は黄金作りの鞘に差していた、「ススキ丸」という業平の佩刀を取り上げて義家に進上した。
その功績により義家から「三ツ星」紋を授与された、と伝えている。


饗庭氏を常陸国御家人中郡氏の出自と推定する、直接的な系譜関係を示す史料は管見の限り確認できない。

しかし
傍証史料としては、以下の①から⑤が挙げられる。
①饗庭御厨の本所である神宮祭主大中臣氏と同姓である。

②先述の「大中臣氏略系図」によると、中郡頼経の孫朝経の注に「東海道領主也」とあり、三河を含めた当地域に所縁があることが分かる。そしてまた朝経の母は、熱田大宮司季範女で、源頼朝の母及び足利義兼の母と姉妹に当たり、中郡氏は三河及び頼朝・義兼とつながりがあることが知れる。

③中郡重経は、鎌倉時代初期に中郡庄預所と争論した結果、所領を没収されたあと、中郡庄惣地頭職は安達氏に転じ、重経の兄弟の経元は安達義景被官となった。

この中郡庄は安達義景の子泰盛の時代も惣地頭職の地位を継承したが、中郡氏はその郷地頭職として存続したらしい
また安達氏の始祖盛長は最初の三河国守護であり、このため三河国には盛長建立による七御堂建立伝説があり、その一つが饗庭御厨内の金蓮寺弥陀堂とされる
これらのことから中郡氏は、安達氏と被官関係にあり、安達氏を介しても三河国の関係が深いことが分かる。

④「黄梅院文書」によると、命鶴丸は常陸国に所領を有しており、常陸国に由縁がある。

⑤後述のとおり、「後愚昧記」貞治五年(一三六六)八月一八日条によると、命鶴丸は伊勢神宮外宮神領である、尾張国中島郡笑の生ぶ御厨(現在の愛知県一宮市周辺)の地頭職を勤めていたことが確認でき、外宮領地頭職の実績がある。

以上の①から⑤を総じてみると、饗庭氏を常陸国御家人中郡氏の一族とする説も成立するのではないか。


仮にそうであれば、この中郡氏の一族が安達氏の被官化した後、安達氏の所縁で三河国に西遷し、神宮祭主と同姓のよしみをもって、国内の饗庭御厨の管理を任され、饗庭を名字の地とし、その後鎌倉末から南北朝初期には三河国に勢力を張る足利氏に仕えることとなったと考えることができるのではないだろうか。

~~~*~~~
と、気になる部分だけを抽出してみた。

非常に興味深く、とうとう大中臣略系図とかかわりのある氏族をみつけた!!と言う感じである。

~~~*~~~

近江国との関係は、以下のようである。

この饗庭氏は、伊勢氏被官で、近江国海津庄の御料所代官であった可能性の高いことが、西島太郎氏により指摘されている
(前掲注1『戦国期室町幕府と在地領主』九〇頁)。
なお西島氏はこの饗庭氏の家格が低かったことも指摘しており、このことも、
近江饗庭氏が命鶴丸の子孫である可能性の低いことを示唆している。

~~~*~~~

大中臣氏の略系図の中には、東国での妬みがあり「藤原姓」を名乗らず「中原姓」にしているとの記載もあった。






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