「宇宙を織りなすもの(上):ブライアン・グリーン 」~時間と空間の正体
内容
ニュートン以来の謎、時間と空間。その探究はいま、驚くべき段階に到達している。物理学によれば、私たちの時間と空間に関する常識的な感覚は、どうしようもないほど間違っている。たとえば、「時間は流れるもの」「歴史はひとつのはず」「空っぽの空間ではなにも起こらない」という常識的な考え方は、どれも間違っているというのだ。物理学は、いったいどのように私たちの「常識」をくつがえすのか?この世界の本当の姿は、私たちの「常識」から、どれほどかけ離れているのだろうか?『エレガントな宇宙』の著者ブライアン・グリーンが、現代物理学のもたらす世界像を鮮やかに描き出す。全米ベストセラー「The Fabric of the Cosmos」待望の翻訳。2009年刊行。
著者について
ブライアン・グリーン
物理学者・超弦理論研究者。コロンビア大学物理・数学教授。研究の第一線で活躍する一方、超弦理論をはじめとする最先端の物理学を、ごく普通の言葉で語ることのできる数少ない物理学者の一人である。
超弦理論を解説した前著『エレガントな宇宙』は、各国で翻訳され、全世界で累計100万部を超えるベストセラーとなった。
翻訳者について
青木薫
1956年、山形県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院修了。理学博士。翻訳家。訳書にサイモン・シン『フェルマーの定理』『暗号解読(上)(下)』『宇宙創成(上)(下)』『(以上、新潮社)、W・ハイゼンベルク他『物理学に生きて』(筑摩書房)、J・D・ワトソン他『DNA(上)(下)』(講談社)、R・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』(日経BP社)、バラバシ『新ネットワーク思考』(NHK出版)、『宇宙が始まる前には何があったのか?』(文藝春秋)など。
理数系書籍のレビュー記事は本書で240冊目。
時間と空間に対する認識の変遷を物理学史に沿いながら深く考察した本。これまで何冊も科学教養書を読んだことのある方にもお勧めできる本である。
著者のブライアン・グリーン博士にとって本書は一般向けに書いた本の2冊目だ。前著「エレガントな宇宙」では相対性理論、量子理論のあらましを述べた後、超弦理論を詳しく解説し、それが宇宙のはじまりの謎を解く鍵になるという見解を紹介している。本書では話を大幅に膨らませて物理学の発展の歴史をニュートンの時代から現代に至るまで詳細に説明しながら、それぞれの時代で物理学者たちが時間と空間をどのようにとらえていたかが解説される。NHKの「神の数式」の前半は素粒子物理学の観点からこの世界を構成している力の素粒子と物質の基本粒子の探求の歴史を紹介していた。つまり物質と力がテーマだった。時間と空間も物理学で忘れてはならいない重要な研究テーマである。
前著と同様、数式はまったく使われずに前提知識のない読者でも読みとおせる本である。とはいえ僕のブログを読まれるような方は、これまでにも相対性理論や量子力学の本はお読みになっていることだろう。「また、同じようなことを読まされるのか。うんざりさせられるかもしれない。」とお思いになる方もいらっしゃることだろう。それは僕にしても同じことだった。
ところが読み始めてみると、この本はとても面白いのだ。これだけ分厚い本なので一般向け書籍でありながら、他書では説明が及ばない詳しいところまで、深い考察を盛り込ませながら本質を掘り下げ、読者に問いかけながら進行するからだ。この上巻で僕の印象に残った箇所は次のような事柄だ。
ニュートンの絶対空間、絶対時間について
宇宙のどこにいても私たちは同じ空間と時間を共有している。これがニュートンが力学の理論を構築する上で前提にした絶対空間と絶対時間であることは高校物理で習うことだし、空間や時間に対する私たちの日常感覚とも一致する。
けれどもこれは当たり前のこととして無条件に受け入れてよいことだろうか?
たとえば地球が絶対空間に対して動いていることは、どのようにして確認すればよいのだろうか?ニュートンの時代、太陽が銀河系の中心のまわりを回っていたことはまだ知られていなかったが、太陽を絶対空間の基準点として採用できないことはニュートン自身も気付いていた。
それでは天空の恒星を基準できるかというとこれも無理であることがわかる。地球の公転によって観測されはずの「恒星の年周視差」を検出できるほど当時の観測技術は発達していなかった。
2つの物体の「相対速度」を考えればこの問題の本質を捉えることができるようになるのだろうか?それとも「加速度」を考えることがより本質的なことなのだろうか?ニュートンが「絶対空間」や「絶対時間」を提示するまでには、かなり込み入った思考錯誤が必要だったのだ。
本書はページ数が多いぶん、通常の科学教養書や教科書では説明されていない自然法則の解明に至るまでの思考プロセスが詳細に紹介されている。
ニュートン力学と異なる立場をとった「マッハの力学」やニュートンと同時代のライプニッツ、そしてアインシュタインによる時間と空間の概念までもが紹介され、4者の間にどのような違いがあったかが比較、検討される。
非局所性について
時間とは何か?空間とは何か?という問題の舞台は相対性理論と量子力学の世界に移る。アインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論によってニュートンの時間と空間の概念が大変革を遂げ「伸び縮みする時空」が時間と空間の本質であることが認識されるようになったわけである。このあたりのことは他の本で何度も読んで知っていたことだ。それは量子力学にしても同じこと。どんなに不思議なこと、奇妙なことであっても、何度も同じような話を読まされる新鮮な驚きはなくなり、読書が退屈になってくるものだ。
それでも我慢して読んでみたところ、本書の説明はとてもワクワクさせられるものであることにすぐ気がついた。たとえば特殊相対性理論によって1つの出来事が同時であるということを互いい離れて相対運動をする2人の観測者が確認することはできないという「同時性の崩壊」がわかるのだが、その結果お互いの観測者にとっての過去と現在、未来はどのような関係になっているのかということが本書では図を使って解説されている。「現在」とはいったい何なのだろうか?そして最終的に過去と現在、未来の区別は幻想であることが導かれる。本書の考察は通常の科学教養書だけでなく、数式入りの教科書で相対性理論を学んだことのある読者にとっても十分読み応えのある内容になっている。
量子力学の解説をしている部分についても同様だ。「非局所性」というのは空間的に離れた2つの粒子の状態に相関があるという事実で、量子力学が示す不思議のうち特に際立った「量子エンタングルメント」という性質だ。この性質を使って量子テレポーテーションが実現した。アインシュタインは「非局所性」を受け入れられずに「EPRパラドックス」の論文で反証を試みたことは有名である。それまで連続だと思っていいた空間にそのような性質が備わっていることで、空間に対する認識をふたたび改めなければならない。また「同時に」ということは何事も光速を超えてはならないという因果律を破ってしまうのだろうか?時間についても認識を改めなければならないのだろうか?
本書では量子テレポーテーションのように近年の実験で確認された現象を紹介するだけでなく、量子の粒子性と波動性、不確定性原理、二重スリット問題、測定問題(観測問題)などを時間と空間の概念を意識させながら解説をしている。アインシュタインは未来は決まっていると主張し、量子力学は未来は決まっていないと主張する。この決定論と非決定論の対立は時間と空間の概念とどのようなつながりがあるのだろうか?
個別の内容をすでに知っていたとしても、本書はその意味を問い続けることによって読者を深い思索の世界に導いてくれるのだ。
古典力学で考える時間の矢とエントロピー
そもそも時間とは過去から未来に向かって流れるものなのだろうか?空間の方向に対称性があるのに時間の方向が対称的でないのはなぜだろうか?
ニュートン力学、電磁気学から一般相対性理論までの古典物理学の物理法則の数式を見るかぎりこの世界は時間についても対称的であると結論づけられる。
熱力学第2法則、すなわちエントロピー増大則がこの「時間の矢」の唯一の根拠となる物理法則であることを僕は「時:渡辺慧」という記事で紹介したが、本書を読むとそれがそう簡単に受け入れてはいけないことがわかる。ショックだった。
エントロピーは「乱雑さの度合い」を示す尺度であり、この世界は秩序ある状態から秩序のない乱雑な状態に変化するように変化するのが経験的に正しいことのように思える。しかしこのエントロピー増大則を統計力学を使って導くにせよ、その根底にあるのは時間について対称的なニュートン力学だ。理論的には過去と未来の対称性について完璧な釣り合いがとれているのに、なぜその釣り合いは崩れているように私たちの目にはうつるのだろう?
乱雑な状態が秩序ある状態に変化する確率はほとんどゼロに等しい。しかしそれはゼロではない。統計的なゆらぎはわずかながら存在する。たとえ一瞬にせよエントロピー増大則は破れることがあるのではないだろうか?
また、ニュートン力学をベースとする古典統計力学に従えば現在から未来の方向でエントロピー増大則が成り立つならば、時間について対称的な方程式を元に計算するのだから現在から過去への時間経過についてもエントロピーは増大すると予想される。ところが現実にはそうなっていないのはなぜだろうか?
このような疑問を出発点として、同じテーマを扱う他の本では知ることができないほど深い考察が時間とエントロピーをテーマに展開されている。
時間と量子
古典物理学では解決できない時間の矢の謎の問題は量子力学に持ち越される。不確定性原理により未来は決まっていないというのが量子力学の立場であるが、その基礎方程式であるシュレーディンガー方程式は時間について対称性を持っている。波動関数がどのように変化するかは決定論的に決まっているのだ。確率論的にしか求められない未来というのはそこからどのように生じるのだろうか?
量子力学の基礎方程式が時間について対称であるのに、なぜ現在から過去に遡るときに不確定性が生じないのだろうか?つまりなぜ過去はひと通りにきまっているのだろうか?
また波動関数の収縮という観点で考える限り、それは不可逆過程なので未来は非決定論的である。そしてエヴェレットの多世界解釈を採用すれば未来は無数に分岐するが、それらの多世界を総体としてとらえれば決定論的である。
ファインマンの経路積分の考え方に従えば、過去から未来への可能な無数の世界が未来への道筋を1つに決定する。未来を変更することによって過去を変えることができるのだろうか?
さまざまな考察や実験結果を交えて、過去から未来へ流れる「時間」の本質を捉えることがいかに難しいことなのかを思い知らされるのだ。
そして最後に量子力学から帰結されるいくつかの仮説に基いてエントロピー増大則との関係性が紹介される。
対称性と時空
古典物理学から考えても、量子力学から考えてもエントロピーの考え方を数学的に考えると、未来にあてはめれば直観や経験の正しさを裏付けてくれるが、過去にあてはめれば、直観や経験と真っ向から矛盾してしまう。
この矛盾を解決するには過去にいくにしたがってエントロピーが少なくなる傾向にあることが示せればよいわけなのだが、ひとつだけそれを裏付ける理由があるのだ。それは宇宙のはじまりが極めてエントロピーが低い状態にあったことである。
生物は食物としてエネルギーを摂取すること生命を維持している。それは同時にエントロピーの低い(秩序が大きい)食物というものを取り入れていることに対応する。このようにエントロピーの増大とエネルギーの流れの向きは一致している。それでは食物の低いエントロピーはどこからもたらされるのだろうか?それは太陽からなのだ。太陽のエントロピーのほうがもっと低いのである。そしてその太陽の低いエントロピーはという問いが生じるわけだが、それは太陽が誕生する前の星間ガスに起源をもっている。このような低いエントロピーの連鎖を遡ることによって、最終的には「宇宙のはじまり」のエントロピーにまで辿り着くのである。宇宙の始まった瞬間のエントロピーは極めて低いのだ。
時間の矢をエントロピー増大則で裏付けるためには、初期宇宙のことまで考える必要だと現代物理学は要請しているのである。
上巻の最後の部は「対称性と時空」というテーマで最先端の宇宙論が展開される。膨張する宇宙やビッグバン、インフレーション宇宙論、宇宙は均一なのかなどのテーマを、素粒子物理学という小さい世界へ向かっていた現代物理学がなぜ取り扱わなければならなくなったかがよく理解できるようになる。
以上が上巻に書かれていることのあらましだ。
「宇宙を織りなすもの(上):ブライアン・グリーン 」
「宇宙を織りなすもの(下):ブライアン・グリーン 」
2016年10月に文庫化された。単行本の訳に対して手が加えられている。
「宇宙を織りなすもの 上: 時間と空間の正体 (草思社文庫)」
「宇宙を織りなすもの 下: 時間と空間の正体 (草思社文庫)」
翻訳のもとになった英語版2004年に出版された。Kindle版もでている。
(Kindle版)
関連記事:
エレガントな宇宙:ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/404c24b68f57609900bc3d7a030333d5
宇宙を織りなすもの(下):ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e7d60b8a36b423ef5d42df59458804b7
隠れていた宇宙(上):ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/4a1abbca21c0188f43d7d72af39287f2
隠れていた宇宙(下):ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/6e8b34dc9e4a3d21e82de47960f2a07d
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「宇宙を織りなすもの(上):ブライアン・グリーン 」~時間と空間の正体
はじめに
第1部:空間とは何か
第1章:宇宙の実像を求める旅路
- 空間と時間:古典物理学による捉え方
- 空間と時間:相対性理論による捉え方
- 空間と時間:量子力学による捉え方
- 空間と時間:宇宙論による捉え方
- 空間と時間:統一理論による捉え方
- 物理学と人生の大問題「時間の矢」
- 宇宙を知ることと、人生の意味
第2章:バケツを使って宇宙を探る
- アインシュタイン以前にも「相対論」はあった
- ニュートンのバケツ実験と絶対空間
- 「空間とは何か」という問題の歴史
- マッハによるニュートンへの異議申し立て
- 物質があるから加速度がある:マッハの見解
- マッハ vs ニュートンの意外な決着
第3章:相対と絶対
- 「からっぽの空間」は本当にからっぽなのか
- アインシュタインが出した決定的な答え
- 特殊相対性理論は本当は難しくない
- バケツ問題にはどう答えたのか
- 「時空の断面」という考え方
- 時空の断面の角度
- バケツ問題を時空で考えるとどうなるか
- 重力はなぜ伝わるかという古い問題と、バケツ
- 重力と加速度の等価性
- 重力と加速度と時空の湾曲
- 一般相対性理論によるバケツ問題の答え
- 現在における時空の概念
第4章:非局所性と宇宙
- 量子力学によればこの世界は……
- 量子力学の「非局所性」とはどういうことか
- 二重スリット実験の奇妙な結果
- 物理法則は根本から確率に支配されている
- アインシュタインと量子力学
- ハイゼンベルクの不確定性原理とは何か
- アインシュタインが攻撃した量子力学の「矛盾」
- 量子力学支持者はどう対応したか
- スピンを使ってアインシュタインを論破する
- 結果はあらかじめ決まっているのか
- 量子力学が本当に働いているかテストする
- ここまでのまとめと、実際の実験結果
- 非局所性は特殊相対性理論と矛盾しない
- しかしまだ問題は未解決だと考える人もいる
- 非局所性をどう受け止めればいいのか
第2部:時間とは何か
第5章:時間は流れない?
- 日常経験の中で「時間」が示す性質
- 特殊相対性理論はすべての時刻を平等に扱う
- 「過去、現在、未来」という区別は幻想である
- 科学は「現在」の特別さを捉えられない?
第6章:時間の矢という問題
- 時間の矢の何が不思議なのか
- 「ものごとは逆向きにも生じうる」と物理学は主張する
- 時間反転対称性とはどういうことか
- 「割れた卵も元通りになる」と物理学は主張する
- 原理的には可能、実際上は困難、ということ?
- エントロピーとは何か
- エントロピーと熱力学第二法則、そして時間の矢
- エントロピーとは時間の矢の問題を解決しない
- それとも私たちの記憶のほうが間違っている?
- 今日の宇宙のエントロピーは低すぎる
- 統計的ゆらぎでは説明できないことが多すぎる
- 低エントロピーの起源はどこにあるか
- エントロピーの増大傾向を最大限に利用する力、重力
- 秩序の起源はビッグバンにある
- ではなぜ宇宙は低エントロピーではじまったのか
第7章:時間と量子
- 量子力学は過去をどう考えるか
- 同時に複数の歴史が生じ、未来に影響する?
- 可能な選択肢のすべてが歴史に寄与する
- 歴史から選択肢を取り去るとどうなるか
- 過去に影響を与えることは可能?
- 過去の行為をなかったことにできる?
- 未来が過去を決定する?
- 量子力学が結果的に日常世界と矛盾しない理由
- 量子力学の大問題「測定問題」と時間の矢
- 測定問題にたいするさまざまな解釈
- 「デコヒーレンス」で測定問題は解決する?
- 量子力学と時間の矢
第3部:時空と宇宙論
第8章:対称性と時空
- 対称性から物理法則は生まれる
- 時間の進み方は宇宙のどこでも同じ
- 「宇宙の膨張」とは何が膨張したのか
- 宇宙の時間が均一なのは膨張が対称的だから
- 膨張宇宙を理解するときのよくある間違い
- 私たちの「対称な膨張宇宙」はどんな形か
- 「対称な膨張宇宙」の時空をイメージしてみる
- 宇宙空間が無限の広がりをもっていたとすると……
- 宇宙論は対称性によって進展した
原注
「ザ・シンプソンズ」について
内容
ニュートン以来の謎、時間と空間。その探究はいま、驚くべき段階に到達している。物理学によれば、私たちの時間と空間に関する常識的な感覚は、どうしようもないほど間違っている。たとえば、「時間は流れるもの」「歴史はひとつのはず」「空っぽの空間ではなにも起こらない」という常識的な考え方は、どれも間違っているというのだ。物理学は、いったいどのように私たちの「常識」をくつがえすのか?この世界の本当の姿は、私たちの「常識」から、どれほどかけ離れているのだろうか?『エレガントな宇宙』の著者ブライアン・グリーンが、現代物理学のもたらす世界像を鮮やかに描き出す。全米ベストセラー「The Fabric of the Cosmos」待望の翻訳。2009年刊行。
著者について
ブライアン・グリーン
物理学者・超弦理論研究者。コロンビア大学物理・数学教授。研究の第一線で活躍する一方、超弦理論をはじめとする最先端の物理学を、ごく普通の言葉で語ることのできる数少ない物理学者の一人である。
超弦理論を解説した前著『エレガントな宇宙』は、各国で翻訳され、全世界で累計100万部を超えるベストセラーとなった。
翻訳者について
青木薫
1956年、山形県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院修了。理学博士。翻訳家。訳書にサイモン・シン『フェルマーの定理』『暗号解読(上)(下)』『宇宙創成(上)(下)』『(以上、新潮社)、W・ハイゼンベルク他『物理学に生きて』(筑摩書房)、J・D・ワトソン他『DNA(上)(下)』(講談社)、R・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』(日経BP社)、バラバシ『新ネットワーク思考』(NHK出版)、『宇宙が始まる前には何があったのか?』(文藝春秋)など。
理数系書籍のレビュー記事は本書で240冊目。
時間と空間に対する認識の変遷を物理学史に沿いながら深く考察した本。これまで何冊も科学教養書を読んだことのある方にもお勧めできる本である。
著者のブライアン・グリーン博士にとって本書は一般向けに書いた本の2冊目だ。前著「エレガントな宇宙」では相対性理論、量子理論のあらましを述べた後、超弦理論を詳しく解説し、それが宇宙のはじまりの謎を解く鍵になるという見解を紹介している。本書では話を大幅に膨らませて物理学の発展の歴史をニュートンの時代から現代に至るまで詳細に説明しながら、それぞれの時代で物理学者たちが時間と空間をどのようにとらえていたかが解説される。NHKの「神の数式」の前半は素粒子物理学の観点からこの世界を構成している力の素粒子と物質の基本粒子の探求の歴史を紹介していた。つまり物質と力がテーマだった。時間と空間も物理学で忘れてはならいない重要な研究テーマである。
前著と同様、数式はまったく使われずに前提知識のない読者でも読みとおせる本である。とはいえ僕のブログを読まれるような方は、これまでにも相対性理論や量子力学の本はお読みになっていることだろう。「また、同じようなことを読まされるのか。うんざりさせられるかもしれない。」とお思いになる方もいらっしゃることだろう。それは僕にしても同じことだった。
ところが読み始めてみると、この本はとても面白いのだ。これだけ分厚い本なので一般向け書籍でありながら、他書では説明が及ばない詳しいところまで、深い考察を盛り込ませながら本質を掘り下げ、読者に問いかけながら進行するからだ。この上巻で僕の印象に残った箇所は次のような事柄だ。
ニュートンの絶対空間、絶対時間について
宇宙のどこにいても私たちは同じ空間と時間を共有している。これがニュートンが力学の理論を構築する上で前提にした絶対空間と絶対時間であることは高校物理で習うことだし、空間や時間に対する私たちの日常感覚とも一致する。
けれどもこれは当たり前のこととして無条件に受け入れてよいことだろうか?
たとえば地球が絶対空間に対して動いていることは、どのようにして確認すればよいのだろうか?ニュートンの時代、太陽が銀河系の中心のまわりを回っていたことはまだ知られていなかったが、太陽を絶対空間の基準点として採用できないことはニュートン自身も気付いていた。
それでは天空の恒星を基準できるかというとこれも無理であることがわかる。地球の公転によって観測されはずの「恒星の年周視差」を検出できるほど当時の観測技術は発達していなかった。
2つの物体の「相対速度」を考えればこの問題の本質を捉えることができるようになるのだろうか?それとも「加速度」を考えることがより本質的なことなのだろうか?ニュートンが「絶対空間」や「絶対時間」を提示するまでには、かなり込み入った思考錯誤が必要だったのだ。
本書はページ数が多いぶん、通常の科学教養書や教科書では説明されていない自然法則の解明に至るまでの思考プロセスが詳細に紹介されている。
ニュートン力学と異なる立場をとった「マッハの力学」やニュートンと同時代のライプニッツ、そしてアインシュタインによる時間と空間の概念までもが紹介され、4者の間にどのような違いがあったかが比較、検討される。
非局所性について
時間とは何か?空間とは何か?という問題の舞台は相対性理論と量子力学の世界に移る。アインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論によってニュートンの時間と空間の概念が大変革を遂げ「伸び縮みする時空」が時間と空間の本質であることが認識されるようになったわけである。このあたりのことは他の本で何度も読んで知っていたことだ。それは量子力学にしても同じこと。どんなに不思議なこと、奇妙なことであっても、何度も同じような話を読まされる新鮮な驚きはなくなり、読書が退屈になってくるものだ。
それでも我慢して読んでみたところ、本書の説明はとてもワクワクさせられるものであることにすぐ気がついた。たとえば特殊相対性理論によって1つの出来事が同時であるということを互いい離れて相対運動をする2人の観測者が確認することはできないという「同時性の崩壊」がわかるのだが、その結果お互いの観測者にとっての過去と現在、未来はどのような関係になっているのかということが本書では図を使って解説されている。「現在」とはいったい何なのだろうか?そして最終的に過去と現在、未来の区別は幻想であることが導かれる。本書の考察は通常の科学教養書だけでなく、数式入りの教科書で相対性理論を学んだことのある読者にとっても十分読み応えのある内容になっている。
量子力学の解説をしている部分についても同様だ。「非局所性」というのは空間的に離れた2つの粒子の状態に相関があるという事実で、量子力学が示す不思議のうち特に際立った「量子エンタングルメント」という性質だ。この性質を使って量子テレポーテーションが実現した。アインシュタインは「非局所性」を受け入れられずに「EPRパラドックス」の論文で反証を試みたことは有名である。それまで連続だと思っていいた空間にそのような性質が備わっていることで、空間に対する認識をふたたび改めなければならない。また「同時に」ということは何事も光速を超えてはならないという因果律を破ってしまうのだろうか?時間についても認識を改めなければならないのだろうか?
本書では量子テレポーテーションのように近年の実験で確認された現象を紹介するだけでなく、量子の粒子性と波動性、不確定性原理、二重スリット問題、測定問題(観測問題)などを時間と空間の概念を意識させながら解説をしている。アインシュタインは未来は決まっていると主張し、量子力学は未来は決まっていないと主張する。この決定論と非決定論の対立は時間と空間の概念とどのようなつながりがあるのだろうか?
個別の内容をすでに知っていたとしても、本書はその意味を問い続けることによって読者を深い思索の世界に導いてくれるのだ。
古典力学で考える時間の矢とエントロピー
そもそも時間とは過去から未来に向かって流れるものなのだろうか?空間の方向に対称性があるのに時間の方向が対称的でないのはなぜだろうか?
ニュートン力学、電磁気学から一般相対性理論までの古典物理学の物理法則の数式を見るかぎりこの世界は時間についても対称的であると結論づけられる。
熱力学第2法則、すなわちエントロピー増大則がこの「時間の矢」の唯一の根拠となる物理法則であることを僕は「時:渡辺慧」という記事で紹介したが、本書を読むとそれがそう簡単に受け入れてはいけないことがわかる。ショックだった。
エントロピーは「乱雑さの度合い」を示す尺度であり、この世界は秩序ある状態から秩序のない乱雑な状態に変化するように変化するのが経験的に正しいことのように思える。しかしこのエントロピー増大則を統計力学を使って導くにせよ、その根底にあるのは時間について対称的なニュートン力学だ。理論的には過去と未来の対称性について完璧な釣り合いがとれているのに、なぜその釣り合いは崩れているように私たちの目にはうつるのだろう?
乱雑な状態が秩序ある状態に変化する確率はほとんどゼロに等しい。しかしそれはゼロではない。統計的なゆらぎはわずかながら存在する。たとえ一瞬にせよエントロピー増大則は破れることがあるのではないだろうか?
また、ニュートン力学をベースとする古典統計力学に従えば現在から未来の方向でエントロピー増大則が成り立つならば、時間について対称的な方程式を元に計算するのだから現在から過去への時間経過についてもエントロピーは増大すると予想される。ところが現実にはそうなっていないのはなぜだろうか?
このような疑問を出発点として、同じテーマを扱う他の本では知ることができないほど深い考察が時間とエントロピーをテーマに展開されている。
時間と量子
古典物理学では解決できない時間の矢の謎の問題は量子力学に持ち越される。不確定性原理により未来は決まっていないというのが量子力学の立場であるが、その基礎方程式であるシュレーディンガー方程式は時間について対称性を持っている。波動関数がどのように変化するかは決定論的に決まっているのだ。確率論的にしか求められない未来というのはそこからどのように生じるのだろうか?
量子力学の基礎方程式が時間について対称であるのに、なぜ現在から過去に遡るときに不確定性が生じないのだろうか?つまりなぜ過去はひと通りにきまっているのだろうか?
また波動関数の収縮という観点で考える限り、それは不可逆過程なので未来は非決定論的である。そしてエヴェレットの多世界解釈を採用すれば未来は無数に分岐するが、それらの多世界を総体としてとらえれば決定論的である。
ファインマンの経路積分の考え方に従えば、過去から未来への可能な無数の世界が未来への道筋を1つに決定する。未来を変更することによって過去を変えることができるのだろうか?
さまざまな考察や実験結果を交えて、過去から未来へ流れる「時間」の本質を捉えることがいかに難しいことなのかを思い知らされるのだ。
そして最後に量子力学から帰結されるいくつかの仮説に基いてエントロピー増大則との関係性が紹介される。
対称性と時空
古典物理学から考えても、量子力学から考えてもエントロピーの考え方を数学的に考えると、未来にあてはめれば直観や経験の正しさを裏付けてくれるが、過去にあてはめれば、直観や経験と真っ向から矛盾してしまう。
この矛盾を解決するには過去にいくにしたがってエントロピーが少なくなる傾向にあることが示せればよいわけなのだが、ひとつだけそれを裏付ける理由があるのだ。それは宇宙のはじまりが極めてエントロピーが低い状態にあったことである。
生物は食物としてエネルギーを摂取すること生命を維持している。それは同時にエントロピーの低い(秩序が大きい)食物というものを取り入れていることに対応する。このようにエントロピーの増大とエネルギーの流れの向きは一致している。それでは食物の低いエントロピーはどこからもたらされるのだろうか?それは太陽からなのだ。太陽のエントロピーのほうがもっと低いのである。そしてその太陽の低いエントロピーはという問いが生じるわけだが、それは太陽が誕生する前の星間ガスに起源をもっている。このような低いエントロピーの連鎖を遡ることによって、最終的には「宇宙のはじまり」のエントロピーにまで辿り着くのである。宇宙の始まった瞬間のエントロピーは極めて低いのだ。
時間の矢をエントロピー増大則で裏付けるためには、初期宇宙のことまで考える必要だと現代物理学は要請しているのである。
上巻の最後の部は「対称性と時空」というテーマで最先端の宇宙論が展開される。膨張する宇宙やビッグバン、インフレーション宇宙論、宇宙は均一なのかなどのテーマを、素粒子物理学という小さい世界へ向かっていた現代物理学がなぜ取り扱わなければならなくなったかがよく理解できるようになる。
以上が上巻に書かれていることのあらましだ。
「宇宙を織りなすもの(上):ブライアン・グリーン 」
「宇宙を織りなすもの(下):ブライアン・グリーン 」
2016年10月に文庫化された。単行本の訳に対して手が加えられている。
「宇宙を織りなすもの 上: 時間と空間の正体 (草思社文庫)」
「宇宙を織りなすもの 下: 時間と空間の正体 (草思社文庫)」
翻訳のもとになった英語版2004年に出版された。Kindle版もでている。
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エレガントな宇宙:ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/404c24b68f57609900bc3d7a030333d5
宇宙を織りなすもの(下):ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e7d60b8a36b423ef5d42df59458804b7
隠れていた宇宙(上):ブライアン・グリーン
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/4a1abbca21c0188f43d7d72af39287f2
隠れていた宇宙(下):ブライアン・グリーン
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「宇宙を織りなすもの(上):ブライアン・グリーン 」~時間と空間の正体
はじめに
第1部:空間とは何か
第1章:宇宙の実像を求める旅路
- 空間と時間:古典物理学による捉え方
- 空間と時間:相対性理論による捉え方
- 空間と時間:量子力学による捉え方
- 空間と時間:宇宙論による捉え方
- 空間と時間:統一理論による捉え方
- 物理学と人生の大問題「時間の矢」
- 宇宙を知ることと、人生の意味
第2章:バケツを使って宇宙を探る
- アインシュタイン以前にも「相対論」はあった
- ニュートンのバケツ実験と絶対空間
- 「空間とは何か」という問題の歴史
- マッハによるニュートンへの異議申し立て
- 物質があるから加速度がある:マッハの見解
- マッハ vs ニュートンの意外な決着
第3章:相対と絶対
- 「からっぽの空間」は本当にからっぽなのか
- アインシュタインが出した決定的な答え
- 特殊相対性理論は本当は難しくない
- バケツ問題にはどう答えたのか
- 「時空の断面」という考え方
- 時空の断面の角度
- バケツ問題を時空で考えるとどうなるか
- 重力はなぜ伝わるかという古い問題と、バケツ
- 重力と加速度の等価性
- 重力と加速度と時空の湾曲
- 一般相対性理論によるバケツ問題の答え
- 現在における時空の概念
第4章:非局所性と宇宙
- 量子力学によればこの世界は……
- 量子力学の「非局所性」とはどういうことか
- 二重スリット実験の奇妙な結果
- 物理法則は根本から確率に支配されている
- アインシュタインと量子力学
- ハイゼンベルクの不確定性原理とは何か
- アインシュタインが攻撃した量子力学の「矛盾」
- 量子力学支持者はどう対応したか
- スピンを使ってアインシュタインを論破する
- 結果はあらかじめ決まっているのか
- 量子力学が本当に働いているかテストする
- ここまでのまとめと、実際の実験結果
- 非局所性は特殊相対性理論と矛盾しない
- しかしまだ問題は未解決だと考える人もいる
- 非局所性をどう受け止めればいいのか
第2部:時間とは何か
第5章:時間は流れない?
- 日常経験の中で「時間」が示す性質
- 特殊相対性理論はすべての時刻を平等に扱う
- 「過去、現在、未来」という区別は幻想である
- 科学は「現在」の特別さを捉えられない?
第6章:時間の矢という問題
- 時間の矢の何が不思議なのか
- 「ものごとは逆向きにも生じうる」と物理学は主張する
- 時間反転対称性とはどういうことか
- 「割れた卵も元通りになる」と物理学は主張する
- 原理的には可能、実際上は困難、ということ?
- エントロピーとは何か
- エントロピーと熱力学第二法則、そして時間の矢
- エントロピーとは時間の矢の問題を解決しない
- それとも私たちの記憶のほうが間違っている?
- 今日の宇宙のエントロピーは低すぎる
- 統計的ゆらぎでは説明できないことが多すぎる
- 低エントロピーの起源はどこにあるか
- エントロピーの増大傾向を最大限に利用する力、重力
- 秩序の起源はビッグバンにある
- ではなぜ宇宙は低エントロピーではじまったのか
第7章:時間と量子
- 量子力学は過去をどう考えるか
- 同時に複数の歴史が生じ、未来に影響する?
- 可能な選択肢のすべてが歴史に寄与する
- 歴史から選択肢を取り去るとどうなるか
- 過去に影響を与えることは可能?
- 過去の行為をなかったことにできる?
- 未来が過去を決定する?
- 量子力学が結果的に日常世界と矛盾しない理由
- 量子力学の大問題「測定問題」と時間の矢
- 測定問題にたいするさまざまな解釈
- 「デコヒーレンス」で測定問題は解決する?
- 量子力学と時間の矢
第3部:時空と宇宙論
第8章:対称性と時空
- 対称性から物理法則は生まれる
- 時間の進み方は宇宙のどこでも同じ
- 「宇宙の膨張」とは何が膨張したのか
- 宇宙の時間が均一なのは膨張が対称的だから
- 膨張宇宙を理解するときのよくある間違い
- 私たちの「対称な膨張宇宙」はどんな形か
- 「対称な膨張宇宙」の時空をイメージしてみる
- 宇宙空間が無限の広がりをもっていたとすると……
- 宇宙論は対称性によって進展した
原注
「ザ・シンプソンズ」について
文字入力の変換ミスをご指摘いただきありがとうございました!
スケ番や番長という言葉も、今の若者の間では死語になっているのかな?と思いました。
今年もたくさんアドバイスいただき、ありがとうございました。楽しい年末年始をお過ごしください。
「どうして未来は決まっていないのだろうか?」「この世は夢かまぼろしか」
丁度読んでいるところです、有難うございます、とねさんの記事に出会えて良かったです。
今、地震で揺れています、山形でも体感できましたよ。
この本、訳者の青木さんは山形県出身の方なのですね、そう言えば佐藤文隆さんは私と同じ町の生まれだったと思います。
来年も立ち寄らせて頂きます。
「どうして未来は決まっていないのだろうか?」「この世は夢かまぼろしか」は、2008年に投稿した僕にとっては懐かしい記事です。ああ、あの頃はこんなことに疑問を持っていたのだなと思い出せます。
同じような系統の記事では昨年、次のような記事を書いていました。
実在とは何か? (別冊日経サイエンス)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/4ba8aaf71522671511fd21d3ad6f43f2
先ほどの地震は東京では感じませんでしたが緊急速報がスマートフォンに入ったので気がつきました。
佐藤文隆先生と同じ町のご出身ですか!同郷だと本を読むときに親しみ感がでてくると思います。
来年もよろしくお願いします。