とね日記

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「知」の欺瞞:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン

2015年04月29日 16時25分48秒 | 物理学、数学
「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫):アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン

内容紹介:
科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか? 著者らが目指すのは“サイエンス・ウォーズ”ではなく、科学と人文の間の真の対話である。2012年2月刊行、464ページ。

著者について:
アラン・ソーカル
1981年プリンストン大学で物理学の博士号を取得。現在、ニューヨーク大学教授、ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ教授

ジャン・ブリクモン
1977年ルーヴァン大学で物理学の博士号を取得。現在、ルーヴァン大学教授

訳者について:
田崎晴明
学習院大学理学部

大野克嗣
イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校物理学科

堀茂樹
慶応義塾大学総合政策学部


理数系書籍のレビュー記事は本書で274冊目。

厳密にいうと本書は人文科学系なのだが、科学をネタにしたパロディ論文について紹介した本なので理数系人向けの教養書として紹介したい。

大栗博司先生の「「科学の方法」の発見」というブログ記事や「「現在の基準で過去を裁く」ことの是非」というWEBRONZAの記事の中の「「科学者が発見したと称する自然界の法則は社会的構築物にすぎず、そこには社会的/文化的な制限を越えた客観的な意味はない」という社会構成主義者シャピンさんの主張」の文脈からたどりついたというのが本書を読んだ直接のきっかけだ。またそれ以前に、僕のブログの読者の方々からお勧めいただいていたので、本書はかなり前に購入していた。

いわゆる「ソーカル事件」を僕は知らなかったわけだが、この事件のあらましは僕があらためて説明するより、次のようなページで読んでいただきたい。

- ウィキペディアの「ソーカル事件(1994年)
- 「きみはソーカル事件を知っているか?
- 本書の訳者のおひとりである田崎清明先生の「「知」の欺瞞 について」のページ。


本書を紹介していただいた読者の方からは「トンデモ科学をテーマにしたパロディーの本です。」とご説明いただいていたので、さぞかし楽しい本なのだろうと期待していたのだが、期待は見事に裏切られた。この10年で読んだ本の中で僕にとってはいちばん読みにくく、ページをめくるたびにため息をついていたという有様だった。

本書はいわゆる「告発の書」である。

うんざりさせられてしまったのは次のような本書の構成、章立てのせいもあったと思う。

日本語版への序文
翻訳について
- はじめに
- ラカン
- クリステヴァ
- 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
- イリガライ
- ラトゥール
- 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
- ボードリヤール
- ドゥルーズとガタリ
- ヴィリリオ
- ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
- エピローグ
参考文献
付録A:境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて
付録B:パロディーへのいくつかの注記
索引


26ページにおよぶ「はじめに」で著者は「ソーカル事件」の概要、そして著者がこの事件をおこした理由を解説する。本書はいわゆる人文科学系、哲学系の著名な学者の一部の論文が「トンデモ」であることを告発する本なので、著者は反撃の対象にされる可能性が高い。だから前もって「人文科学系の研究や論文のすべてを否定しているわけではない。」とか「その学者の論文すべてを馬鹿にしているわけではない。」など、言い訳ともとれる注意書きを述べておく必要があったのだ。

この段階で読者は実際に書かれた「酷い論文」をまだ読んでいないので、「はじめに」の章は何とも言い訳がましく、大仰に思えてしまうのだ。

ようやく次にラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥールなど著名な学者の論文が紹介される。恥ずかしながら僕はこれらの学者の名前を全く知らなかった。ウィキペディアで調べると、各分野で著名な人物であることがわかる。

そして本書の大半を占めるトンデモ論文を紹介している部分で僕はストレスを溜めてしまったのだ。人文科学系の論文はただでさえ難解で僕にとっては意味不明だ。必要以上に難解な専門用語を多用し、ときには1つの文がまるまる1段落に及ぶこともある読みにくい文章は、明らかに自慢げであり、エリート主義の牙城を誇示する意図しか感じられない。

そのような論文に盛り込まれた科学や数学についての彼らの記述は最悪だった。ほとんど理解していない科学や数学の用語や理論を持ち出し、自らの人文系理論の裏付けとしてしまっている。

延々と続くこのような文章を読むのが僕には苦痛だった。何についてであれ文章を読むときは「理解しようという意識」が常に働いているからだ。せっかく読むのだから少しでも意味をくみ取ろうとする試みはことごとく拒絶されてしまう。あまりもバカバカしいので、理解する必要がない文章なのだと気がついた後でも、でたらめな論文を読み続けるのはつらい。

「裸の王様」や「王様の耳はロバの耳」という言葉が頭に浮かんだ。馬鹿げた論文であっても著名な学者が書いたものは、その分野の知識人たちには批判されることなく受け入れられているという悲しい現実に僕は落胆した。そのような人たちに科学の素晴らしさを伝えることはきっとできないのだろう。どんなにわかりやすい科学教養書が出版されても意味がないのだと思えてしまう。

そして論文の間に挿入された著者による解説がストレスを倍増させてくれる。論文のどこが馬鹿げているか、いちいち引き合いに出して批判を展開する。しつこく繰り返される批判に納得しながらも、争いごとが嫌いな僕としては「トンデモ学者を相手にそこまで容赦なく攻撃しなくてもいいのに。」と読んでいるうちに嫌気がさしてきた。


そして本書の最後に収められた付録Aと付録Bが「ソーカル事件」の発端となったパロディー論文の全文とその解説である。ここは楽しく痛快だ。それまでの章で溜め込んでいたストレスを解放することができた。

本書はなにせ分厚いので、ストレスに負けてしまい、最後までたどり着けない読者もいることだろう。

そのような読者を増やさないために、僕はひとつの読み方を提案したい。次のような順番で読めばストレスはかなり軽減されると思うのだ。

1)まず付録A、付録Bを読む
2)「ラカン」の章から「エピローグ」までを順に読む
3)「はじめに」を読む

美味しいところだけを先につまみ食いするような読み方だが、本書はこの順番で読むのをお勧めする。付録Aと付録Bだけ読むのでも構わないと思う。


最後に本書で紹介される人文科学系の学者たちが、どのようなトンデモ論文を書いていたのか、少しだけピックアップしておこう。これらの論文のほとんどは1980年代、1990年代に書かれたものである。

- ラカン(1901-1981):フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。ウィキペディアの記事

複素数の理論においてはいまもiと記されている象徴√-1は、ただその後の使用においてはいかなる自立も求めないことによって正当化される。....(中略)....
このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また心象としてでもなく、欲求された心象に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現の欠如の機能、つまり(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。


- クリステヴァ(1941-):ブルガリア出身のフランスの文学理論家で、著述家、哲学者。ウィキペディアの記事

詩的言語を現行の論理的(科学的)手法で形式化をすれば、詩的言語を変質させてしまうことになるであろう。詩的論理を出発点として文学記号論が形成されねばならないのである。この詩的論理においては、連続の濃度という概念が0と2のあいだを包含しているのであり、この連続は、0が明示され、1が暗々裡に踏みにじられていることを表わしているのである。
0から2にいたるとりわけて詩的な「連続の濃度」において、(言語、心理、社会の)「禁止」というのは1(神、法、定義)のことであり、この禁止を「免れている」唯一の言語実践は詩の言説であるということは明らかである。アリストテレス論理学が言語に応用するには不十分であることが指摘され、しかもその指摘をしたのが、一方で、神にかわって陰と陽の「対話」のくりひろげられる、異なった言語の地平(表意文字の地平)から現れた中国の哲学者張東孫(草冠+孫)であり、他方で、革命期の社会で形成されたダイナミックな理論化によってフォルマリズムを克服しようとするバフチーンであるというのはなにも偶然ではない。バフチーンにとって、物語の言説のコードは、かれは物語を叙事的言説と同一視しているのであるが、禁止、「独話関係」、1すなわち神に従属しているのである。したがって、叙事行為は宗教的、神学的であり、「リアリズム」の物語はいずれも、0-1の論理に服従しているのであるから、教条的である。


- イリガライ(1930-):ベルギー出身の哲学者、言語学者。専門は、フェミニズム思想、精神分析学。ウィキペディアの記事

固体の力学が流体力学よりも重視されていること、そして、科学が乱流をまったく扱えないという事実は、流体性が女性に対応させられていることに起因する。男性は突出していて硬化することのある性器をもっているのに対し、女性は経血や膣からの分泌液を流す開口部をもっている。男性も、たとえば射精するときなどには、液体を流すことはあるが、男の性のこのような側面は強調されない。重要なのは男性器の硬質性であって、その液体の流れとの関係ではない。これらの理想化は、液体を薄層状の面やその他の変形された固体として記述する数学的な手法に刻印されている。


- ラトゥール(1947-):フランスの社会学者。専門は、科学社会学、科学人類学。ウィキペディアの記事

変形(deformation)のない変換(transformation)によって情報(information)を送りたいというアインシュタインの強迫観念。読み取った情報を正確に重ね合わせたいという彼の情熱。遠くに派遣された観測者が、自分を裏切り、特権を維持してわれわれの知識の拡大に役立たないような報告を送ってくるのではないかと考えたときの彼の狼狽。派遣する観測者たちを規律の下に置き、彼らを時計の目盛を読み取るだけの、装置に従属した部品にしてしまおうという彼の欲望。...


- ボードリヤール(1929-2007):フランスの哲学者、思想家。『消費社会の神話と構造』(La Societe de Consommation 1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家とされる。ウィキペディアの記事

いちばん素晴らしいのは、二つの仮説、リアル・タイムのアポカリプスと純粋戦争の仮説と、現実性にたいする潜在性の勝利の仮説が、おなじ時空で、同時に成立し、しかも互いに追いかけあっていることだ。これは、出来事の空間が多重に屈折するハイパー空間となったことの記号、戦争(湾岸戦争のこと)の空間が決定的に非ユークリッド的空間となったことの記号である。


- ヴィリリオ(1932-):フランスの思想家、都市計画家。速度術(ドロモロジー)を鍵概念として、テクノロジーやメディアの発展によって、人間の知覚や行動がどのように変容していくのかを分析している。しかし、速度と加速度の概念を取り違えた論文が散見される。ウィキペディアの記事

最近の≪巨大都市≫(メキシコシティー、東京、...)への超集中はそれ自体が経済的交換の速さの増大の結果であるので≪加速≫と≪減速≫(物理学者が正および負の速度と呼ぶものである)の概念の重要さについて再考する必要があると思われる。...≪時間的≫間隔(正の符号)と≪空間的≫間隔(負の符号)が農地(土地区分帳)や都市部(土地台帳)の幾何学的分割をとおして世界の地理と歴史を整備してきたのであり、その一方、暦の編成と時間の測定(時計)が人間社会の広範な時政学的統制を司ってきた。


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「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫):アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン



日本語版への序文
翻訳について

- はじめに
- ラカン
- クリステヴァ
- 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
- イリガライ
- ラトゥール
- 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
- ボードリヤール
- ドゥルーズとガタリ
- ヴィリリオ
- ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
- エピローグ

参考文献

付録A:境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて
付録B:パロディーへのいくつかの注記

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28 コメント

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読んでないけど (hirota)
2015-04-29 16:36:41
これは、もはや古典ですね。
(あまりにも有名なので、読んだかと錯覚してた)
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Re: 読んでないけど (とね)
2015-04-30 11:48:56
hirotaさん

たしかに古典ですね。
あとTwitterやFacebookつながりの方から次のような本もお勧めいただきました。

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて
ジェームズ・ロバート・ブラウン (著), 青木 薫 (翻訳)

ドーキンスの「虹の解体」から「神は妄想である」までの著作。
返信する
アナロジーと誤解 (はやぶさ)
2015-04-30 12:19:41
僕の場合人のことはあまり言えませんが、誤解したり歪んだ形で拡大再生産される言説の東西の両横綱は、ゲーデルの不完全性定理と非ユークリッド幾何学、大関がシュレーディンガーの猫でしょう。
いずれも難しい割に飛び付き易いのです。
誤解が再生産されるのは論外ですが、アナロジーが深層を解明する道具になるのならば、むしろ人間の知的活動として奨励されるべきと思います。
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Re: アナロジーと誤解 (とね)
2015-04-30 13:19:03
はやぶささん

力士の階級別に区分されていることに笑ってしまいました。あと次に続くのは相対性理論でしょうかね。

アナロジーを奨励するというご意見にも賛成です。ただし想像力が飛躍し過ぎる相手やアナロジーを真にとってしまい、本来説明しようとしたことへの対応がとれない相手にはどのようなアナロジーを採用するか慎重にならなければなりませんね。科学者自身が「深層を解明する道具」として使うアナロジーは大いに奨励すべきだと思います。
返信する
慎重に (はやぶさ)
2015-04-30 15:05:01
そうです。相手をみながら慎重に語らないといけないですね。ジョークやからかいと一緒です。
そうそう、相対性理論を忘れていました。大鵬、白鵬級の大横綱です。
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Unknown (やす)
2015-05-01 08:35:54
以前勤めていた民間企業の研究所では、学会や部内以外でのプレゼンは中学3年生に説明する事を想定せよ、と上司からうるさく言われました。財布のひもを握っている人に対して、難しいことを如何に分かりやすく説明する事をたたき込まれました。

多少の比喩を入れても良いが嘘はダメという難問ではあります。そして、直接の結果と、将来の結果を必ず示すことも求められました。

簡単な事を難しく説明するのは頭の悪い人のする事だとも、散々言われました。

今思えばコミュニケーションスキルの1つだと思います。文学や哲学の研究者は、簡単なことを難しく話すのが仕事のような気がしています。それではいけないと思うのですが、それしか生きる方法が無いのかも知れません。ならばそのような学問は不要だと感じでいます。

10年ほど前に、アメリカでは文学部不要論があったと聞いたことがあります。
返信する
レビィ=ストロースにブルバキのアンドレ・ヴェイユが協力したのが始まりなのかな? (T_NAKA)
2015-05-01 14:29:15
社会学に数学を持ち込んだのはレビィ=ストロースが始まりじゃないかと思っています。
いわゆる構造主義というのはソシュールからとか言われていますが、実質的にはここら辺から始まっていて、協力者のアンドレ・ヴェイユは数学における構造主義グループ・ブルバキの一員で、彼の妹は著名な哲学者シモーヌ・ヴェイユでした。
さて、その数学的概要をかつて記事にしていました。

『親族の基本構造』での群論_(1)http://teenaka.at.webry.info/200611/article_27.html
『親族の基本構造』での群論_(2)http://teenaka.at.webry.info/200611/article_28.html
『親族の基本構造』での群論_(3)http://teenaka.at.webry.info/200611/article_30.html

ここでは、群論が出てくるのですが、いわゆる4元群なので、そんなに群概念を強調しなくても良いかも知れないという感想を持ちました。婚姻によって女性を交換するという構造があって、それが群の形をしていたというだけだと思いました。というのは、その後のストロースの研究はあまり綺麗な数学的構造を見出していないのですから、『親族の基本構造』というのは非常にうまくいった例なんでしょう。

ところで マルクスの数学手稿 http://dialektik21.web.fc2.com/mmath.pdf というのがあって、微分操作を 「矛盾→止揚」というヘーゲル流弁証法で説明しているものがあります。つまり哲学で数学を説明しようという「知の欺瞞」とは反対方向のストーリーですね。もちろん、この論文が数学として論じられることは殆どありませんが。。
返信する
やすさんへ (とね)
2015-05-01 19:25:08
やすさんへ

> プレゼンは中学3年生に説明する事を想定せよ、と上司からうるさく言われました。

そうですね。専門分野が違う人が集まっている場合、つまり聞き手が文理混合の場合、聞き手に共通している理解レベルは中学3年生くらいだと思います。

> 10年ほど前に、アメリカでは文学部不要論があったと聞いたことがあります。

我が国でも最近そのような話を聞いたことがあるようなような。。。この件は今後どうなるのでしょうねぇ。

国立大学が「文系廃止」を推し進める裏事情→安倍晋三首相の存在?
http://news.livedoor.com/article/detail/9310435/
返信する
Re: レビィ=ストロースにブルバキのアンドレ・ヴェイユが協力したのが始まりなのかな? (とね)
2015-05-01 19:30:13
T_NAKAさん

ご説明とブログ記事の紹介ありがとうございます。

紹介記事を読ませていただいた限り、レビィ=ストロースによる数学の扱いはちゃんとしたものになっていますね。

レビィ=ストロースやソシュールは、大学時代に在籍していたサークルの勉強会でときどき引用されていたので懐かしいです。
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悲しき熱帯 (はやぶさ)
2015-05-02 12:01:46
レビィ=ストロースは完全に、ソーカルの批判の対象外です。
「親族の基本構造」のウ゛ェイユによる群論の適用は、T_NAKAさんの解説が解りやすいですが、他に一般向けの説明としては、マリオ リウ゛ィオ「なぜこの方程式は解けないか?」早川書房が簡明に説明しています。
ところで、文系学部の廃止は、文明国がやることではないと思いますが、いかがでしょうか。
返信する

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