Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

シアトルとパリで活躍した田中保の回顧展「田中保とその時代」展が埼玉県立近代美術館で開催中!

2022-09-15 | アート
1976年日本で初めての田中保の展覧会が「知られざる巨匠」として、新宿の伊勢丹で開催され、34点の作品が紹介された。1904年、田中は18歳の若さで単身シアトルに渡米し、画家になり、1920年にパリに移住した。パリで画家として名声を得るが、54歳で亡くなるまで一度も祖国日本の地を踏むことはなかった。今となっては信じられないが、当時の日本の画壇から田中は評価されなかったのである。

20世紀モダニズムが台頭していた華やかな芸術の都、パリで活躍した日本人画家がいた。しかし、日本では1970年代の初個展までその画家が埋もれていたのはどういうことだろうか。

現在埼玉県立近代美術館で「シアトル→パリ 田中保とその時代」展が開催されている。(10月2日まで)この展覧会では、田中の画家としての激動の道のりを振り返りながら、同時代活躍した画家の作品と共にその足取りを作品と資料で再検証している。田中の足取りを追いながら、その作品を一部紹介していきたい。

田中は1886年(明治19年)金融業を営む父(元岩槻藩士)の元、埼玉県の岩槻で9人の兄弟の4男として生まれた。県立第一中学校(後浦和中学校と改名し、現在の浦和高等学校)に入学するが、3年生の時に父が急逝したため、一家は破産し、離散。9人兄妹のうち、3兄弟はバラバラで海外に行くことになった。田中は中学校卒業後してすぐの1904年、アメリカのシアトルに船で渡った。

移民が押し寄せたシアトルで、田中は農家の手伝い、ピーナッツ売り、コック見習いなどをしながら、英語も学んだ。そして、シアトル市立図書館や美術館、展覧会などに通い、独学で絵を勉強した。1912年頃オランダ人画家フォッコ・タマダの主宰する塾に入り、指導を受けた。当時同じようにアメリカに渡った日本人画家に清水登之や国吉康夫がいるが、清水とはタマダの塾で一緒に学んだ。

この展覧会のセクション1と2では、シアトルでの田中の初期の作品が展示されている。力強い自画像と濃淡の浮かび上がる裸婦の木炭のデッサンに高度な描写力が裏付けされている。この頃の清水の作品も展示されている。


田中保『自画像』(1915年頃)埼玉県立近代美術館蔵

日本でアカデミックな絵画教育を受けずに、欧米の作家が描いたような「黒シートの裸婦」(1915年頃)のような作品を短期間で描けるようになるとは、驚きだ。画家という職業でアメリカンドリームを夢見て、ひたすら貪欲に技術を磨いていったのかもしれない。


田中保『黒シートの裸婦』(1915年頃)埼玉県立近代美術館蔵

展覧会には1912年頃から出展し始め、1914年28歳の時、ワシントン州立協会ギャラリーの北西画家展で、海景画が高く評価され、作品も売れ、徐々にメディアからも注目されるようになる。

1914年、シアトル美術協会で作品を展示したとき、田中の講演会を聞いた詩人で美術評論家のルイーズ・ゲプハント・カンは田中の裸婦の作品を高く評価した。後に田中とルイーズは結婚したが、異人種間の結婚は当時許されず、ルイーズはアメリカ国籍を失った。

1915年サンフランシスコで開催された万国博美術部門にアメリカ代表として選ばれ、『マドロナの影』(1914年)が展示された。黄色の背景に横向きの表情の見えない女性が、オレンジがかった布を持ちながら、すくっと立っている。あたかも夢の中でぼんやり現れた女性を描いたかのような幻想的な油彩作品。この作品は評価が高く、田中の代表作の一つであろう。この頃田中のアメリカでの評価は確立され、シアトル美術協会でも指導をするようになった。

1915年、シアトル市立図書館展示室で初めての個展を開いた田中は、裸婦をメインに描くようになった。しかし、裸婦は「挑発的で非道徳的」と、たびたび展覧会で批判を浴びる。その批判に対して田中は、地元紙に「芸術のあるべき姿」として、「芸術のあくまで個人にかかわる問題であり、個人の心的、精神的な活動の表明である」(『画家タナカ・ヤスシ シアトルとパリにかけた夢』図録 1997年 埼玉県立近代美術館 p 133)という主張の寄稿をした。その後も批判に対するより強い主張の寄稿文も書いたが、アメリカ人には理解されなかった。

シアトルには16年在住したが、田中とルイーズは非難を浴びたアメリカを去って、1920年パリへ約100点ほどの絵画を伴って移住した。エコール・ド・パリの時代、自由な空気の流れる芸術の都で、田中は精力的に個展を開いたり、作品をサロン・ドートンヌなどのサロンやグループ展に毎年出展した。シアトルで酷評された裸婦の作品もパリでは高く評価された。自分の画塾も開いている。

モダニズムの旗手といわれた詩人のエズラ・パウンドや小説家ジェイムス・ジョイス、ヘミングウェイたちとも交流をしながら、田中の才能は大きく開花し、政府が作品を買い取るほどフランスの画壇で成功をおさめたのである。パリでの成功は、文学者も含めて様々な関係者にコネクションが強かったルイーズの助言やサポートも大きかったかもしれない。

田中は、日本人画家たちと距離をおき、交流が少なかった。日本で美術教育を受けず、日本の画壇にコネクションもなかったためか、画壇は田中を受け入れず、1924年第5回帝展に落選した。フランスで成功した日本人画家に対する嫉妬ややっかみなどもあったのではないか。もし、田中の吸引力のある作品群が当時の日本画壇に紹介されていたら、若い芸術家たちへの衝撃は大きく、何らかの強いインスピレーションをもたらしたであろう。

田中は54歳で亡くなるまで日本には一度も戻らなかったが、日本に対する望郷の念を抱き続けていたに違いない。この展覧会に展示されているいくつかの海の風景画の構図やモチーフは、当時ヨーロッパで流行ったジャポニズムも感じさせ、西欧と東洋の融合された田中のエキゾチックな作品は注目されたに違いない。

セクション4の「パリの異邦人、ヤスシ・タナカ」で展示された服を着た作品の女性像は、ルノワールの描く女性のように、頬を赤く染め、夢見がちな眼差しでゆったりと座っている。ルイーズがモデルと言われる『黄色のドレス』(1925-30年)の女性の瞳は、穏やかで相手を包み込む優しさが滲み出ている。ルイーズにとって、自分たちの感性の合うパリに来て、良き理解者に恵まれた満足感や安堵感があらわれているかのようだ。


田中保『黄色のドレス』(1925年-30年)埼玉県立近代美術館蔵 昭和57年度埼玉銀行寄贈


田中保『黒いドレスの腰かけてる女』(1920-1930年)埼玉県立近代美術館蔵 昭和57年度埼玉銀行寄贈

『青いコートを着て腰かけてる女』は、女優の見せるような可愛らしく華やかな表情で、黄色のバックと青の服の対比のせいか、画面に惹きつけられる。

対して、裸婦の作品群が展示された「1924年の活動」というコーナーでは、一瞬別の次元に迷い込んだかのような錯覚に陥る。官能的でヴィーナスを思わせるようなふくよかな体形。様々な画風の眩い裸婦像が配置され、田中の精力的な仕事の跡がわかる。海の前で座る裸婦の後姿を描いた『背中の裸婦』(1920-1930年)は、ブルーの海を背景に、白みがかった肌色の腿から放たれる月光の反射光が際立つ。田中の異国での孤独感を反映しているかのようだ。


田中保『背中の裸婦』(1920-1930年)埼玉県立近代美術館

最後のコーナーに猫を描いた2作も印象的だった。『花と猫』(1920-1940年)は、赤い花の隣の窓際に座る猫をパステルで丁寧に描写している。こちらもバックは黄色で猫が黒。パステルの味わいを最大限にひき出している。もう片方の焦げ茶で固めた油彩の『猫』(1920-1930年)は、写実的で味わいがある。


田中保『猫と花』(1920-1940年)埼玉県立近代美術館

1920年代日本画壇で冷遇された田中保と田中を支え続けたアメリカ人の妻のルイーズが、令和の時代に作品とともに再検証される展覧会の開催によって、田中が海外で残した功績がますます評価されることを願う。

明日のNHK Eテレの「日曜美術館」アートシーンでこの展覧会が紹介されるそうです。

放送日:9月18日(日)9:45〜
再放送:9月25日(日)20:45〜


見出し画像は『サン・ベネゼ橋』(1928年頃)埼玉県立近大美術館 昭和57年度埼玉銀行寄贈


「シアトル→パリ 田中保とその時代」展

会場:埼玉県立近代美術館
会期:2022年7月16日(土)~ 10月2日(日)※会期中、一部作品の展示替えがあります。
前期:8月21日(日)まで
後期:8月23日(火)から
休館日:月曜日(7月18日、8月15日、9月19日は開館)
開館時間:10:00 ~ 17:30 (展示室への入場は17:00まで)



うらわ美術館の「芸術家たちの住むところ」展〜「土地と人と美術と 地域美術研究の実践アプローチ」トークイベントより

2022-09-07 | アート
4月から8月にかけてうらわ美術館で開催された「芸術家たちの住むところ」展を観て、浦和画家の1人、渡邉武夫が残したこの言葉がワインレッドの木が浮かび上がる武蔵野の地の作品と共に、印象的だった。「東京を出て荒川を渡り、平坦な工業地帯や田園を通り抜けて、丘の上に立ち並ぶ家々や木立が見え出すと帰って来たなと思い、しみじみとこの町に愛着を覚えるのである」(「埼玉文芸 画房雑筆」『埼玉新聞 1964年12月10日「芸術家たちの住むところ展」図録p 223より)




浦和区にある1780年建立の玉蔵院 平安時代初期に弘法大師が創建 桜の名所として樹齢100年以上の枝垂れ桜が有名

当時の景色とは打って変わって商業施設が増えた浦和の街並みだが、古びた日本家屋のお店が所々に見受けられ、東京から戻ると人の動きも東京よりゆったり感じられて、この渡邉の言葉に共感を覚える。


裏門通りにある煎餅屋


味わいのある喫茶店「やじろべえ」まるで隠れ家のような雰囲気 吉岡里帆が出たCMのロケ地

浦和は湘南新宿線や上野東京ラインが浦和に停まるようになってから、交通面でますます便利になり、買い物や所用で立ち寄ることが圧倒的に多い。大好きな別所沼公園や埼玉県立近代美術館のある北浦和公園も近い。文教都市でありながら、芸術が身近に感じられる。普段何となく感じていたことを作品と浦和の芸術家の軌跡で具体的に示してくれたのが、この「芸術家たちの住むところ」という展覧会だった。

明治時代の浦和の景色や人々の営みを作品で検証し、歴史的な資料や写真で解説。有名な画家たちが浦和に移り住み、普段見ている別所沼などの過去の姿を描いた画家たちが中央画壇とも関係があり、日本の近代美術史を支えている事実にも驚き、そんな土地に仕事や生活面でずっと関わってきたことに嬉しくなる。

展覧会を担当した学芸員の松原知子さんは、7月13日にうらわ美術館で収録された「土地と人と美術と 地域美術研究の実践アプローチ」という展覧会関連トークイベントで、こう語っている。「地域の人たちに知って欲しいという思いがあって・・作品の解説だけにとどまらないよう多角的に芸術家たちが住んだこの地域の魅力を掘り起こしたいという思いがあって・・(中略)作品を鑑賞するだけじゃなくて、実際にそこに暮らした芸術家たちがこの地域に対してどういうことを言ったのかというものを作品と合わせて展示しました。それが地域の人達にとっての鑑賞の新しい糸口になるようでとても好評で、地域の人達と芸術家が共感するツールになった」。この展覧会場では、浦和画家たちの残した言葉が作品のそばに掲げられ、画家たちの浦和という場所への思いや画家同士のつながりを示していた。
(このトークイベントはうらわ美術館のYouTubeチャンネルで見れる。https://www.youtube.com/watch?v=cKIljrl-A0w&t=1s )

そのトークイベントでは、府中市美術館の学芸員神山亮子さんと板橋区立美術館の学芸員弘中智子さんがそれぞれ企画された地域ゆかりの展覧会が紹介された。神山さんは2009年に開催された「多摩川で / 多摩川からアートする At/ From Tamagawa 1964-2009」という多摩川をテーマとした作家11人の作品の展覧会を企画した。高松次郎の「石と数字」(1960年代)、山中信夫の「川に写したフィルムを川に映す」(1960年代)、そして日高理恵子の多摩川の段丘にある小さな神社の境内の木々のモノクロ作品を写真で紹介された。



この対談で司会をしていた、うらわ美術館学芸員(今回の展覧会担当)の滝沢明子さんが鋭い視点をこう指摘した。「当時もだったんですけれども、地域美術ということと現代美術というのが結構乖離しているなとずっと私は思っていて、それが地域ということから現代美術が引っ張れるのだという驚きがあった」。

板橋区立美術館の弘中さんは、沖縄県立美術館や京都文化博物館と協力して、沖縄や京都の画家たちと池袋モンパルナスや前衛画家たちの関係性を示した「東京⇔沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(2018年)と「さまよえる絵筆 東京・京都戦時下の前衛画家たち」(2021年)という展覧会を企画した。池袋にアトリエ村があった池袋モンパルナスの話は新聞記事等で読んで以前から興味を持っていたが、その最盛期である1920年代から1930年代に、他の地域の画家たちと交流の動きがあったという事実は、知らなかった。弘中さんは、今も2館と連絡を取り合って、調査を進めているという。





府中市美術館の地域の一つの象徴的な風景をテーマとしたような展覧会や、板橋区立美術館の他の地域との連携をテーマとしたような展覧会などは、地域に根差す美術館だからこそできる試みとして、他の地域の美術館も含めて今後もより深く掘り下げて、情報を発信していくことに期待したい。

地域美術というと地味なイメージがあるが、その強みとは市民にもその経験やネットワークを活かしながら協力し、芸術そのものを引き寄せる可能性が広がるということだ。松原さんの話では、うらわ美術館が5年前に開催したボランティア養成講座に参加した市民の方々が、今も緩やかに繋がっていて、今回の展覧会でも助けてもらったそうだ。「そういう人達の存在を大切にしていきたい」と松原さんは言う。

「浦和は地元に多くの作家がいて、彼らが緩やかに繋がり、周りの人々や画材屋さんも暖かく見守っていた風潮があった」と松原さんが言及した。瑛九が個展を開き、当時の画家たちも利用したコバルト画廊はコバルト画房と名前を変えて、画材や絵画教室、そしてギャラリースペースもある施設として現在も画家や市民が利用している。


浦和で一番古い画材屋「コバルト画房」

人間国宝の工芸作家(彫金)、増田三男の次の言葉が展覧会で作品の横に掲げられ、浦和の人間関係の居心地の良さを表している。「埼玉では『君は君、我は我なり、されど仲良く』」(『埼玉県展の50年』埼玉県美術家協会、さいたま芸術文化祭埼玉県実行委員会、2000年 図録p 195)松原さんのこの言葉に関しての補足説明の中で、浦和の「穏やかで控えめな気質が多くの浦和の芸術家の作風にも現れている」という指摘があった。人の繋がりも穏やかで、工芸や油彩などの分野や会派や派閥を超えて、緩やかに繋がっていって、地域の美術を盛り上げ、引き継いでいるという。地域の芸術を牽引した増田と画家高田誠は、ニックネームで呼び合うほど仲が良かったという。

勿論、文教都市として、師範学校(現在の埼玉大学)という教員を養成する機関が古くからあり、全国から集まった熱心な美術教師がこの地域にいたという影響力も大きいと取材中何回か強調された。東大合格率の高いことで知られる全国有数の進学校、県立浦和高等学校でも名を成した多くの画家たちが指導して、東京藝術大学へ進学し、優秀な画家を輩出したことにも驚く。

上記の浦和の芸術家同士の繋がりや師弟関係は、「うらわ美術館」のYouTubeチャンネルの「小川游と内藤五琅に聞く 浦和絵描き、その思い出」(5月24日うらわ美術館で収録)という動画の中で、洋画家の小川と日本画家の内藤が具体的に旧制浦和中学校(現在の浦和高等学校)時代の思い出とともに詳しく話している。小川は増田のことを大恩人と称し、旧制浦和中学校には高田誠が美術部を時々見にきてくれたという。人間国宝の工芸作家(彫金)内藤四郎を父に持つ内藤五琅も、増田や小松崎邦夫との交流を話している。

「(展覧会で検証したように)なぜ画家たちが浦和に来たのか探っていって、地域に住んでいる人たちに提示できれば、もっと(その人たちが)その地域が好きになるんじゃないかと思う」と8月末にうらわ美術館の滝口さんは話してくれた。滝口さんの言葉通り、何回か行われたギャラリートークでは熱心に耳を傾ける人々の姿が見受けられ、芸術を通して浦和の歴史的な魅力に気づいたのではないか。この「芸術家たちの住むところ」という展覧会を通して、地域に住んでいる私たちも芸術家と同じ目線で地域全体を見渡せるような気もして、滝口さんの言葉通り、さいたま市民としてますます浦和という街が誇らしく好きになった。

「芸術家たちの住むところ」展うらわ美術館で開催中!<本をめぐるアート〜福田尚代> <その5>

2022-08-20 | アート
この「芸術家たちの住むところ」という展覧会の最後の部屋で、うらわ美術館の収集方針の2大テーマ「浦和ゆかりのアーティスト」と「本をめぐるアート」にぴったりの女性作家、福田尚代の作品に出会う。それまでの絵画や工芸、彫刻の世界から抜け出して、別の次元空間にきたような気持ちになる。浦和に生まれ育った福田は、小さな頃から本に親しみ、2003年以降本を用いた作品を積極的に制作するようになったという。福田にとって、「読書は美術体験である」という。(「開館10周年記念オブジェの方へー変貌する本の世界 2009年11月4日〜2010年1月24日」発行うらわ美術館 図録p 36より)

本の文字が書かれている中身の方が鑑賞者側に向けて扇形に開いて展示されたオレンジ色の装丁の本は、『翼あるもの 「バートルビーと仲間たち」』という作品。アメリカ文学史上最重要小説と言われる『白鯨』の著者、ハーマン・メルヴィルの不朽の短編『バートルビー』の主人公バートルビーをモチーフにした『バートルビーと仲間たち』(エンリーケ・ビラ=マタス著、原著版、2000年刊)という本を加工している。福田が読んだ各ページを同じ長さに折り、1ページだけ中央部分に1行の文章がはっきり読めるような形に折られている。各ページの文字は折られた部分に1行微かに現れ、黒く刻印され、作家の記憶の中に埋め込められているようだ。

社会に同化できず、「何もしない英雄」と呼ばれるバートルビーの言葉が舞い降りてくる。「――これは幻の本に関するバートルビー芸術の見事な一行である。」という中央の文章は、本の著者マタスあるいは福田自身のバートルビーへの讃歌であろうか。この『バートルビーと仲間たち』という本を読みたくなる。かつてシカゴ郊外の大学のアメリカ文学のクラスで『バートルビー』を読んだ時の奇妙な感覚がよみがえり、その時の乾いた空気が立ち上がるかのよう。福田はアメリカの地に6年間暮らしていた。


『翼あるもの 「バートルビーと仲間たち」』2013年うらわ美術館蔵 展示画像は図録p 259より

本の一文字一文字の上に玉結びをして、刺繍が施されている本は『ムーミン谷の冬』。(講談社、1977年刊)図録p 258の作品説明によると、地元の老舗書店、須原屋で昔買ってもらったという。本の上で字がうごめいて見える。文字一つ一つを立体化し生命を吹き込んだかのようだ。本というものは、装丁を綺麗に作り上げ、字を守ることが作者や本にとって大切だと思い込んでいたので、本やその文字を加工するという発想に度肝を抜かれる。本を読み、かみくだいて自分の発想として表現することが一つの創作の方法なのだろう。鑑賞者の私たちも福田の作品を思い出しながら、『バートルビー』や『ムーミン谷の冬』を読んでみたら、何かまた違う世界が見えてくるかもしれない。この部屋では、文学を愛する人もアートを愛する人もその相関性を感性で味わい、後で自分自身で振り返ることで感性の振り幅が広くなるような気がする。


『冬眠』2007年うらわ美術館蔵 展示画像は図録p 259より

色鉛筆を細長く削ってさまざまな形の小さなオブジェを散らした(ように見える)作品『煙の骨』にしばし見惚れる。松原学芸員の話では、福田はうらわ美術館の会場で作品を並べ完成させたという。ひょっとしたら、展示をするたび福田のその時々の感情で並べ替えが起こり、この作品の印象が変わるのだろうか。やわらかなパステルのひねったり、削られた形の「骨」と呼ばれる物は、無造作に並べられているのか、何か規則性があるのか・・小宇宙に漂う美しい塵の広がりにも見える。一つ一つのオブジェが愛おしく思える。


『煙の骨』2007〜13年うらわ美術館蔵 展示画像は図録p260より


『煙の骨』部分 2007〜2013年うらわ美術館蔵 作品部分 展示画像は『ひかり埃のきみ 美術と回文』福田尚代 平凡社2016年 p 38より

この可愛らしい作品の隣に、制作中に出た塵をふるいにかけて作った小さな山が存在している。『山のあなた』という作品で、時間の経過を表すようにわざと隣に展示されている。福田の作品は様々なことを喚起させる刺激に満ちている。


『山のあなた』2010〜13年うらわ美術館蔵 展示画像は図録p261より

福田は文筆家としても『ひかり埃のきみ 美術と回文』という本を2016年に出していて、回文という上から読んでも下から読んでも同じ音になるという文章をこの本で美術作品、エッセイとともに発表している。こんな難解な作業をどうやって思いつき、どのくらいの時間で多くの回文が生まれていったのか、いつか福田に聞いてみたい。こんな文章で回文の作品は始まっている。

「時の軌道を描いた文字の痕跡
千古の詩も大河追う
時の帰途」
「ときのきとうおかいたもしのこんせきせんこのしもたいかおうときのきと」(『ひかり埃のきみ 美術と回文』p57)

この展覧会で福田を担当した学芸員の滝口明子さんによれば、福田にとって言葉とは空気中にある小さい粒のようなもので、ある日降りてくる時がある。それを回文として視覚化したり、違う形で美術作品となる時もあるという。

かつて、ライター側からアートを小説に取り込む小説が多々あった。ヘミングウエイがピカソやマティスなどの収集家・詩人で、モダニズムの旗手、ガートルード・スタインの指南で、セザンヌや印象派の絵画スタイルを文章のスタイルに落とし込んだように、あるいは夏目漱石が書籍の装丁にこだわって、橋口五葉や津田清楓に依頼し、後世に残るアーティスティックな本を残したように・・・作家で最大の美術コレクターの川端康成や漱石は美術作品からインスピレーションを得て、小説の創作のヒントにした。漱石は小説の中に絵画を多用した。ジョン・エヴァレット・ミレイの名作『オフィーリア』(1851〜1852年)が『草枕』に出てくるのはよく知られている。


橋口五葉『草合(くさあわせ)』夏目金之助(漱石)著 春陽堂刊 1908年 うらわ美術館蔵 
画像は埼玉新聞2020年7月14日地域総合版「日々の生活とアートをつなぐ うらわ美術館がいまできること」②「草合(くさあわせ)」より
注意:この本は今回の展覧会には展示されていない。

美術と文学とが融合する作品に興味を持ち、資料を読んだり、なかなかないそういう講座をとったりしてきた自分にとって、こんなふうに両者が融合して、その結果洗練された作品を地元の美術館で堪能できたのは幸せであった。美術にとって文学とは芸術の中でも最も親密な関係なのだろうか。

この展覧会は過去の浦和の芸術家たちの軌跡を辿りながら、その絵画と立体物の芸術性の高さを味わいながら、最後に本をテーマにした作品を展示することで、美術と文学という他分野との融合がいかに心を揺さぶるか示してくれた。今後も芸術が融合するような作品が生み出されていくような魅力的な総合芸術の街、浦和であってほしいと願う。           

                                     文責 馬場邦子

                                      〜この展覧会の投稿終わり〜
 








浦和を愛した画家たち「芸術家たちの住むところ」展うらわ美術館で開催中! 彫金の人間国宝、内藤四郎と増田三男 <その4>

2022-08-18 | アート
浦和は伝統工芸の彫金で、内藤四郎(1907〜1988)と増田三男(1909〜2009)という重要無形文化財保持者(人間国宝)を2人も輩出している。2人が師事した近代陶芸の巨匠富本憲吉(1886〜1963)の壺や2人とのコラボ作品も展示されている。

東京出身の内藤は、亡くなるまでの70年間彫金に励み、新たな表現にも挑戦し続けた。1961年浦和に転居、モダンと伝統が融合し昇華されたデザインと色調で崇高な世界を作り出している。『柳文銀香炉』は、輝く黒味がかった銀色の壺に、おさえた金色の柳がくねりながら主張している。見事に江戸琳派が現代の伝統工芸に蘇ったかのよう。


『十字星 銅花器』1982年資生堂アートハウス蔵 後期展示 展示画像は図録p 213より


『柳文銀香炉』1982〜84うらわ美術館蔵 後期展示 展示画像は図録p 217より

内藤より3歳年下の増田は、現在のさいたま市の緑区に生まれ、生涯を浦和で過ごし、武蔵野の自然をベースに自然や動物を作品に反映させた。旧制浦和中学で美術講師をやり、県展顧問を務め、県内の後進の育成にも努めた。『金彩黒銅雑木林月夜 箱』は、彫金の小さな箱に武蔵野の雑木林と月を配置し、リズミカルな木の図案で金色の月に照らされた、冬の夜の神々しい空間を表現している。気品に満ちた雰囲気が眩い。『金彩銅筈 麦秋』は、秋の麦畑を茶色をベースに緑と黄色の交差する線で、琳派を思わせるような図案でモダンに仕上げている。両作品ともまさに粋。


『金彩黒銅雑木林月夜 箱』1992年うらわ美術館蔵 展示画像は「市報さいたま 浦和区版」2021年12月号の表紙より


『金彩堂筈 麦秋』1972年うらわ美術館蔵 後期展示 展示画像は図録p 219より

展覧会場で、増田三男が恩師で高田誠にも教えを受けた洋画家、小川游と内藤四郎の息子の日本画か内藤五琅へのインタビュー動画が放映されている。この『小川游と内藤五琅に聞く「浦和絵描き、その思い出」』(2022年5月24日 展覧会場内にて収録)は、うらわ美術館YouTubeチャンネルでも動画を公開している。https://www.youtube.com/watch?v=00kGNzxS3no&t=726s
うらわ美術館収蔵作家の2人に本展覧会出品作家や、この地域にまつわる思い出などを聞いている。


さて、最後の現代作家のコーナーでは、抽象画家の杉全直(1914〜1994と櫻井英嘉(1935〜1999)、3人の彫刻家の津久井利彰(1935〜)、林武(1956〜)、重村三雄(1929〜2012)、現代作家の小沢剛(1965〜)の作品などが展示。そこを横断し、最後の部屋は、浦和在住で現在も活躍中の女性作家、福田尚代の作品で締めくくられた。その5では福田の作品を紹介したい。

                                   文責 馬場邦子
                                           〜その5へ続く〜



浦和を愛した画家たち〜「芸術家たちの住むところ」展うらわ美術館で開催中! 瑛九・加藤勝重 <その3>

2022-08-12 | アート
巨匠瑛九の登場の前に、その場の空気を一変するような衝撃を受けた作品に出会った。浦和生まれの加藤勝重(1914〜2000)の日本画『響』で、堅牢なマチエールで壮大な瀑布の流れの一瞬を封じ込めている。ブルーの幽霊な岩肌に囲まれた深い谷底へ一気に流れ落ちていく滝の水の流れに生命が宿っているかのよう。水のしぶきから巻き起こる空気の層から冷気を感じて、絵の周りの空間に波動している感覚を味わう。なんとも言えない清々しさと水の躍動感!

加藤は浦和に終生住み、初めは洋画だったが、日本画に転向し、奥村土牛に師事した。雄大な山岳風景や火口に息吹を吹き込んだ。実は20年以上前に日本画教室で加藤に教えてもらったことがある。画壇で活躍されていることも知らずに、加藤の日本画教室を受けていたが、丁寧で優しかった印象だった。 


加藤勝重『響』1990年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 228より

この展覧会のクライマックスは、世界的に知られる革新的な前衛美術の先駆者と言われる瑛九(本名杉田秀夫)(1911〜1960)の作品コーナーであろう。1911年に宮崎に生まれ、1950年に浦和仲町に移住し、翌年浦和本太にアトリエを構えた。多くの浦和画家が住んでいたのは鹿島台や別所沼などがある駅の西側だが、対して瑛九は田園地帯が続く駅の東側に住んだ。学生時代から束縛されることを嫌った瑛九は、16歳の時に独学で中村彝などについて優れた美術評論を発表した。その後評論家として文芸誌などでも活躍し、リトグラフ、エッチング、ガラス絵、フォト・コラージュなど多彩な分野で実験的な創作活動に挑戦し続けた。

1936年25歳でフォト・デッサンと呼ばれるカメラを使わない写真技法に絵画的な手法を取り込んだ作品を制作し始め、作品集『眠りの理由』を発表し、その年に本名から瑛九に名前を変え、画壇に鮮烈なデビューを飾った。展覧会では白黒のフォト・デッサンの作品群が展示されている。


瑛九『かえろ、かえろ』(『瑛九 フォト・デッサン作品集真昼の夢』より)1951年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p101より

浦和に越した1950年、自由と独立の精神を尊重し、既成の美術団体や権威主義を否定して、公募展に出品しないという趣旨の「デモクラート美術家協会」を森啓や早川良雄らと結成した。後に国際的に活躍した若き日の池田満寿夫、靉嘔、河原温らは、浦和の瑛九宅をよく訪ね、遅くまで議論し合ったという。瑛九の存在は、ますます画家の街浦和の名を高め、当時の浦和の芸術家たちの革新的な視点を促すきっかけになったかもしれない。

「彼に魅せられた多くの前衛画家や写真家の卵、評論家、版画家、デザイナーなどが、昼夜に関係なく、遠慮会釈なくやって来ては、瑛九の貴重な制作時間を費やしていた」。写真家の玉井瑞夫が1994年に記したフォトエッセー「瑛九逝く」の一文には、当時の瑛九宅のにぎやかな様子がうかがえる。(日本経済新聞2006年4月30日p21「美の美 結集する個性―アトリエ村三景 上」より)

1957年にデモクラート協会が解散すると、瑛九は落ち着いた浦和の地で油彩画の制作に没頭した。瑛九はこう語っている。「ここに(浦和)住むようになってから創作欲がもりもり湧いてくるような気持がするのです」。(「身辺の記:うらわの人(28)」『浦和市広報 市民と市政』第83号、1958年8月1日 図録p 233より)そして、48歳の若さで亡くなるまでの浦和で過ごした9年間精力的に制作し、生涯に渡って膨大な量の作品を残した。

チラシの表紙に使われている1957年の『作品』は、大画面ではないが、カラフルなドットで形成された小宇宙が目に焼き付けられる。まるでオルゴールのメロディが奏でられるかのようなリズムが感じられる。黄色と青の色彩のかけらをくぐりながら、中心の赤い粒でできた惑星に吸い込まれていく。なんて心地よくて楽しい作品だろう。


瑛九『作品』1957年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は展覧会図録p 237より 

亡くなる1年前の1959年、病床の最晩年に描いた点描画の2つの大作『ながれーたそがれ』と『田園』は、感性のおもむくまま季節や時間の流れをドットで埋め尽くす。緑に囲まれたアトリエから春の息吹を感じながら、その生命力を一つ一つドットに込め、丹念に仕上げていったのだろう。ベートーヴァンの「田園」を繰り返し聞いていたという。音楽と呼応するかのようなドットの軌跡の合間に見える眩い色彩の輝き。見ているものは無限の宇宙空間へ引きずり込まれ、浮揚感をおぼえるぐらい幻想的な瑛九独自の世界観が感じられる。誠に贅沢な空間である。


瑛九『ながれーたそがれ』1959年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録『浦和画家とその時代展2000年』p103より


瑛九『田園』1959年加藤南枝氏蔵(埼玉県立近代美術館寄託) 後期展示 作品画像は展覧会図録p 244より

「瑛九は神に選ばれ、神に代わって「田園」を描き上げた。幾百幾千年の時間の中で、この絵の謎は解き明かされ、幾多の人々をニルバーナにみちびくであろう」と1975年の紀伊國屋画廊の瑛九「田園」展のポスターの裏面に書かれている。(埼玉県立近代美術館ニュース「ZOCALO 」2018年12月〜1月号 p1「特別展示:瑛九の部屋」より)浦和でこのような重要な作品をエネルギッシュに生み出していった。ひょっとしたら、死期が近いことを悟って、命と引き換えに自分の身を削って、絵の中に永遠の生命を託したのかもしれない。

埼玉県立近代美術館で2019年にこの『田園』のユニークな展示が行われた。「特別展示:瑛九の部屋」(MOMASコレクション第4期)というタイトルで、小さな部屋を暗室に説え、『田園』だけが展示された。作品を照らす光の明るさを自由に調整できるように展示。その時の光による色彩の変化が「カノン『田園』の光と影〜『瑛九の部屋』へ行こう #1.1」というYouTube動画によって記録されている。https://www.youtube.com/watch?v=vtqbGOZSoEM&t=180s 

その4では伝統工芸作家を紹介し、その5では現代作家の福田尚代の本に関係が深い作品にフォーカスしたい。
                         
                                       文責 馬場邦子 〜その4に続く〜

浦和を愛した画家たち〜「芸術家たちの住むところ」展うらわ美術館で開催中! 林倭衛・小松崎邦夫・寺内萬次郎・高田誠・渡邉武夫・立原道造・神保光太郎 <その2>

2022-08-02 | アート
1930年代に入ると、別所沼畔に移住した四方田草炎の隣に須田剋太がアトリエを持ち、1935年熊谷生まれの里見明正も別所沼畔に移住した。1933年杉全直が岸町、1934年寺内萬次郎が針ヶ谷にアトリエを構えて移住、渡邉武夫も高砂町に再転入、1951年には瑛九が仲町に転入した。こうして浦和のアトリエ村が形成されていった。

1942年別所沼西側の稲荷台に両親と移住した林倭衛(1895〜1945)は、亡くなるまでの4年間の時期に、沼の西辺の高台のアトリエから見える別所沼の風景を描いている。セザンヌを敬愛し、パリで後期印象派やフォービズムを研究した林は、流れるようなタッチで別所沼の素朴な自然を表現している。


        林倭衛『別所沼』1942年 上田市立美術館蔵  
作品画像は「サントニューゼ」のサイト「作家紹介 林倭衛」より https://www.santomyuze.com/museum/collection/hayashishizue/


さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」サイトから 旧浦和市域 大正 別所沼 六辻村写真帖より
https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/004/kpu-0445hoka.html

1961年に浦和仲町に再転入した小松崎邦夫(1931〜1992)は、近所の別所沼北側の村岡牧場で牛をモチーフとした作品を制作した。(図録p288 小松崎邦夫の年表より)


  メタセコイアの紅葉が美しい秋の別所沼 2021年11月20日筆者撮影

画家たちが愛した別所沼は文学者たちにとってもオアシスだった。1939年ごろ詩人で建築家の立原道造が別所沼のほとりに、ベッドや机を置いた週末の別荘として「ヒヤシンスハウス(風信子壮)」建設を構想したが、結核のため24歳で早逝した。2004年に立原が残したスケッチから地元有志らがその5坪ほどの住宅を忠実に再現した。ランニングコース横の片流れの屋根の自然に溶け込んだ小さな木造小屋は、当時の文化人たちの志を受け止めるようにひっそりと建つ。



現在のヒヤシンスハウスの中には、若くして第1回中原中也賞を受賞した立原の肖像写真や、彼がデザインした本棚や造り付けの机の上などに自身の本や愛読書が並ぶ。ガイド付きの見学もでき、時折現代アート作品も小屋の前に展示され、さいたま市民の文化活動の貴重な発信地にもなっている。(ヒヤシンスハウス開室日:水・土・日・祝の10:00〜15:00 運営は「ヒヤシンスハウスの会」代表 北原立木 TEL/FAX 048-863-4474)



昨年秋は別所沼公園で、「第17回ヒヤシンスハウス夢まつり」「ヒヤシンスハウスアートコロニー展『記憶のありか』」で、野外展示や講演、ダンスパフォーマンス、ワークショップなどが開催された。


浅見俊哉の『青写真の瓦版 2021』(2020-2021年)が展示。(2021年11月6日筆者撮影)

9歳年上で、立原が敬愛した埼玉を代表する詩人の神保光太郎も1934年に別所沼畔に家を建てた。1982年神保がよく散歩していたヒヤシンスハウス近くにその神保の詩碑が建てられた。浪漫主義文学運動の中心的存在になった神保が亀井勝一郎らと創刊した同人誌『日本浪漫派』という誌名は、旧制浦和高校裏の雑木林を散策中に思いついたという。


神保光太郎「冬日断抄」(昭和28年刊『青の童話』より)の詩碑 別所沼が題材

新橋に大正時代に創業し、岸田劉生、黒田清輝、安井曽太郎、浅井忠などの額装を手がけた老舗の太田額縁店も工房を1945年空襲の被害の大きかった新橋から別所沼の西側に移し、浦和画家たちの注文に応え続けた。今も画廊や画家たちの注文を受け続け、公園の林の中の古びた建物の中で額縁を手作りで制作している。

「裸婦を描く聖人」とも称賛された大阪出身の寺内萬次郎(1890〜1964)は、雑木林と畑に囲まれた武蔵野の面影の残る浦和針ヶ谷のアトリエで、ひたすら裸婦を描き続けた。1961年の『髪』は、黒一色の背景に朱色の敷布の上に横たわる白布をまとった女性を描く。ほのかに浮き出た肌色の乳房と大きく垂れ下がった豊かな黒髪。「デッサンの神様」と称された寺内の裸婦シリーズの中でも抑えられた色彩のコントラストが絶妙で、その芸術性を最大限に引き出している作品かもしれない。


     寺内萬次郎『髪』1961年 蘭島閣美術館蔵 
作品画像は、OBIKAKE 「お出かけ好きなアートファンのための美術館情報サイト」より https://obikake.com/exhibition/25342/

寺内は東京美術学校(現・東京藝術大学)等で教鞭をとり、武蔵野会や蕨画塾等で後進の育成に努め、埼玉県全体の美術文化の発展に貢献し、多くの門下生に慕われた。(図録p200、p203)

寺内の後、後輩の育成に力を注いだもう1人のさいたま市民が誇る画家、高田誠(1913〜1992)も地域の文化向上に貢献した。高田は浦和に生まれ育ち、亡くなるまでずっと浦和に住んでいた。高田の妻きよ子さんの著書にこう書かれている。(高田は)落ち着いた浦和の町が好きだったようで、1990年には、浦和についてこんな回想をしています。「・・・・・僕が住んでいた浦和の町、とくにこの街道沿いは、宿場町の面影がまだまだ残っていました。家から少し北へ歩くと松並木があって、いかにも街道らしい風景でした」。(『あなたに会えて本当によかった 夫・高田誠の思い出』高田きよ子著 求龍堂 2013年 p 142より)

高田は1929年県立浦和中学在学中の16歳のとき、第16回二科展で『浦和風景』という作品で入選した。高田は中学時代から旧埼玉会館とその周辺を度々写生した。17歳から安井曽太郎に師事し、1933年の『桐の咲ける風景』は、市内を俯瞰した構図で、手前に桐の花と枝を配し、遠景右手に旧埼玉会館、桐の花を挟んだ左手に旧県立図書館が描かれ、セザンヌに傾倒した安井の影響が作風に見られる。

高田はこのあたりのことをこう語っている。「(略)埼玉会館から県庁にかけては、土地の高低の変化もあり、浦和市内では一番いいところだ」。(『埼玉会館50周年誌』1976年、埼玉会館p303 )(図録p76より)


高田誠『桐の咲ける風景』1933年うらわ美術館蔵 
作品画像は「美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 」よりhttps://www.artagenda.jp/exhibition/detail/4633

埼玉会館は、1926年に昭和天皇の御成婚の記念として建てられ、40年後モダニズム建築の旗手の前川國男氏が設計して、1966年に新埼玉会館が開館し、浦和のランドマークとして今に至る。(埼玉会館サイト「埼玉会館の歴史」よりhttps://www.saf.or.jp/saitama/about/)


旧浦和市域 旧埼玉会館 埼玉県写真帖(昭和9年発行)さいたま市「アーカイブセンターギャラリー」より https://www.city.saitama.jp/archivescenter/001/002/003/kpu-0405hoka.html


   現在の前田國男設計の埼玉会館 筆者撮影

その後高田は徐々に独自の点描画法を風景の世界で創り上げていき、昭和30年代半ば以降、松原湖、妙高山などの山岳地帯の風景画の点描表現で完成期を迎える。高田のメルヘンを奏でるかのような牧歌的な作風は、市役所や浦和駅前のコルソの建物の表と裏に2枚の大壁画として、市民に親しまれている。さいたま市田島ヶ原の国指定の特別天然記念物であるサクラソウが訪れる人を和ませている。




高田誠『残雪の妙高山麓』1970年うらわ美術館蔵  「浦和画家とその時代ー寺内萬次郎・瑛九・高田誠を中心に」展図録より(2000年)


幼児期に浦和に越して育ち、寺内に師事した渡邊武夫(1916〜2003)も埼玉を代表とする重要作家の1人。渡邉が16歳で描いた高田の『桐の咲ける風景』と同じ場所の作品『浦和風景』は、第一美術協会展に入選するという早熟ぶり。セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山の連作を思い起こさせるかのような色彩表現を浦和中学(現在・浦和県立高校)時代に構築しているのに驚く。


渡邉武夫『浦和風景』1932年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p 87より

渡邉の描いた武蔵野の風景の2点の展示にしばし魅入る。1本の太い木の赤い幹や枯れた燕尾色の並木と黄色い地面との絶妙な色彩感覚で、移ろいいく季節感を醸し出している。1960年のデフォルメし単純化された線で描かれた『樹』は、44歳の頃の渡邉の強い意志を表現しているのであろうか。12年後の『堀割のある風景』は、早春の小川に沿う細かい枝をぼやけたワインレッドで表現し、それが水色の空に映える。水色の小川に映し出される枝はくっきりと伸びている。渡邉が示した冬の武蔵野風景は、ある種の寂寥感が漂いながら、懐かしさを感じさせる。


渡邉武夫『堀割のある風景』1972年埼玉県立近代美術館蔵 
作品画像は、「Google Arts & Culture 」サイトより https://artsandculture.google.com/asset/iwEAt1gIdEjF5A?hl=ja

さいたま市テレビ広報番組「のびのびシティさいたま」では、放映されたこの展覧会とヒヤシンスハウスの紹介をYouTube動画で配信中! https://www.city.saitama.jp/006/014/013/001/009/011/p089835.html
                                      文責 馬場邦子
                                         〜その3へ続く〜

                    





浦和を愛した画家たち〜「芸術家たちの住むところ」展うらわ美術館で開催中!福原霞外・鹿子木孟郎・倉田白羊・武内鶴之助・跡見泰  <その1>

2022-08-01 | アート
浦和というと、サッカー熱の高い「浦和レッズの街」というイメージが大きい。浦和駅の西口を降りると「URAWA Soccer TOWN」の赤い大きな文字が飛び込んでくる。2002年日本でのワールドカップの舞台「埼玉スタジアム2002」は、全国屈指の観客動員数を誇る。近年「住みたい街ベスト10」入りも果たし、テレ東の『出没!アド街ック天国』でも何回か浦和特集が組まれるほどの人気の街となった。



そのサッカーの街浦和には、文化面でもう一つ大きく誇れる顔を持つ。戦前から「鎌倉文士と浦和絵描き」と言われるほど画家の多い町としても有名で、かつて多くの才能溢れる画家たちが宿場町の面影が残る浦和というのどかな土地に住居を構えていた。

大きな理由として、美術学校や国立美術館がある上野までの交通の便が良く、(京浜東北線一本で上野まで30分ぐらい)台地で地盤がしっかりとした自然環境に恵まれた土地だったということだ。そこで、1923(大正2)年の関東大震災によって被災した画家たちが被害の少なかった浦和に次々と移住してきたのである。また「大震災の前から埼玉県師範学校や旧制浦和高校などがあり、文教地区として浦和にはいい教師が集まり、人材を育てる基盤もあった」とうらわ美術館学芸員の松原知子さんは説明する。

現在うらわ美術館でその画家たちを一同に紹介する「芸術家たちの住むところ」という展覧会が22周年開館記念として(当初20周年開館記念として開催予定だったが、コロナ禍で延長)開催中である。(8月28日まで)うらわ美術館は、当時多くの画家たちが住んだ鹿島台という振興住宅地(別所沼の東側で現在この地名はない)からも近いロイヤル・パインズホテルの3階に位置する。

その画家たちの描く対象となった別所沼は、今はさいたま市民の人気スポット、「別所沼公園」として整備されている。背丈の長い330本ものメタセコイアに囲まれた美しい沼の静謐な佇まいが多くの人々を惹きつけ、浦和という都会の言わばオアシスになっている。初めて訪れた人々は、突然現れる奇跡のような自然の佇まいに感嘆の声をあげるようだ。



当時は牧場まであったというから、池に映る緑の木を目に焼き付けながら、画家たちが絵筆をふるって創作に集中していたことが想像できる。松原学芸員の話では、「画家たちが集中して住んだ鹿島台は、高台にあって眺めがよく、洋館もあれば牧場や緑も多くあり、画家にとって理想的な場所だった」と言う。(2020年9月28日朝日新聞夕刊p3)

「その頃浦和にはたくさんの画家が集まっていました」という須田剋太の(加藤勉『画狂 剋太曼荼羅 須田剋太伝』邑心文庫 2003年)言葉でこの展覧会は始まるが、当時40数人ほどの画家たちが住んでいたという。 

「描かれた土地の記憶」というセクション1では、のどかな風景の美しさを象徴するかのような、福原霞外(1870〜1912)が明治期に描いた『別所沼』(制作年不明)という落ち着いた油彩作品が最初に目に入る。現在の別所沼も水面に映るメタセコイアの縦長の緑と水色の空や夕日の対比が絵になるが、120年以上もの前の風景は、丸みを帯び、うっそうとした緑で包まれた沼の水面に暮れ行く夕日の色を反映させ、その静寂の瞬間を重厚な油彩の筆致で切り取っている。現在も時折美しい鷺が飛び交う別所沼に、当時は白鳥も舞い降りていたことがわかる。


 福原霞外『別所沼』制作年不明 うらわ美術館蔵   作品画像は図録p 31より

最初のコーナーで目を引くのは、鹿子木孟郎(1874〜1941)の重厚で毅然とした54歳の『自画像』作品(1928年)。岡山で生まれた鹿子木は、1899年25歳で埼玉師範学校(現在の埼玉大学)へ助教諭として1年半赴任し、アメリカやフランスへ留学した。前期に展示された『日本髪の裸婦』(1899年)は師範学校時代の油彩作品だが、暗い色調から浮かび上がる背の肌合いとその写実性が印象に残る。
 

鹿子木孟郎『日本髪の裸婦』1899年 府中市美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p120より

その鹿子木の教鞭の後を引き継いだのが大阪生まれの福原で、1900年に埼玉師範学校(現・埼玉大学)に図画教諭として赴任し、浦和の常盤に住み、12年間浦和の美術教育に尽力した。病気のため他の画家のような留学は叶わなかったが、没後教え子や友人たちが画集を刊行するほど慕われ、その教育に関する資料や写真も残っている。(展覧会前期に展示)

福原と鹿子木が残した精密な鉛筆デッサンの中で、玉蔵院、別所沼、常盤、大戸、針ヶ谷、中山道周辺や与野、岩槻などの田園風景を描いた作品が展示されている。他の絵画作品も含めて、さいたま市アーカイブセンター提供の写真スライドなどと比べながら、当時を振り返る貴重な資料でもある。2人の風景画デッサンから藁葺き屋根の下での当時の人々の営みや明治時代の趣きを感じさせる。


福原霞外『玉蔵院』1891〜1910年うらわ美術館蔵 作品画像は「市報さいたま浦和区報版」2021年6月号表紙より

この2人と同世代の浦和生まれで、埼玉洋画の草分けと言われた倉田白羊(1881〜1938)の両親の肖像画も展示されている。倉田の父は漢学者で、師範学校で教諭をしているときに白羊が現在のさいたま市桜区に生まれた。兄の弟次郎が浅井忠に学び将来も期待されていたが、24歳の若さで病没した。白羊は兄の遺志を継ぐために13歳で浅井忠に入門し、画家を目指した。(『埼玉の画家たち』水野隆 平成12年 さきたま出版会)暗闇の中の仙人のような風貌の父を19歳の時油彩で表現し、上田に移住してから変化した明るいタッチで母を描いた。

倉田白羊は中学の教師を経て時事新報者の記者をしながら、美術批評や小説なども書いたインテリであった。自然のリアリズムをとことん追求した伸びやかな描写力で、1920年に移住した信州の明るい山岳風景も多く残している。『埼玉の画家たち 水野隆』p68~69参照

その後の「絵描きの街浦和」を形成していった近代の画家たちを展示作品とともに紹介しよう。1923年の関東大震災直後に小林真二、そして武内鶴之助、相馬其一、跡見泰が次々に鹿島台に転入してきた。浦和画家や文化人たちが好んだ別所沼に近い鹿島台という閑静な新興住宅地で、作品制作に集中できたのだろう。

武内鶴之助(1881〜1948)は、明治末にイギリスに4年間留学し、アカデミックな教育を受け、その力量でロイヤル・アカデミーに2回入選した。1924年にこの鹿島台にアトリエを構え、日本にパステル絵画技法を紹介した。前期に展示された空や雲の連作では、パステルの速乾性を生かしながら、ロンドン郊外の刻一刻と移ろいゆく空の光と影をターナーの油彩作品を思い起こさせるような繊細な色彩で表現した。


  武内鶴之助『気にかかる空』制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p130より

全体に黄緑色を配した『もれ陽』(制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示)や『木の間の光』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)と『月』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)は小品ながら、じっと見ているとやわらかな色彩の光が放つ吸引力と奥行きのある空間に思わず惹き込まれる。


  武内鶴之助『月』制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 59より 

今回展示されてないが、『アラシの夕』(1912年 埼玉県立近代美術館蔵)のような油彩画もアカデミックな表現の中に、バルビゾン派のような叙情性が漂っていて、画面に入り込みやすい。

黒田清輝の指導を受け、白馬会、光風会、文展、日展等で名をなし、2年間のパリ留学後の1925年に鹿島台に転入し、亡くなるまで浦和に住んだ跡見泰(1884〜1953)は、日本のバルビゾンを夢見てアトリエを建設したという。(図版p52)黒田清輝の流れを忠実に反映した印象主義を取り入れた外光表現で一家をなした。(『埼玉の画家たち』 水野隆 p71)『初秋静日』(1948年さいたま市立博物館蔵)では、木を手前に大きく置いて、淡い水色の空をバックに教会を中心に眺めた景色はあたかもヨーロッパの田園風景の一コマのようで、現在の浦和からはとても想像できないような光景が広がる。


   跡見泰 『初秋静日』1948年 さいたま市立浦和博物館蔵  作品画像は図録p53より

見出し画像 「芸術家たちの住むところ」展チラシより

展覧会場:うらわ美術館 
https://www.city.saitama.jp/urawa-art-museum/exhibition/whatson/exhibition/p086245.html

会期: 2022年4月23日(土曜日)~8月28日(日曜日)
前期:4月23日(土曜日)~6月19日(日曜日)
後期:6月28日(火曜日)~8月28日(日曜日)

開館時間 10時~17時
金曜日・土曜日のみ 20時まで(入場は閉館30分前まで)
休館日:月曜日(ただし7月18日は開館)、6月20日~27日、7月19日 

8月12日(金)19時から40分程度の学芸員による無料のギャラリートークがある。(当日の観覧券が必要、事前予約必要なし)
展覧会の作品・作家の解説を行う。         
                                       文責 馬場邦子 
                                           
                                        〜その2へ続く〜



三池敏夫さんのトークイベントレポート(5月7日)〜東京都現代美術館の「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」<その3>

2022-05-14 | 特撮
スペクタクルな映像を撮影する過程で、ミニチュア・セット設計とともに数々の仕掛けを編み出したことも井上泰幸さんの偉業である。円谷英二監督からの信頼もそれで深まっていった。トークイベントで三池さんが写真を見せながら、その驚異の仕掛けも紹介した。

『空の大怪獣ラドン』における阿蘇山の噴火や『日本誕生』(1959年)における富士山の大噴火のシーンなど、迫真の映像を撮るために、鉄工所から業者を呼んで鉄を溶かして流すという常識では考えられないようなことまでしている。また戦争映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1959年)の撮影時に、東宝撮影所に革新的な大プールを設計建立した。この大プールは2004年まで、怪獣映画などの特撮映画の撮影に利用された。

また、円谷英二監督のアイデアから高空から見た海を再現するために、大量のお湯で煮て伸ばした寒天を敷き詰める方法も使用された。実現困難な撮影をこうした創意工夫で可能とし、海のリアリティを追求した。この時に使用したゲタなども展示されている。

『モスラ』(1961年)のダム決壊のシーンでは、水落とし用のタンクを指示された数より多く用意したため、円谷英二監督が不機嫌になったのだが、その水流の凄まじさで迫力あるシーンが撮れたため円谷監督を喜ばせたという。

『海底軍艦』(1963年)で井上さんが作成した、陥没するビル街のセットの設計図などを展示。計算し尽くされた緻密なビル街の陥没シーンの撮影は大成功だったそうだ。また水槽に数色の絵の具を次々に垂らして大爆発の噴煙のような映像を作り出すという手法も、この映画では使用された。この大水槽を使った爆発表現は、後年になって再現したドキュメンタリー映像が井上さんのインタビューとともにビデオで紹介されている。

トークイベントの後半で、三池さんは『日本海大海戦』(1969年)で使われた三笠という戦艦の大規模なミニチュアのことに言及した。これは2015年、「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を熊本市現代美術館で開催した時に発見された。2017年に設立されたアニメ特撮アーカイブ機構(Anime Tokusatu Archive Centre 略称ATAC)が「特撮史上における重要な遺産」との判断で、文化庁からの支援金で修復作業を行い、今は須賀川特撮アーカイブセンターに展示されている。

全長6メートルもある三笠のミニチュアを東京都現代美術館まで輸送し展示するのは難しいため、会場最後の岩田屋ミニチュアコーナーの横に、CGによって再現された映像を実物大で投影している。

井上さんが関わった作品を通して日本の特撮美術の歴史ひいては日本の特撮史の流れが俯瞰できるわけだが、現代、CG主流の作品がほとんどの中、こうしたミニチュアの高度な技術は今後作品の中に活かされていくのだろうか。筆者も三池さんにこの質問をしたし、トークイベントでも同じ質問が出た。

三池さんの興味深い説明はこうだ。CGでは「壊れる表現」などはまだ苦手ではないかという時期もあったが、ここ10年でほぼクリアしている。煙、火、水が流れる表現は、ほぼCGでミニチュア並みにできるようになった。「ただミニチュアの良さは間違いなく今でもあるんですよ。CGはどんどん巧みになってますけど、やっぱりバーチャルなんですよ。コンピューターで作ってる世界であって、ミニチュアの素晴らしさは間違いなくそこに存在する。そこで火薬とか爆発とかやれば、間違いなく物理的に絡む印象というのはそこで撮れるから、映像の説得力は絶対あるんですよ」と強調した。しかし残念なことに、CG班があるため、ミニチュア班を入れる予算がないという。作品としてミニチュアの技術を今後同じように維持するのは難しい時代なので、須賀川特撮アーカイブセンターでミニチュアを展示して、目の前にある存在感を味わってもらいたいと三池さんはトークイベントの最後に締めくくった。

この展覧会の開催とともに、文化庁の予算も使い、井上泰幸展の資料をアーカイブ化する作業も進められている。日本が作り上げてきた特撮映画の歴史と真髄をこの展覧会で確認しながら、多くのクリエーターが作り上げた特撮文化を体系立てて次の世代に遺していくことが大事なことだと強く思った。

この三池敏夫さんのトークイベントの続きは6月にもう一度行われる。

特撮美術の礎を築いた井上泰幸の業績を振り返る「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」東京都現代美術館にて開催中!<その2>

2022-05-13 | 特撮
井上泰幸さんは1922年に福岡県古賀市で生まれた。1944年、井上さんは戦争で左足を失い、戦後は家具作りなどの勉強をし、その後日本大学藝術学部美術科に入学、バウハウスで学んだ山脇巌主任教授に美術造形の基礎をすべて学んだと言う(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。



この展覧会会場の最初のコーナー「特撮美術への道ーー芸術家であり、技術屋 1922−1953」には、井上さんの家族、妻令子さんとの写真や日大藝術学部時代の几帳面さを物語る「哲学」「芸術学」などのノート、写実的でマリアの優美さを感じさせる「聖母子」像と思われるデッサン、デザインした家具の図面などが展示されている。

井上さんは1952年から新東宝の撮影所で働き始めたのち、大学を卒業する直前の1954年に東宝へ出向する。その年に公開された、日本特撮の金字塔と言われる『ゴジラ』に美術助手として参加(「第2章 円谷英二との仕事ーー特撮の地位を上げるための献身」のコーナーに関連資料展示)。以降は東宝に留まり、特撮美術監督である渡辺明さんの助手として次々と代表的な特撮作品に関わった。

1966年『ゼロ・ファイター 大空戦』から特撮美術監督に就任し、『日本沈没』(1973)などの特撮超大作映画はもとより『ウルトラQ』(1965)などのテレビ作品にも参加した。この展覧会では、作品ごとに井上さんが台本を読んで各シーンを構想した絵コンテやイメージボードを図面とともに展示している。それらが完成された映像作品の場面そのものとなっているということに驚く。「私の場合、まず台本を読んで2、3日特撮シーンの絵コンテを描きます。どのステージが撮影に使えるのかは既にわかってますので、それに応じてどのセットをどのように作るか、またそのための予算などもその間に同時に出していきます」と仕事の流れを本で語っている(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第2章 衝突を経て築かれた円谷英二との信頼関係」p 124)。


『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行

井上さんは常に「LIFE」からの切り抜きなどを集めて、円谷英二監督の「鉄橋を作ってくれんか」というような要望にいつでも答えられるように努力されていたという(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。事前にあらゆる資料をリサーチし、特撮美術の構築のみでなく、スケジュール管理や人件費・材料費などの予算まで立てていた。その緻密な計算の軌跡は、展示資料の所々に書かれている。

「特撮美術監督・井上泰幸ーーミニチュアではなく、本物を作る 1966−1971」のコーナー。1966年『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』では、何十枚もの絵コンテとイメージボードが並び、井上さんと美術スタッフが作り上げたミニチュアセットに基づいて円谷英二監督が撮影に挑んだことが想像できる。羽田空港のスペクタルなシーンでは、どの角度で撮影されてもいいように、指示されてない部分までミニチュアを作り込んでいったという。

このサンダとガイラという怪獣の造形はグロテスクでインパクトがある。ウルトラマンや数々の人気怪獣を生み出した成田亨さんによるこの2体のデザイン画が残されており、その原画も展示されている。ただ原画の方はシャープでグロテスクさは感じられない。

その近くに井上さんの日記が展示され、1966年2月19日の日記に成田さんのことをいい意味でライバル視されていたことも明らかになっている。「円谷プロの成田君が非常に良いセットを組んだので、参考にする様にとのこと監督から話あり、技術面のよきライバルを得て張り合いがある」と書かれている(幾つかの日記の文章をタブレット映像で展示)。

井上さんがデザインした怪獣の代表作は『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)に出てくるヘドラというサイケデリックな姿体の怪獣である。真っ暗な背景から浮き出ている赤と黄色のヘドロが入り混じった井上さんのデザインボードのヘドラは、シュルレアリスムの不気味な産物のようでなぜか心に引っ掛かる。当時社会問題だった公害をテーマとした話題作で、工場廃液のヘドロから生まれた小さなオタマジャクシのような生物が徐々に巨大化し形態も変わっていく。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の形態変化を彷彿させる。

ヘドラが工場の煙突の煙を吸うシーンやゴジラと戦うシーンなどがイメージボードにおいてヴィヴィッドに表現され、映画のシーンそのもの。台本を元に次から次へと自分でイメージしたシーンを描写し、構築していく井上さんのとてつもない想像力が名作を生む原動力になった一例と言えよう。

左足がないハンディキャップを抱え、晩年まで癒えない傷の痛みに苦しみながらも不屈の精神で膨大な量の仕事を井上さんがこなしていったのは、優秀な医者として勤勉だったお父さんの影響が大きいのかもしれない。井上さんは本のインタビューで、幼い頃に亡くなったお父さんの日記を後年読んで「何と19歳で医師免許の試験に合格しており、またそのために驚くほどの努力をしていたことを、その日記で知らされたのです。これをきっかけに、私の仕事に対する態度もまた一段と変わりましたね。それまでよりも一生懸命にやらねばと、心を新たにしました」と答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第3章 美術監督への就任と円谷英二との別れ」p 128)

49歳の時、井上さんは東宝から独立し「アルファ企画」を設立。この会社は特撮テレビ番組の造形物製作などを担当した。『快傑ライオン丸』(1972年)などのピー・プロダクション作品や平成ウルトラマンシリーズなど携わった特撮作品は数多い。特撮超大作『日本沈没』の特撮美術では、序盤のシーンに登場する潜航艇「わだつみ」のミニチュアをデザインした。「三菱の重役がこの映画の現場見学に来られたとき、わだつみの造形を見て三菱の最新艇しんかい2000にそっくりだと驚嘆の声をあげていました」と井上さんは本のインタビューで答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第4章 東宝から独立してアルファ企画を設立 p 152)


                                      〜その3へ続く〜


特撮美術の礎を築いた井上泰幸の業績を振り返る「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」東京都現代美術館にて開催中!<その1>

2022-05-13 | 特撮
古びたホテルが写っている、同じ位置から撮影された2枚の白黒写真。1956年に公開された映画『空の大怪獣ラドン』の福岡の街の1シーンである。1枚は実際の風景写真で、もう1枚は撮影に使われたミニチュアセット。

本物だと思った方の写真は、よく見ると空に黒い鳥のような影、ラドンが写っている。これほどまでに完成度の高いミニチュアが1956年に作られていたというのは驚きだ。当時の建物や看板、鉄道、道路などを正確に再現した街にラドンが舞い降りてビル群を破壊し、ラドンの羽ばたきから起こる風圧で瓦や看板が吹き飛んでしまう有名なシーンは、今も特撮ファンの間で語り継がれている。

この大規模なミニチュアセットを設計し作り上げたのが井上泰幸さんで、その後の日本の多くの特撮映画の特撮美術に携わり、「特撮の神様」として知られる円谷英二特技監督と共に日本の特撮技術の高さを世界に広めた功績は計り知れない。

その井上さんの長年の業績を振り返る大規模な展覧会「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」が東京都現代美術館で現在開催している。(6月19日まで)




特撮美術監督の三池敏夫さんによると、「最初は(日本の特撮映画が有名になったのは)『ゴジラ』(1954年)で、『ゴジラ』や『ゴジラの逆襲』(1955年)は白黒映画でミニチュアとしては確かによくできてますが、本物の街に見えるようなミニチュアセットは『ラドン』(初のカラーの怪獣映画)ぐらいからが最初で、そこから日本の特撮映画の名声は世界にどんどん広がって行った」と言う。(3月19日展覧会初日取材談)

『ゴジラ』を始めとする特撮作品を世に送り出した円谷英二監督を支えていたのがセットや怪獣、メカニックなどのデザインやミニチュア製作を手がけてきた井上さんで、彼がいなければ日本の特撮作品の名声はここまで得られなかったかもしれない。

三池さんによる東京都現代美術館での5月7日のトークイベントでも「井上さんはたかがミニチュアだったものに、スーパーリアリズムを持ち込んでレベルの違うミニチュアセットを作りあげた」と強調されていた。井上さんと約30年仕事を共にした三池さんは、「上からの命令でなく、井上さんの独断でこだわり抜いて(中略)どんどんのめり込んで徹底的にやった末の結果」と説明された。(3月19日談)

井上さんは『空の大怪獣ラドン』の映画制作のため、博多の街に5日間ロケハンに行き、歩道の升目を数えるなど様々な方法で一つ一つ実測し、図面に起こした。ミニチュアを起こす前の図面を見た円谷監督から「写真通りじゃないか⁉︎」と驚かれたほどの出来だった。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行「第1章 偶然が重なって映画の世界へ」p76〜77)

「(特撮美術について)こんな面白いものが世の中の職業にあったのかとそりゃ不思議でしたよ」「ミニチュアじゃない、あくまでも本物を作ってるというセットの空気感ですね。それを描くようにしています」と井上さんは生前のインタビューでそのこだわりを語っている。(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)

この展覧会の目玉は映画『空の大怪獣ラドン』に出てくる福岡岩田屋デパート周辺の大規模なミニチュアセットの緻密な再現だ(会場の最後に展示)。当時の天神の建物や鉄道の色合いなど精巧な佇まいがバックのリアリスティックな青空に映えて美しい。背景画家として井上さんと共に仕事をしてきた島倉二千六さんが、このホリゾントと呼ばれる背景の空を描いた。室内の空間なのにあたかも街自体が澄み切った空気をまとっているかのよう。見ている私たちもその世界に吸い込まれ、看板を仰ぎ見ながら一瞬その時代にタイムスリップする感覚を味わう。



この圧巻のミニチュアセットは三池さんが監修を務め、美術制作会社の老舗マーブリングファインアーツで製作された。井上さんが設計したように岩田屋の屋上の観覧車や岩田屋の一角にある丸太を組んだ工事用の足場も正確に再現されていて、懐かしい気持ちになる。










この展示室の一角には大きなスクリーンがかけられ、ラドンが街を破壊する映画の中のシーンが上映されているという憎い演出。ミニチュアセットの隣には「岩田屋再現ミニチュアセット製作メイキング映像」も流れ、その高度な製作過程が見れる。井上さんが亡くなった後、遺品や資料の保存管理を行なってきた遺族代表の東郷登代美さん(井上さんの姪)の提案でこのミニチュア再現プロジェクトが始まり、製作には3年もの月日がかかったそうだ。

東郷さんは小さな頃から叔父の井上さんに親しんできて、奇しくも亡くなった日に「作品を守る」と約束し、約5000点もの資料を保存管理してきた。このような体系的な展覧会が開催できるのも、東郷さんが資料を自宅にきちんと管理されてきたことが大きいと言える。東郷さんにとって井上さんの遺した資料を東京都現代美術館のような公共の美術館で多くの人々に見せられるのは長年の夢だったそうだ。

トークイベントで東郷さんはこう語った。井上さんの出身地の福岡県古賀市で2014年に最初の展覧会を開催して以来、(以降海老名、東京、佐世保と展覧会開催)生誕100年記念の展覧会を東京で開催することを目指した。当初古賀で抱いた「岩田屋のミニチュアを見てもらえればいいな」という妄想が目的となり、この展覧会開催の実現へと繋がった。「展示に関わってくださった皆さんのご尽力と努力のおかげで、展示が実現できましたことを本当に嬉しく思います」と晴々しい笑顔で挨拶した。

「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」 会期:2022年3月19日〜6月19日(日) 休館日:月曜日
                    開館時間:10:00〜18:00  会場:東京都現代美術館


                                            〜その2へ続く〜