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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原久経が 景経 と 経任 の父と仮定。

2020-11-24 | 中原氏バラバラ情報


中原久経、この1192年を境に政所の文書には名前は見当たらない。
1185年に九州にまでも近藤国平とともに廻っている久経。

源義朝の息朝長のあとに、その母(=波多野氏・源朝長は松田殿ともよばれていた)が中原氏に再嫁して設けた子と言われていることから、生まれたのは1145年位ではないだろうか? ちなみに中原親能も母は波多野氏であり、1143年生まれである。もしかすると異母兄弟かもしれないとも思う。
父は中原広季・母は波多野氏の従姉妹という事も考えられる。(広季は、親能の養父・久経の実父かもしれない!)
久経の母は波多野義通の娘・親能は波多野経家の娘である。
大江広元も中原広季が養父となっている。

散位久経、と書かれているので、1192年にはもう職には就いていなかったのかもしれない。
久経、1145年に生まれていれば、1185年40歳。1192年47歳。

そして、1170年あたりに景経、経任が生まれたとすると、景経が74歳で判官になった事となり、ちょっと苦しいかもしれない。
1175年あたりに景経は生まれたか?

さらに、久経の孫と思われる経久が1190年に生まれ、常忍は1216年に生まれたのではないだろうか?(甥で姉の息かもしれない。)
常忍の母が1185年生まれであることはわかっているので、だいたいあっているかもしれない。


勿論もっと早くに結婚し、子をもうけていた可能性も大であるが、始まりは久経が生まれた1145年以降と限定してみた。
中原久経の息たち三人兄弟で、景経政経・橘に養子に入った経任、だったのではないだろうか?
三左衛門事件は1199年。

その頃、政経は25歳あたり、と考えると、景経・経任の兄弟か、もしくは景経と同一人物か?となりそうである。
というのも、景経1244年に判官となり、1246年関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
これは、景経の事のように思われるのである。
景経、近江国伊香郡富永庄の召次案主であったこと。
判官として推薦してくれたのが広橋経光であり、その妻は妻は「藤原親実の娘」であった。


藤原親実とは、(コトバンクより)

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)

親実と景経は、ほぼ同じ年代であったと思える。その義理の父よりの頼みがあって、広橋経光も動いたのかもしれない。
経光32歳の時である。(中原景経を判官として推してくれた時)



久経ー政経・景経・経任
経任ー経久ー常忍 

ではないだろうか?


===*===

いっぽう、越前の気比寺院者の神人であった中原政康は1214年に「「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住している」と書いている。
養父は、妻の父ではなく、やはり養子先の父親ではないだろうか?
とすると、この時(1214年)にだいたい50歳とすると、1164年あたりに生まれた人物と成る。
または、1214年に60歳あたりと成ると、1154年あたり。 

つまり、中原政康と中原政経は、兄弟ではなく、どちらかというと親子ぐらい年が離れていると思われるのだ。

中原政康は日吉神社の神人であったことがわかっている。

伊香郡の高月にある日吉神社の神人の関係とみることもでき、、やはり中原景経周辺の人物なのではないかと思う。

さらに、経任が橘次となっていることも、もしかすると政康と関係しているような気もしている。








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中原久経 政所下文書名者一覧にその名あり!

2020-11-23 | 中原氏バラバラ情報

1192年建久三年 六月三日・二十日 の文書に署名があったようだ。
12頁(web上のpdfのカウント) 紫苑10号の22頁

http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_010.pdf


二十日の分は東京大学史料編纂所で見つかった。





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久々に「糟屋藤太兵衛尉有季」が登場。比企能員・一条高能と繋がる。

2020-11-22 | 糟屋氏

糟屋有季のは、比企能員の娘であった。という事は若狭局と姉妹?
更に糟屋有季のは、一条高能の側室となっている。
糟屋有季を中心に比企氏と一条氏が繋がっている。

糟屋氏は「相模国大住郡糟屋荘(現神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族」とある。

https://kamakura8.blogspot.com/2018/02/blog-post_1.html

鎌倉遺構探索さまのページより気になる箇所を以下に。

和田義盛が横山党と姻戚関係を結んでいましたが、糟屋氏もまた横山党と姻戚関係で繋がっていました。

===*===

因みに以下の文書にある中原景経を判官に推薦した人物は「広橋経光」であり、一条高能の妻と成る人の甥である。
日野兼光の娘も一条高能の妻であったのだ。(日野兼光の息広橋頼資の息が経光)本当は「勘解由小路 経光」



この「経光」から「景経」という「経」の文字をいただいたのかもしれない。




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比企朝宗

2020-11-21 | 下河辺氏

比企朝宗に注目したい。
この方はwikipediaによると、越前に関係がある。
しかも11月17日に書いた記事の【河越重頼・河越尼(比企尼の次女)から下河辺政義の室となった女性と源義経の室となった郷御前という女性が生まれ、その下河辺政義の息が時員。時員は野本基員の養子となった。】の部分とも関係してくるかもしれない。
野本基員の息が下河辺時員で、祖母が河越尼であり比企尼の次女であり、その野本氏が斎藤氏の氏族であったとすると、この比企氏も関係してくるのではないだろうか。斎藤氏との接点であった可能性もあるのではないだろうか?

比企氏の家督は比企尼の猶子となった比企能員が継承し、その兄弟にあたる朝宗は能員と共に頼朝に臣従して治承・寿永の乱に参加。何度か頼朝の使いとして上洛している。木曾義仲滅亡後、北陸道に守護の前身である勧農使として派遣され、若狭国、越前国、越中国、越後国の庄を沙汰している記録が見られる。(勧農使は建久2年(1191年)以前に免じられている)元暦元年(1184年)8月、源範頼の平氏追討軍に従軍。文治2年(1186年)頼朝と対立した源義経の郎党を探索、文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。

建久3年(1192年)、美貌であった娘の姫の前が北条義時に見初められて妻となり、義時の次男朝時、三男重時を産んでいる。のちに孫の朝時が越中・越後国の守護となり、母が比企一族とされる島津忠久が越前国の守護となっている。建久5年(1194年)2月、北条泰時の元服式に出席。同年12月、越前国での領地横領の訴えを起こされている記述を最後に、朝宗は『吾妻鏡』の記録から消えている。

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、比企一族は朝宗の聟である北条義時率いる大軍に攻められて滅亡するが、殺害された一族の中に朝宗の名は見られない。

===*===

更にこの北条重時、政恒法師への使者を送っている。

この部分、以前のものよりも少しだけ長い文章が見つかったので、ココに留めておこう。
ここでは、藤原定嗣という人物が重時の使いと政恒法師の間にいたことがわかる。



この定嗣という人物は葉室定嗣であり、娘が勧修寺流の吉田大納言経長に嫁いでおり、息は定房である。

そのような葉室定嗣が三八歳の時に仲介の役目をしている。 … 政恒法師、一体どのような人物だったのだろう。
葉室定嗣は、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めていた。



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若狭国と越前国 の 境目は?

2020-11-21 | 雑記

何処から若狭国で、どこからは越前国なのだろうか?
web上にあったこの図がわかりやすかったので、載せさせていただくことに。


そして【若狭国鎮守神人絵系図】なるものにも遭遇。
其の人名を見て驚いた! こりゃ、あの系図にいた人々!! こんなところでお会いするとは!!

京都国立博物館 こちらは所蔵先
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=444634&data_id=720

画像はこちらの方が見やすかった。
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=101302&content_part_id=000&content_pict_id=000



文字が読めないものもあったが、系図と同じ名前は「景安」「利景」「景尚」「景継」「光景」

系図には出ていないが、初代?の「?父」から「俊文」「豊文」「豊景」「遠景」「盛?景」「景政」「景遠」の名も見える。
此の後に「景安」が続く。

目で見えると、より現実の話となって面白い。

一番最初に見つけたのが、こちらのページであった。
ココを掘るとお宝が発見できそう!!

https://artsandculture.google.com/asset/tutelary-deities-and-administrators-of-wakasa-province-unknown/oQGFVfvfS028-A?hl=ja


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越前守藤原懐忠の 孫懐尹 と 平経方

2020-11-21 | 雑記

平経方・知宣・時信が越前に関わり始めたのはいつのころからだろうか。
この系は、もしかすると藤原巨勢麻呂の系と関りがあるのではないだろうか?と調べていると、

小弁 祐子内親王家小弁(ゆうしないしんのうけのこべん)・一宮小弁(いちのみやのこべん)・宮の小弁(みやのこべん)とも呼ばれる。祐子内親王家紀伊の母。
娘である祐子内親王家紀伊の父親については、散位平経重あるいは従五位上民部大輔平経方と言われるが、定説はない。…とある。
この二人(経方と経重)、佐々木哲先生の記事では同一人物となっている。

情報があまりないようで、確かなことはわからないようなのだが、藤原懐忠の周辺に以下のようにあったので、祐子内親王の女房を輩出する家であったようなのである。
以下の息 懐尹の娘も、やはり祐子内親王の女房にいたようなのである。

藤原令尹
父:従三位大納言 藤原懐忠備中守
懐尹・成尹
娘(祐子内親王女房)

この懐忠は元方の息であり、懐尹は元方の曾孫と成る。
つまり、黒麻呂ー春継ー良尚ー菅根ー元方ー懐忠ー令尹ー懐尹 

祐子内親王家小弁ー祐子内親王家紀伊

紀伊の夫が「平経方(経重)」になるのだろうか。 ?? 混乱。
紀伊の父が平経方ならば、小弁が経方の妻と成る。

この辺り確証はないようなのだが、藤原巨勢麻呂流と平氏のつながりがある接点の一つであると思うのだが…




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興味深い記事がたくさんの 信州の方の記事!

2020-11-21 | 雑記


79.アイヌ人遣唐使となる をたまたま読み、そこから面白くて次々と読み進めている。

作者様、学びになります! ありがとうございます。

http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/index.htm


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2022年の大河は鎌倉時代!に。

2020-11-21 | 雑記

鎌倉時代がやってくる2022年。
細かな部分もシーンに織り込まれると嬉しいなぁ、と思います。

今の「○○がくる」は架空の人物が強調されすぎと思うので、もっとリアルでお願いしたいです。

https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/439589.html



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秦久則は隋身の一人であった。国宝「随身庭騎絵巻」にその様子が描かれている。

2020-11-20 | 雑記

近江国愛智郡 1257年「久則申愛智郡召次保司事」

https://artne.jp/column/1221
上から二番目が「秦久則」という。

https://wanderkokuho.com/201-00074/#outline__2
この一番上の絵が「秦久則」という。
秦久則以下6人は、宝治元年の後嵯峨院(1220〜1272)の随身だそう。

「秦久則・秦兼利・秦兼射・秦頼方・秦久頼・秦弘方」の六人

召次所の長に秦久則を任命するよう、上皇の御沙汰が下った(小松茂美著作集, 第 31 巻)とあるので、はやり前記事の久則は九里ではない。残念である。

しかし、すっきり!
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越前國一之宮 氣比神宮 中原政康・中原政経・景経(2)政経の追放 そして政恒法師

2020-11-20 | 中原氏バラバラ情報

三左衛門事件で追放となった中原政経はその後どのようにしていたのか私にはまだ情報はない。
しかし突如1246年 関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
どこにも中原氏とは書かれていない。が、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。ならば、伊香郡の召次の統轄役ともいえる召次案主職になっている可能性もあるのではないだろうか?

そのあたりを、探していると網野氏の論説に、ピンポイントで政恒法師が登場していた。
時代は遡って平安の前期から中期あたりと思うが、院召次勾当成行(中原成行)そして「久則」という名が出てくる。
秦久則、のこと。と出ているが、そうではなく「くのり」かも知れない。
他に秦久弘が出てくるので、分が悪いのだが…

「秦氏」でもなく、唐突に名前を「久則申す」と左大弁宰相平成俊奏事目録の文書に書くだろうか。
これは苗字なのではないだろうか?
久則は召次を統轄していた人物とある。


<論説>中世前期の「」と給免田 : 召次・雑色・駕輿丁を中心に
網野善彦 著

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238269/1/shirin_059_1_1.pdf

この論説により、政恒法師の周囲の状況も少々だが、わかってくる。
42頁。

===*===

追放された中原政経が政恒法師であるならば、御家人として復帰していたことになる。
その御家人としての時代に中原経任・経久も関東にいたのだと思うのだ。

===*===

いっぽうの越前国の「中原政康」の方は、中原政経よりも一世代前と思われる。越前に居住してから40年とあるので、1214年にはもう、50歳60歳くらいだったのではないだろうか。

川崎町の歴史より
http://www1.rcn.ne.jp/~nonami/kawasaki/rekisi.htm

1214、(建保2)中原政康。「この人は建保2年、守護から御家人役である内裏大番役を催促され、自分は神事を営む身で『兵つわもの』の氏ではなく、その器量ではないとして、これを拒否している。神人が官位をもつ侍身分の人だったことはすでに明らかにされているが、廻船人あるいは海商であったとみられる政康が、このように御家人と比肩しうる人物だった事実は/政康が自ら憚るところなく、むしろ誇りをもって、『気比大菩薩神奴』といっていることに注意しなくてはならない。/神の『奴』と名乗ることは、平民と異なる聖別された存在であることの強調であり、実態としても、神人は特権――政康の場合はおそらく海上交通を妨げなく行いうる特権を保証された、侍身分の人だったのである。/そしてこの中原政康のような気比社の神人は、本社の所在する敦賀郡、それに丹生郡の浦々をはじめ、能登、越中の名古浦(放生津付近)越後の曾平、佐渡などの諸国に分布しており、能登・佐渡の神人は丸蚫、和布等を、越中・越後の神人は鮭を気比の神に進めていた。/気比神人が廻船人・海商として活動していたことは、はるか後年のことではあるが、気比社に毎年の神事料を納め、気比神人の後身とみられる敦賀の道川どうのかわ氏が川舟座の中心として、日本海を舞台とする広域的な海上交通、交易に従事している事実からも、十分に推測することができる。そしてこの時期の気比神人の動きは、それ自体、山門・日吉社の影響下にあったのである。」(網野善彦、『海と列島文化』第1巻)

web情報では、
http://yoshi-bay.com/publics/index/113/
「715年(霊亀元年) 近江守藤原武智麻呂は比叡山で氣比神と出会う。」

『古事談』二九、叡山中堂建立に蠣殻出現の事、とあり、気比が此の比叡山と関係があったことを示しているようなのである。


図説福井県史目次
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/indexzu.htm

===*===

もう一つ、論文を見つけたので、更にご紹介しよう。中原成行が登場している!

国立歴史民俗博物館研究報告第92集2002年2月 [都鄙のあいなか]ー 鋤柄俊夫 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/kenkyuhokoku_092_08.pdf


そんな中、網野善彦氏が述べているように、一O世紀後葉までに山門が若狭に荘園を形成して以降、北陸道の諸国には多くの山門と日吉社領の荘園が設けられ、また加賀の白山社、越前の気比社をその末社とし、出羽以北についてもその末社や末寺が分布することからも、山門と日吉社は、北東日本海域に対して強い影響力を及ぼしていたと考えられている。そしてその実際の運営を担ったのが近江国愛知郡司も兼ねた中原成行などに代表される日吉神人であった。かれらは大津を中心に右方と左方に分かれて十二世紀前半から鎌倉期まで「北陸道神人」と呼ばれた巨大な組織を形成して北陸道諸国に分布し、出挙・借上の活動に従事して、ひろく日本海の廻船人として活躍し、あるいは日吉神人であると同時に気比の神人でもあった中原政康のように、敦賀に居住して和布・丸抱・鮭などを貢納していたとされる。

とあり、中原と日吉神社のつながりが近江国から越前敦賀にまでおよんで、更に越中、能登、等にも広がっていたと思われるのである。

ダイナミックで、あの紫式部が父と見た様子のようである。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A171.htm
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A172.htm
http://kakitutei.web.fc2.com/murasaki/etizen/index.html


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