1930年代に入ると、別所沼畔に移住した四方田草炎の隣に須田剋太がアトリエを持ち、1935年熊谷生まれの里見明正も別所沼畔に移住した。1933年杉全直が岸町、1934年寺内萬次郎が針ヶ谷にアトリエを構えて移住、渡邉武夫も高砂町に再転入、1951年には瑛九が仲町に転入した。こうして浦和のアトリエ村が形成されていった。
1942年別所沼西側の稲荷台に両親と移住した林倭衛(1895〜1945)は、亡くなるまでの4年間の時期に、沼の西辺の高台のアトリエから見える別所沼の風景を描いている。セザンヌを敬愛し、パリで後期印象派やフォービズムを研究した林は、流れるようなタッチで別所沼の素朴な自然を表現している。
林倭衛『別所沼』1942年 上田市立美術館蔵
作品画像は「サントニューゼ」のサイト「作家紹介 林倭衛」より https://www.santomyuze.com/museum/collection/hayashishizue/
さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」サイトから 旧浦和市域 大正 別所沼 六辻村写真帖より
https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/004/kpu-0445hoka.html
1961年に浦和仲町に再転入した小松崎邦夫(1931〜1992)は、近所の別所沼北側の村岡牧場で牛をモチーフとした作品を制作した。(図録p288 小松崎邦夫の年表より)
メタセコイアの紅葉が美しい秋の別所沼 2021年11月20日筆者撮影
画家たちが愛した別所沼は文学者たちにとってもオアシスだった。1939年ごろ詩人で建築家の立原道造が別所沼のほとりに、ベッドや机を置いた週末の別荘として「ヒヤシンスハウス(風信子壮)」建設を構想したが、結核のため24歳で早逝した。2004年に立原が残したスケッチから地元有志らがその5坪ほどの住宅を忠実に再現した。ランニングコース横の片流れの屋根の自然に溶け込んだ小さな木造小屋は、当時の文化人たちの志を受け止めるようにひっそりと建つ。
現在のヒヤシンスハウスの中には、若くして第1回中原中也賞を受賞した立原の肖像写真や、彼がデザインした本棚や造り付けの机の上などに自身の本や愛読書が並ぶ。ガイド付きの見学もでき、時折現代アート作品も小屋の前に展示され、さいたま市民の文化活動の貴重な発信地にもなっている。(ヒヤシンスハウス開室日:水・土・日・祝の10:00〜15:00 運営は「ヒヤシンスハウスの会」代表 北原立木 TEL/FAX 048-863-4474)
昨年秋は別所沼公園で、「第17回ヒヤシンスハウス夢まつり」「ヒヤシンスハウスアートコロニー展『記憶のありか』」で、野外展示や講演、ダンスパフォーマンス、ワークショップなどが開催された。
浅見俊哉の『青写真の瓦版 2021』(2020-2021年)が展示。(2021年11月6日筆者撮影)
9歳年上で、立原が敬愛した埼玉を代表する詩人の神保光太郎も1934年に別所沼畔に家を建てた。1982年神保がよく散歩していたヒヤシンスハウス近くにその神保の詩碑が建てられた。浪漫主義文学運動の中心的存在になった神保が亀井勝一郎らと創刊した同人誌『日本浪漫派』という誌名は、旧制浦和高校裏の雑木林を散策中に思いついたという。
神保光太郎「冬日断抄」(昭和28年刊『青の童話』より)の詩碑 別所沼が題材
新橋に大正時代に創業し、岸田劉生、黒田清輝、安井曽太郎、浅井忠などの額装を手がけた老舗の太田額縁店も工房を1945年空襲の被害の大きかった新橋から別所沼の西側に移し、浦和画家たちの注文に応え続けた。今も画廊や画家たちの注文を受け続け、公園の林の中の古びた建物の中で額縁を手作りで制作している。
「裸婦を描く聖人」とも称賛された大阪出身の寺内萬次郎(1890〜1964)は、雑木林と畑に囲まれた武蔵野の面影の残る浦和針ヶ谷のアトリエで、ひたすら裸婦を描き続けた。1961年の『髪』は、黒一色の背景に朱色の敷布の上に横たわる白布をまとった女性を描く。ほのかに浮き出た肌色の乳房と大きく垂れ下がった豊かな黒髪。「デッサンの神様」と称された寺内の裸婦シリーズの中でも抑えられた色彩のコントラストが絶妙で、その芸術性を最大限に引き出している作品かもしれない。
寺内萬次郎『髪』1961年 蘭島閣美術館蔵
作品画像は、OBIKAKE 「お出かけ好きなアートファンのための美術館情報サイト」より https://obikake.com/exhibition/25342/
寺内は東京美術学校(現・東京藝術大学)等で教鞭をとり、武蔵野会や蕨画塾等で後進の育成に努め、埼玉県全体の美術文化の発展に貢献し、多くの門下生に慕われた。(図録p200、p203)
寺内の後、後輩の育成に力を注いだもう1人のさいたま市民が誇る画家、高田誠(1913〜1992)も地域の文化向上に貢献した。高田は浦和に生まれ育ち、亡くなるまでずっと浦和に住んでいた。高田の妻きよ子さんの著書にこう書かれている。(高田は)落ち着いた浦和の町が好きだったようで、1990年には、浦和についてこんな回想をしています。「・・・・・僕が住んでいた浦和の町、とくにこの街道沿いは、宿場町の面影がまだまだ残っていました。家から少し北へ歩くと松並木があって、いかにも街道らしい風景でした」。(『あなたに会えて本当によかった 夫・高田誠の思い出』高田きよ子著 求龍堂 2013年 p 142より)
高田は1929年県立浦和中学在学中の16歳のとき、第16回二科展で『浦和風景』という作品で入選した。高田は中学時代から旧埼玉会館とその周辺を度々写生した。17歳から安井曽太郎に師事し、1933年の『桐の咲ける風景』は、市内を俯瞰した構図で、手前に桐の花と枝を配し、遠景右手に旧埼玉会館、桐の花を挟んだ左手に旧県立図書館が描かれ、セザンヌに傾倒した安井の影響が作風に見られる。
高田はこのあたりのことをこう語っている。「(略)埼玉会館から県庁にかけては、土地の高低の変化もあり、浦和市内では一番いいところだ」。(『埼玉会館50周年誌』1976年、埼玉会館p303 )(図録p76より)
高田誠『桐の咲ける風景』1933年うらわ美術館蔵
作品画像は「美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 」よりhttps://www.artagenda.jp/exhibition/detail/4633
埼玉会館は、1926年に昭和天皇の御成婚の記念として建てられ、40年後モダニズム建築の旗手の前川國男氏が設計して、1966年に新埼玉会館が開館し、浦和のランドマークとして今に至る。(埼玉会館サイト「埼玉会館の歴史」よりhttps://www.saf.or.jp/saitama/about/)
旧浦和市域 旧埼玉会館 埼玉県写真帖(昭和9年発行)さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」より https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/003/kpu-0405hoka.html
現在の前田國男設計の埼玉会館 筆者撮影
その後高田は徐々に独自の点描画法を風景の世界で創り上げていき、昭和30年代半ば以降、松原湖、妙高山などの山岳地帯の風景画の点描表現で完成期を迎える。高田のメルヘンを奏でるかのような牧歌的な作風は、市役所や浦和駅前のコルソの建物の表と裏に2枚の大壁画として、市民に親しまれている。さいたま市田島ヶ原の国指定の特別天然記念物であるサクラソウが訪れる人を和ませている。
高田誠『残雪の妙高山麓』1970年うらわ美術館蔵 「浦和画家とその時代ー寺内萬次郎・瑛九・高田誠を中心に」展図録より(2000年)
幼児期に浦和に越して育ち、寺内に師事した渡邊武夫(1916〜2003)も埼玉を代表とする重要作家の1人。渡邉が16歳で描いた高田の『桐の咲ける風景』と同じ場所の作品『浦和風景』は、第一美術協会展に入選するという早熟ぶり。セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山の連作を思い起こさせるかのような色彩表現を浦和中学(現在・浦和県立高校)時代に構築しているのに驚く。
渡邉武夫『浦和風景』1932年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p 87より
渡邉の描いた武蔵野の風景の2点の展示にしばし魅入る。1本の太い木の赤い幹や枯れた燕尾色の並木と黄色い地面との絶妙な色彩感覚で、移ろいいく季節感を醸し出している。1960年のデフォルメし単純化された線で描かれた『樹』は、44歳の頃の渡邉の強い意志を表現しているのであろうか。12年後の『堀割のある風景』は、早春の小川に沿う細かい枝をぼやけたワインレッドで表現し、それが水色の空に映える。水色の小川に映し出される枝はくっきりと伸びている。渡邉が示した冬の武蔵野風景は、ある種の寂寥感が漂いながら、懐かしさを感じさせる。
渡邉武夫『堀割のある風景』1972年埼玉県立近代美術館蔵
作品画像は、「Google Arts & Culture 」サイトより https://artsandculture.google.com/asset/iwEAt1gIdEjF5A?hl=ja
さいたま市テレビ広報番組「のびのびシティさいたま」では、放映されたこの展覧会とヒヤシンスハウスの紹介をYouTube動画で配信中! https://www.city.saitama.jp/006/014/013/001/009/011/p089835.html
文責 馬場邦子
〜その3へ続く〜
1942年別所沼西側の稲荷台に両親と移住した林倭衛(1895〜1945)は、亡くなるまでの4年間の時期に、沼の西辺の高台のアトリエから見える別所沼の風景を描いている。セザンヌを敬愛し、パリで後期印象派やフォービズムを研究した林は、流れるようなタッチで別所沼の素朴な自然を表現している。
林倭衛『別所沼』1942年 上田市立美術館蔵
作品画像は「サントニューゼ」のサイト「作家紹介 林倭衛」より https://www.santomyuze.com/museum/collection/hayashishizue/
さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」サイトから 旧浦和市域 大正 別所沼 六辻村写真帖より
https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/004/kpu-0445hoka.html
1961年に浦和仲町に再転入した小松崎邦夫(1931〜1992)は、近所の別所沼北側の村岡牧場で牛をモチーフとした作品を制作した。(図録p288 小松崎邦夫の年表より)
メタセコイアの紅葉が美しい秋の別所沼 2021年11月20日筆者撮影
画家たちが愛した別所沼は文学者たちにとってもオアシスだった。1939年ごろ詩人で建築家の立原道造が別所沼のほとりに、ベッドや机を置いた週末の別荘として「ヒヤシンスハウス(風信子壮)」建設を構想したが、結核のため24歳で早逝した。2004年に立原が残したスケッチから地元有志らがその5坪ほどの住宅を忠実に再現した。ランニングコース横の片流れの屋根の自然に溶け込んだ小さな木造小屋は、当時の文化人たちの志を受け止めるようにひっそりと建つ。
現在のヒヤシンスハウスの中には、若くして第1回中原中也賞を受賞した立原の肖像写真や、彼がデザインした本棚や造り付けの机の上などに自身の本や愛読書が並ぶ。ガイド付きの見学もでき、時折現代アート作品も小屋の前に展示され、さいたま市民の文化活動の貴重な発信地にもなっている。(ヒヤシンスハウス開室日:水・土・日・祝の10:00〜15:00 運営は「ヒヤシンスハウスの会」代表 北原立木 TEL/FAX 048-863-4474)
昨年秋は別所沼公園で、「第17回ヒヤシンスハウス夢まつり」「ヒヤシンスハウスアートコロニー展『記憶のありか』」で、野外展示や講演、ダンスパフォーマンス、ワークショップなどが開催された。
浅見俊哉の『青写真の瓦版 2021』(2020-2021年)が展示。(2021年11月6日筆者撮影)
9歳年上で、立原が敬愛した埼玉を代表する詩人の神保光太郎も1934年に別所沼畔に家を建てた。1982年神保がよく散歩していたヒヤシンスハウス近くにその神保の詩碑が建てられた。浪漫主義文学運動の中心的存在になった神保が亀井勝一郎らと創刊した同人誌『日本浪漫派』という誌名は、旧制浦和高校裏の雑木林を散策中に思いついたという。
神保光太郎「冬日断抄」(昭和28年刊『青の童話』より)の詩碑 別所沼が題材
新橋に大正時代に創業し、岸田劉生、黒田清輝、安井曽太郎、浅井忠などの額装を手がけた老舗の太田額縁店も工房を1945年空襲の被害の大きかった新橋から別所沼の西側に移し、浦和画家たちの注文に応え続けた。今も画廊や画家たちの注文を受け続け、公園の林の中の古びた建物の中で額縁を手作りで制作している。
「裸婦を描く聖人」とも称賛された大阪出身の寺内萬次郎(1890〜1964)は、雑木林と畑に囲まれた武蔵野の面影の残る浦和針ヶ谷のアトリエで、ひたすら裸婦を描き続けた。1961年の『髪』は、黒一色の背景に朱色の敷布の上に横たわる白布をまとった女性を描く。ほのかに浮き出た肌色の乳房と大きく垂れ下がった豊かな黒髪。「デッサンの神様」と称された寺内の裸婦シリーズの中でも抑えられた色彩のコントラストが絶妙で、その芸術性を最大限に引き出している作品かもしれない。
寺内萬次郎『髪』1961年 蘭島閣美術館蔵
作品画像は、OBIKAKE 「お出かけ好きなアートファンのための美術館情報サイト」より https://obikake.com/exhibition/25342/
寺内は東京美術学校(現・東京藝術大学)等で教鞭をとり、武蔵野会や蕨画塾等で後進の育成に努め、埼玉県全体の美術文化の発展に貢献し、多くの門下生に慕われた。(図録p200、p203)
寺内の後、後輩の育成に力を注いだもう1人のさいたま市民が誇る画家、高田誠(1913〜1992)も地域の文化向上に貢献した。高田は浦和に生まれ育ち、亡くなるまでずっと浦和に住んでいた。高田の妻きよ子さんの著書にこう書かれている。(高田は)落ち着いた浦和の町が好きだったようで、1990年には、浦和についてこんな回想をしています。「・・・・・僕が住んでいた浦和の町、とくにこの街道沿いは、宿場町の面影がまだまだ残っていました。家から少し北へ歩くと松並木があって、いかにも街道らしい風景でした」。(『あなたに会えて本当によかった 夫・高田誠の思い出』高田きよ子著 求龍堂 2013年 p 142より)
高田は1929年県立浦和中学在学中の16歳のとき、第16回二科展で『浦和風景』という作品で入選した。高田は中学時代から旧埼玉会館とその周辺を度々写生した。17歳から安井曽太郎に師事し、1933年の『桐の咲ける風景』は、市内を俯瞰した構図で、手前に桐の花と枝を配し、遠景右手に旧埼玉会館、桐の花を挟んだ左手に旧県立図書館が描かれ、セザンヌに傾倒した安井の影響が作風に見られる。
高田はこのあたりのことをこう語っている。「(略)埼玉会館から県庁にかけては、土地の高低の変化もあり、浦和市内では一番いいところだ」。(『埼玉会館50周年誌』1976年、埼玉会館p303 )(図録p76より)
高田誠『桐の咲ける風景』1933年うらわ美術館蔵
作品画像は「美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 」よりhttps://www.artagenda.jp/exhibition/detail/4633
埼玉会館は、1926年に昭和天皇の御成婚の記念として建てられ、40年後モダニズム建築の旗手の前川國男氏が設計して、1966年に新埼玉会館が開館し、浦和のランドマークとして今に至る。(埼玉会館サイト「埼玉会館の歴史」よりhttps://www.saf.or.jp/saitama/about/)
旧浦和市域 旧埼玉会館 埼玉県写真帖(昭和9年発行)さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」より https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/003/kpu-0405hoka.html
現在の前田國男設計の埼玉会館 筆者撮影
その後高田は徐々に独自の点描画法を風景の世界で創り上げていき、昭和30年代半ば以降、松原湖、妙高山などの山岳地帯の風景画の点描表現で完成期を迎える。高田のメルヘンを奏でるかのような牧歌的な作風は、市役所や浦和駅前のコルソの建物の表と裏に2枚の大壁画として、市民に親しまれている。さいたま市田島ヶ原の国指定の特別天然記念物であるサクラソウが訪れる人を和ませている。
高田誠『残雪の妙高山麓』1970年うらわ美術館蔵 「浦和画家とその時代ー寺内萬次郎・瑛九・高田誠を中心に」展図録より(2000年)
幼児期に浦和に越して育ち、寺内に師事した渡邊武夫(1916〜2003)も埼玉を代表とする重要作家の1人。渡邉が16歳で描いた高田の『桐の咲ける風景』と同じ場所の作品『浦和風景』は、第一美術協会展に入選するという早熟ぶり。セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山の連作を思い起こさせるかのような色彩表現を浦和中学(現在・浦和県立高校)時代に構築しているのに驚く。
渡邉武夫『浦和風景』1932年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p 87より
渡邉の描いた武蔵野の風景の2点の展示にしばし魅入る。1本の太い木の赤い幹や枯れた燕尾色の並木と黄色い地面との絶妙な色彩感覚で、移ろいいく季節感を醸し出している。1960年のデフォルメし単純化された線で描かれた『樹』は、44歳の頃の渡邉の強い意志を表現しているのであろうか。12年後の『堀割のある風景』は、早春の小川に沿う細かい枝をぼやけたワインレッドで表現し、それが水色の空に映える。水色の小川に映し出される枝はくっきりと伸びている。渡邉が示した冬の武蔵野風景は、ある種の寂寥感が漂いながら、懐かしさを感じさせる。
渡邉武夫『堀割のある風景』1972年埼玉県立近代美術館蔵
作品画像は、「Google Arts & Culture 」サイトより https://artsandculture.google.com/asset/iwEAt1gIdEjF5A?hl=ja
さいたま市テレビ広報番組「のびのびシティさいたま」では、放映されたこの展覧会とヒヤシンスハウスの紹介をYouTube動画で配信中! https://www.city.saitama.jp/006/014/013/001/009/011/p089835.html
文責 馬場邦子
〜その3へ続く〜