ジュニア版 日本文学名作選(偕成社)
「吾輩は猫である(岩波文庫): 夏目漱石」(Kindle版)
内容:
猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は『坊っちゃん』とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石となった。猫を語り手に苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説の特徴は溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体にある。(解説 高橋英夫・注 斎藤恵子)563ページ。
著者について:
夏目漱石(なつめそうせき): ウィキペディアの記事
慶応3(1867)年、東京に生れる。帝国大学文科大学英文科卒業。東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校の教職を経て、イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校、東京帝国大学で教鞭をとるかたわら、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を執筆。明治40(1907)年より朝日新聞社員となる。以後、同新聞に『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』を発表、明治43(1910)年、胃潰瘍のため吐血してからは病いと闘いながら『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』を書いたが、『明暗』を執筆中の大正5(1916)年死去した。その内容の豊かさ深さにおいて、その後世への影響において、日本屈指の文学者である。
日ごろ理数系書籍に読書傾向が偏っているので、たまには普通の小説も読んでおきたい。特に毎年10月は「読書の秋」を意識して本を選んでいる。ブログには「小説、文学」というカテゴリーも作っておいた。
さて何を読もうかと考えて思いついたのが「吾輩は猫である」だ。超有名であるにもかかわらず読んだことがない。文庫で全編600ページ以上あるから読みきったことがある人は案外少ないのではないかと思う。中学の教科書で取り上げられているとしてもそれは最初の数ページにすぎないわけだし。
この作品は日本文学を代表するひとつなのだから、とにかく最後まで読み通すこと。どんな小説なのか知っておくこと。これが今回の読書の目的だ。
著作権が切れているので「Kindleの無料版」や「青空文庫」(縦書き表示)のものがあり、今では無料で読めるわけだが解説も読んでみたいので僕は岩波文庫のKindle版で読み始めた。(青空文庫をパソコンから縦書きで読みたいときは「えあ草紙・青空図書館 」が便利である。)
「吾輩は猫である(岩波文庫): 夏目漱石」(Kindle版)
「吾輩は猫である」の感想
ところが楽しく読めたのは出だしの数ページだけ。最初のうちだけ期待感があったためだろう。その後、急に読みにくくなった。文体が固いのと漢字が多すぎてすらすらとは読み続けられない。この作品は文語体のなごりを残している文体で書かれているからだ。残り600ページ以上あることを思うと少し憂鬱になった。人気作品なのにこんなに難しい本だったの?
ひとことで「文語体」といっても種類は多く、ウィキペディアの記事によると「漢文訓読体、宣命体(奈良時代)、和文体(平安時代)、和漢混交体、候文(鎌倉時代以降)、普通文(明治30年代以降)」のように分類されるそうだ。
夏目漱石が小説家として活躍したのは最晩年の10年間に過ぎない。この短い期間に作風を大きく変えていっただけでなく、文体も格段に読みやすい口語体へと変化させていったそうで、それが漱石を文豪たらしめた所以である。
しかし小説家としてのデビュー作の「吾輩は猫である」は文体が口語になった初期の頃の作品なので、現代文学になれてしまっている人には読みづらい。
またもうひとつこの作品を読みにくくさせているのが「改行がほとんどない」ことだ。現代の小説でふつうカッコ(「」)で囲む会話文は、そのたびに改行するものだが、この小説にはそれがほとんどない。原稿用紙に隙間なく詰めて書いた小学生の作文のように原稿が書かれたものだから、本のページも文字がぎっしり詰まっている。
「難しい」を「六つかしい」、「イギリス」を「英吉利」、「ギリシャ」を「希臘」のような漢字表記を気にしながら黙々と読み進んだ。
しかし「猫を語り手に苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせた」というわりには、いくら読んでもちっとも面白くならないのだ。確かに言葉は饒舌で(読みにくい文語体を残しつつも)次から次へと沸き出る泉のようである。でも語られる内容はくだらないことばかり。
物語の主人公は猫であるが特に面白い猫というわけでもない。また「主人」として登場する飼い主は旧制中学の英語教師、漱石自身がモデルだ。この先生も漱石同様胃病を患っている。(漱石は胃潰瘍を悪化させて亡くなっている。)
この先生はあまのじゃくな性格で、周囲の人や出来事を弁舌巧みに茶化すのが習慣になっている。それが風刺であり、滑稽というのだろうけれど僕にはまったくつまらないものに思えた。近所のご婦人の容貌について「鼻がでかすぎるので鼻子と呼ぶことにしよう。」というくだりや、来客者の前で自分の奥さんをぞんざいに扱うなど女性蔑視が鼻につく。
猫は猫でそのような主人の言動を茶化すわけだが、これは漱石が自分のことを自虐的に茶化すのと同じことである。この部分は井上ひさしの「吉里吉里人」に作家として登場する古橋を井上ひさしが自分自身に重ねて馬鹿にするスタイルとよく似ていると思った。溢れるような言語の湧出という意味でも共通したものがある。ただし「吉里吉里人」のほうが段違いに面白いし笑わせてくれる。
「吾輩は猫である」にもストーリーは一応あるのだが、取るに足らない出来事ばかりで盛り上がりがない。だらだらとつまらない文章が延々と続くだけ。そして結末は実にあっけないものだ。ビールを誤って舐めてしまった猫が水の入った甕(かめ)に落ちて溺死してしまう。「なんだよこれ。」と思わずにいられなかった。こういうだらだらと続く小説のあらすじを書くのは難しいはずだ。もちろん教訓になりそうな事柄も書かれていない。この本を読書感想文に指定される中学生は可哀想である。
当時はこういう本でも斬新だったから爆発的にヒットしたのだろう。この本の後には現代に至るまで「吾輩は~である」と題したパロディ小説が数多く出版されているそうだ。僕はこのようにこき下ろしてしまったわけだが、アマゾンを見てみるとすこぶる評価が高い。
左から日本語版、英語版「I Am a Cat」、フランス語版「Je suis un chat」である。
あとこの本を読んでいて思ったのは戦争のことだ。この作品が連載されていた時期は日露戦争が行われていた時期に重なる。旅順陥落のニュースのことも書かれていた。戦時中にもかかわらず、この時代の庶民はのんびりと生活していたことが読み取れるのだ。
日清、日露、第一次世界大戦で日本は戦勝国であり、庶民が新聞で目にするのはうれしい戦果報告ばかりである。日本本土が戦場になっていないから戦争をしているという実感があまりない。戦地で命を落とした兵士はいただろうけど、全体的に戦争肯定のムードが支配する世相の中で、反戦や戦争の悲惨さを訴えても無視されるか非国民扱いされるだけだ。日露戦争当時はモールス信号を使った無線電信の時代だったからラジオはない。庶民のニュースソースは新聞と伝聞だけである。(参考:「電気通信物語―通信ネットワークを変えてきたもの:城水元次郎」)
多くの庶民が戦争の悲惨さにやっと気が付いたのは太平洋戦争の最後の年、全国の都市が空襲され、広島と長崎に原爆が落ちてからのことである。
この名作をこき下ろしてしまったので、弁護もしておこう。
今年7月に放送された「歴史秘話ヒストリア 漱石先生と妻と猫?“吾輩は猫である”誕生秘話? 」で紹介された逸話である。
イギリスに留学中の漱石は苦悩に満ちた生活の果てに精神病を患っていたというのはよく知られている。「文学とは何か」という正解のない問題に取りつかれてしまっていたからだ。帰国後も家で躁鬱を繰り返し、ささいなことに対して怒鳴り散らすこともあったという。漱石の奥さんはよくできた人で、そのような状況でもつとめて明るく振る舞い、漱石を支え続けた。
そのような時期にたまたま家に迷い込んできた黒猫がいた。当初、奥さんや使用人はその猫を毛嫌いして追い払っていたのだが、漱石は何を思ったか「家に置いてやろう。」と決める。不思議なことにその猫は漱石にはよくなつき、漱石も猫を愛したため、この頃から漱石の機嫌が良くなっていた。さらに猫をきっかけに夫婦の仲も良くなっていったという。そんな中で執筆を始めたのが「吾輩は猫である」なのだ。
猫が迷い込んでこなかったら夏目漱石という文豪は誕生していなかったのである。
赤い表紙のシリーズ
そういえば小学生のときこの本を読みかけたことがあったのを思い出した。記事トップに載せた赤いカバーの本である。子供のときにこんな難しい本が出版されていたのだろうか?文体を現代の口語体に書き直した本だったのだろうか?アマゾンで検索すると上下巻それぞれ1円で売られていたので購入してみた。発売当時の定価はそれぞれ350円。
「吾輩は猫である」の上下巻は偕成社の「ジュニア版日本文学名作選」のうちの2冊である。Googleから「ジュニア版日本文学名作選」で画像検索すると赤い表紙の本がたくさん見つかる。
届いた本を見てみると次のことがわかった。
- 難しい漢字表記はなくして、ひらがな表記に変更し、すべて当用漢字に直されていること。
- 原文にはない改行を適宜入れることで文章を読みやすくしていること。
- ただし現代の口語体への変更は行われていず、文章は原文に忠実であること。内容の要約や省略も行われていない。
多少読みやすくはなっているものの小中学生にとって難しい小説であることに変わりはない。本の背表紙には「中学生向け」と書かれている。
この赤い表紙の本を見て「こんな本あったよね。ああ懐かしい。」と思うのはおそらく45歳以上の方だろう。偕成社の「ジュニア版日本文学名作選」の全60巻が発売されたのは1964年から1974年にかけてのことで、ちょうど僕の小学生時代に重なっている。
60巻はこのような品揃えだった。
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このうち必読図書に指定されているのが「次郎物語(第1部)」、「坊ちゃん」、「二十四の瞳」、「しろばんば」、「路傍の石」の5冊。シリーズ全体に対しては全国学校図書館協議会・日本図書館協会選定、東京大学教授文学博士吉田精一、作家武者小路実篤推薦と書かれている。
「次郎物語」は第3部まで読んだのを覚えている。おわかりのようにこれら60冊は子供向けに書かれた小説ではない。明治から昭和初期の文豪たちによって書かれた大人向けの小説ばかりである。山本有三の「路傍の石」のような自伝的小説も多い。明治、大正期の正義感にあふれた少年の苦悩や葛藤、貧しさから奉公に出されて苦労する話、厳しい家父長制が全盛期だった時代の道徳観を説いた小説を子供たちが喜んで読むわけがない。
1970年代とはいっても僕の小学生時代は高度経済成長期である。「仮面ライダー」や「ウルトラマン」、「マジンガーZ」は放送されていたし、女の子たちは「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」に熱中していた。マンガだって「天才バカボン」や「オバケのQ太郎」をはじめ飽和状態に近かった。児童書にしても楽しい本、ワクワクする本がたくさんあった。子供たちはドリフターズの「8時だョ!全員集合」に爆笑し、キャンディーズや天地真理の歌を真似ていた時代だ。
お父さん方は働きアリ状態で大変だったろうけれど、生活がどんどん便利になっていく明るい時代、日本の人口は増え続け、将来人口爆発するのではないかとさえ言われていた時代だった。(よもや少子高齢化社会がおとずれるなどとは思ってもいなかった。)
そのような世相の中でどんな子供がこんな古臭くて難しい小説を読むだろう。中には子供に読んでもらいたい小説もいくつかあるが、大半は「読書嫌いの子供」を大量生産するために十分な品揃えだ。
でも第54巻の「性に目覚める頃」っていったい何?
これは室尾犀星の著作でウィキペディアには「寺の子として育った青少年の「性」の目覚めと葛藤を描いた作品である。実体験をもとに書かれており、犀星が幼少の頃に過ごしたとされる雨宝院が登場する。」と書かれているので性教育のための本ではないことは想像がつく。
気になったので青空文庫で読んでみた。(横書き、縦書き)
とどのつまりこの小説は年上の女性にほのかな恋心を抱いていた少年が、性的衝動を抑えきれずに彼女の雪駄(草履のこと)を盗んでしまい、高揚感に満たされるという話だ。その後「彼女は雪駄が無くなって困って探しているだろうな。」と後悔の念にかられるという話である。ダメダメな奴じゃん!下着泥棒してしまう心理と同じことだ。
少年期の男子に性衝動はつきものだが、こうあからさまに小説として流布してしまう著者の心理が全く理解できない。「こういうことをしてはいけませんよ。」と反面教師的に子供は読むべきなのだろうか?
そしていけないのが第59巻の「舞姫」である。
森鴎外の自伝的小説であるが子供には向かない。青空文庫(横書き、縦書き)で見ていただくとおわかりのように、難しい漢字をひらがなに直しても小中学生に読める文体ではない。(お読みになりたい方には現代語訳された「舞姫(ちくま文庫)」をお勧めする。)
さらにいけないのが内容である。医学生としてドイツ留学した男が留学先で美しい娘と恋に落ちる恋愛小説として好意的に紹介される物語なのだが、結局その娘とねんごろになり身ごもらせてしまう。そして自己の都合で帰国せざるを得ない状況に。苦しんだ挙句に彼女を捨て、その後しばらくして再会したときに彼女は失恋の苦しみと絶望に耐えられず発狂していたという話だ。男も恋にのめり込むあまりに勉学をないがしろにする。
国費で留学しているんだからそういういいかげんなことしてちゃダメでしょ!
後悔や苦悩を言葉巧みに語っても言い訳にしか聞こえませんよ。もともと自分が蒔いた種ですよね?
そしてこういうことを小説にしてしまうのは浅ましいと思いませんか?
小中学生の教育によろしくないのは言うまでもない。自伝ならば「野口英世」や「ヘレンケラー」の伝記のほうがずっとよい。
また酷評してしまった。。。
ちなみに第59巻の「舞姫」はなぜだかわからないが、中古価格1万4千円~3万5千円という異様な高値で売られている。(検索してみる)
僕が小学生、中学生の頃、このような日本文学の「名作」が赤い目立つ表紙で、文字通り書店の児童書コーナーの書棚で「これぞ日本文学!」と言わんばかりに幅を利かせていたのである。
緑の表紙のシリーズ
記憶の糸をたどっているうちに「緑色のシリーズ」もあったことを思い出した。「ジュニア文学名作選」というキーワードで画像検索すると赤いシリーズの兄弟のように緑色の本が表示される。
こちらはポプラ社の「ジュニア文学名作選」全50巻である。このシリーズも偕成社の「ジュニア版日本文学名作選」と同じ時期に出版されていた。緑のシリーズも全国学校図書館協議会選定図書と書かれている。
たまたまヤフオクで全巻まとめて出品されていたので、写真で品揃えをお見せしよう。「赤毛のアン(村岡花子訳)」など海外文学も何冊か含まれている。
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日本文学の品揃えを見る限り赤いシリーズとだいぶ被っていて大差はないことがわかる。ポプラ社の緑のシリーズと偕成社の赤いシリーズは当時の児童文学書コーナーで競い合っていたわけだ。
これらの赤や緑のシリーズは現在はもう書店に並んでいないわけだが、それらの大半が「偕成社文庫(日本の名作文学)」や「ポプラポケット文庫」から購入できる。ただし室尾犀星の「性に目覚める頃」はどちらにも含まれていない。
現代の児童文学
日本における児童文学の歴史は長い。ウィキペディアの記事によると「日本の児童文学は、近代文学成立とほぼ同時期に確立されたと考えられる。巖谷小波による『こがね丸』や小川未明の第一童話集『赤い船』(1910年12月)が始まりとされる。」のだそうだ。
1982年にはミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の日本語版が発売され、ファンタジー小説が児童文学に新たなページを加えることになった。
現在の少年向き小説がどんな様子なのかを書店で確認したところ、昔ながらの児童文学書だけでなく、アニメやゲームキャラクターを主人公にした小説まであることに驚かされた。講談社の「青い鳥文庫」の品揃えを見ていただくとそれがよくわかるだろう。
各出版社が子供の読書離れを食い止めるために、いろいろ工夫していることがわかり頼もしさを感じた次第だ。
いろいろ児童書をあたっている中で、読んでみたいシリーズが2つでてきた。小学生の頃にはよく見かけていた表紙なので懐かしい。書籍版だけでなく、今ではKindle版も購入できるのだ。
- 怪盗ルパン全集(ポプラ文庫クラシック): Kindle版を検索する
- 江戸川乱歩・少年探偵団シリーズ(ポプラ文庫クラシック): Kindle版を検索する
江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/7012872ce4ca3af2f948421743271042
最後におことわりしておくが、この記事で僕は明治から昭和初期の日本文学を否定しているわけではない。「子供向きではない。」と言いたかっただけだ。それぞれの時代背景の中でこれら文豪たちの果たした功績は大きい。彼らがいたからこそ、ジャンルや作風を大きく変えた現代の小説や文学があると思うのだ。
参考:NHKスペシャル「私が愛する日本人へ ~ドナルド・キーン文豪との70年~」
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ジュニア版 日本文学名作選(偕成社)全60巻のタイトル
第1巻: 次郎物語(第一部) 1965.7.1
第2巻: わんぱく時代 1965.8.15
第3巻: 野菊の墓 1965.2.1
第4巻: 坊っちゃん 1965.2.1
第5巻: 二十四の瞳 1965.2.1
第6巻: 羅生門 1964.12.1
第7巻: しろばんば 1964.12.25
第8巻: 路傍の石 1965.11.20
第9巻: 熊犬物語 1964.12.25
第10巻: 走れメロス・女生徒 1964.12.25
第11巻: ビルマの竪琴 1965.2.10
第12巻: 伊豆の踊子 1965.2.25
第13巻: 怪談 1965.3.10 平井呈一訳
第14巻: 山椒大夫・高瀬舟 1965.4.10
第15巻: 友情 1965.3.25
第16巻: ジョン万次郎漂流記 1965.5.15
第17巻: 小さき者へ・生まれ出ずる悩み 1965.5.25
第18巻: 末っ子物語 1965.6.15
第19巻: 吾輩は猫である(上) 1965.9.20
第20巻: 吾輩は猫である(下) 1965.9.20
第21巻: 次郎物語(第二部) 1965.10.1
第22巻: 真実一路 1965.8.20
第23巻: 地獄変・六の宮の姫君 1965.10.15
第24巻: 子供の四季 1965.11.1
第25巻: 恩讐の彼方に 1965.11.15
第26巻: 母のない子と子のない母と 1965.11.20
第27巻: ゆうれい船(上) 1965.12.15
第28巻: ゆうれい船(下) 1965.12.15
第29巻: 悦ちゃん 1965.12.20
第30巻: 武蔵野 1966.1.10
第31巻: 次郎物語(第三部) 1966.5.5
第32巻: 三四郎 1967.1.20
第33巻: コタンの口笛(第一部) 1966.2.15
第34巻: コタンの口笛(第二部) 1966.2.15
第35巻: 女中っ子 1966.3.15
第36巻: 落城・小さな赤い花 1966.4.5
第37巻: 美しい暦 1967.9.20
第38巻: 哀しき少年 1966.5.20
第39巻: 次郎物語(第四部) 1966.4.10
第40巻: 次郎物語(第五部) 1966.5.10
第41巻: こころ 1967.11
第42巻: 出家とその弟子 1967.12
第43巻: 愛と死 1967.11
第44巻: 一握の砂・悲しき玩具 1968.1
第45巻: 放浪記 1968.3
第46巻: パリに死す 1968.2
第47巻: 智恵子抄 1968.9
第48巻: 風立ちぬ・美しい村 1968.8
第49巻: 青年・雁 1968.12
第50巻: 天平の甍 1969.3
第51巻: たけくらべ 1969.10
第52巻: 桜の実の熟する時 1969.10
第53巻: 鞍馬天狗 1971.1
第54巻: 性に目覚める頃 1971.1
第55巻: 姉妹 1971.6
第56巻: 草枕 1973.3
第57巻: 忘れ残りの記 1972.11
第58巻: 福翁自伝 1974.9
第59巻: 舞姫 1974.11
第60巻: 愛の詩集 1972.10
夏目漱石、高校のときに授業で「吾輩は猫である」と「夢十夜」をやりました。私は夢十夜がおもしろかったです。
森鴎外の舞姫も、実は高校のときに授業でやりまして。
先生が、当時の背景なども詳しく話してくれたのですが。
多感な時期にこの「舞姫」の内容は驚きましたね~。
「なんだこのロクデナシ君は!!!」と驚愕しました。
ほぼ自伝だと聞いて、ますます森鴎外に対する印象が悪くなって大人になりました(笑)
明治大正昭和あたりの書籍の、独特の文体や書き方が
私はとても好きで、大学時代に乱読しました。現代の本もオモシロイですが、昔の本とはまた違うオモシロさなのだなあ、と思います。
ドリトル先生も不思議の国のトムキンスも面白かったし、シャーロックホームズが旧字体で読み難かったけど面白く読んでた記憶があります。
その後、文学らしい文学は避けてSFに行ったのは日本産が面白くなかったのでは?と今気付きました!
謎が一つ解けて良かった。
『坊っちゃん』は中学1年のとき、「フォア文庫」(4社のうち金の星社刊)で読みました。今読み返すと、当時の出来事や気持ちが蘇ります。これも『吾輩は』と同じく、くだらない挿話で読ませる傑作だと思います。坊っちゃんは東京物理学校の卒業ですので、とねさんの先輩ですね。
『こゝろ』になると、ストーリー展開が複雑になり、伏線が複雑にはりめぐらされています。よく新聞連載で、一話ずつ冒頭から書けたなあと大変感心します。「先生」が自殺した折、「奥さん」は「私」をどのように迎えたのでしょうか。「なんで、あなたは夫の自殺のことを知っているの?」と訊いたのでしょうか? そう尋ねられ、「K」の自殺の真相を妻に話さないでくれ、と遺書の中で頼まれた「私」はどう対応したのでしょうか? 「私」はその後、「奥さん」と結婚したのでしょうか。Kはなぜ、自殺のときにわざわざ「私」の部屋との間を仕切る襖を開けておいたのでしょうか? やはり「私」に対する当てつけでしょうか。
このようにひとつの作品の中にも、謎はたくさんあり、飽きることがありません。面白いです。人の浅ましさや愚かさも小説として、文学として、芸術に昇華しうるのが、小説作品の素晴らしさだと思います。その一方で、とねさんのように文豪をやり込めるのも小説の愉しみ方のひとつだと思います。
「夢十夜」はあらすじさえも知りませんでした。あらすじを検索して読んでみましたが面白そうですね。うー読みたい。。。でも次の物理学本も読みたい。。。悩みどころです。
にわとりおかんさんは物理学科(大学院)卒なのに、絵や文学にも造詣が深くて素晴らしいです。
鴎外の「舞姫」は講談社の青い鳥文庫でも刊行されているのですが、挿絵が少女漫画そのものですので「いやいや、そういう小説じゃないんですよ!」と突っ込みを入れたくなりました。
hirotaさんへ
読書経験談をお聞かせいただき、ありがとうございました。
ドリトル先生は確か僕も全巻読みました。でも内容ほとんど覚えていません。不思議の国のトムキンスには出会えていませんでした。
小学生時代はほとんど科学物を読んでいなかったことに僕は今回気が付きました。SFは
洋物ではなく「時をかける少女」や「まぼろしのペンフレンド」、「七瀬ふたたび」に熱中していましたね。要するにNHKの少年ドラマシリーズなわけです。
はやぶささんへ
読書経験談をお聞かせいただき、ありがとうございました。
「坊ちゃん」、「こゝろ」は確か高校時代に読んだと思います。だから東京理科大に進学したというわけではありませんが。大学生になってから寺田寅彦ゆかりの大学であると知りました。
> くだらない挿話で読ませる傑作
まさにそうなんですね。漱石自身それを自覚して書いていると思わせる文章が「吾輩は~」の中にいくつかありました。
> 文豪をやり込めるのも小説の愉しみ方のひとつだと思います。
無理して「これは素晴らしい作品だと思いました。」のように書いても白々しいですし、読む人には嘘ついているのがバレてしまいますから本音を書いてしまうのがいちばんです。
「こゝろ」はいろいろ謎が残されていますね。それをもやもやと不快に思うのか、自分で空想して答を考えて愉しむかは人それぞれでしょうけれど、大人になった今は後者の人でありたいと思います。
漱石の「吾輩は猫である」と「坊ちゃん」は江戸時代の黄表紙を意識したユーモア小説なんじゃないかと思います。それ以降の作風は全く違ってきてしまいますから。。
日本の過去の作家は自分の実体験を露悪的に小説にする人が多いですね。子供は文体や登場人物の心理を読み取ったりして作品を楽しむこと以上に、ストーリーに興味を持ちますから、このラインナップはどうかと思います。例えば芥川の「地獄変」は残酷すぎて、もっといい作品はあるんですけどね。
まあ文学好きなら、こういう全集を与えられなくても自分で文庫なりを探して読むでしょう。
ただ村上春樹なんかの読みやすいものばかり読んでないで、たまには読みにくいものも読むことも必要かも知れません。
そうですよね。「吾輩は猫である」と「坊ちゃん」より後の小説はだいぶ「重たく」なっています。
選定した方々や推薦人の年代や生きた時代背景を想像すると、このラインナップになってしまったことがわかりやすいです。60年代、70年代にしても日本人の生活様式や意識は大きな変化を迎えていましたから。
「露悪的」という言葉、知りませんでした。(辞書で調べました。)今はほとんど露悪的に自分の体験を書く作家はいませんね。
> たまには読みにくいものも読むことも必要かも知れません。
僕もそう思います。特に僕らより年下の20代~40代の人にそうしていただきたいです。
今回の書評、拍手喝采です。
よくぞ書いて下さった!
子供の頃は本の虫で、舞姫、路傍の石、次郎物語は、とくに印象に残っています。最初にこれらを読んだのは小学校5~6年でした。
まさに仰るように、ダメな大人やドロドロした心の葛藤が描かれた作品集は、子供の私には見てはいけない大人の世界を覗き見るもので、だから大いに興味を惹かれました。
これらは、思春期、青年期、結婚前、子供を持ったあとまで、何度か読み返しています。ソフィア・ローレン主役の映画「ひまわり」も全く同じように何度も診ました。
これらの作品は、涙が出てくることも有るのですが、その場面が自分の年代で異なるのも面白いのです。
それぞれ異なる自分の年代で、受け取り方が全く異なる予感があり、事実そうであったこら、何年もの間を空けて読み返しています。
そして、その予感通り、感情移入する登場人物も変化し、自分のダメさ加減とも重ねて、感じるものが変化するのを楽しませてもらっています。
そういえば日本のSF作家が多かったですね。
> 今回の書評、拍手喝采です。
> よくぞ書いて下さった!
ありがとうございます!
子供にとって「見てはいけない世界を覗く」という経験は大切だと僕も思います。(限度はあるでしょうけど。)
舞姫は高校時代に読みましたが読解力不足で全く歯が立ちませんでした。
僕の場合は大人になって、自分の限界や過去にうまくいかなかった経験をしてからやっと昔の作家の苦労話や悲しい境遇に共感できるようになりました。
自分ひとりで経験できることはごく限られていますから(月並みな言い方ですけど)いろいろな人の人生を知るのは大切です。
はい、眉村卓とか光瀬龍とか!
こういうページもあります。懐かしい俳優さんがたくさん!ウィキペディアで検索して俳優さんのその後をたどると楽しめます。
懐かしのNHK少年ドラマシリーズ
http://homepage2.nifty.com/nino-p/syounen.html