狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

信じるだけで救われる 2

2021年01月27日 | 聖書
1) 無戒律な宗教は、人類の道しるべとして、役にたたないのではないでしょうか?

続いて、この質問に答えていきます。

前回、人間の造った宗教と真の神を信じるクリスチャンの信仰とは、全く関係ないと書きました。
しかし、残念ながら、聖書に啓示された真の神を信じずに、宗教としてのキリスト教組織に属することで、自分はクリスチャンだと勘違いしている人が大勢いることも、事実です。
例えば、ここスペインは、カトリック(*注1)の国と言われており、ほとんどの人が、“ 自分はクリスチャンだ。“ と言いますが、その理由は、

"幼児洗礼(*注2)を受けているから"

です。
けれども聖書を読んだことのある人は、ほとんどいませんし、教会に通っている人もほんの一部です。 日本の仏教に非常によく似ていて、冠婚葬祭の時だけは、カトリック式で、という感じです。 彼らのやっていることは、宗教です。

また、アメリカなどのプロテスタント教会でも同じような現象があります。

“親がクリスチャンだから“
日曜日に教会に行っているから“
“洗礼を受けたから“

と、いう理由で、自分がクリスチャンであると誤解している人が大勢いるのです。 彼らのやっていることも宗教です。
また、他にも、

“自分は聖書の律法を守るように、あるいは、罪を犯さないように努力しているから“
“祈って病気が癒されたから“
“異言を語るなどの特殊な体験をしたから“

などの理由で自分はクリスチャンだという人がいたとしたら、それも間違いです。

真のクリスチャンとは、聖書の神様を信じ、自分を罪人と認め、悔い改めて、イエスキリストが自分の身代わりに十字架で自分が死後受けるべき罪の罰を受けてくださり、三日後に甦られた自分の救い主であると受け入れた者のことです。
極端に言えば、たとえ、その人が、聖書を読んだことがなくても、教会に行ったことがなくても、洗礼を受けていなくても、特殊な体験をしなくても、本当に心から上記のことを信じたのであれば、罪の赦しを受け、天国に行ける者となるのです。

イエス様と共に、十字架につけられていた、二人の犯罪人のひとりは、その死の直前に悔い改め、信じて救われました。
私の友人の父親も、病気で入院し、もう、助からないと自覚した時に、心砕かれ、イエスキリストにある救いを受け入れ、数日後に亡くなりました。
また、私の知り合いの牧師は、4才の時に、母親にイエスキリストのことを聞いて信じて、救われました。
彼らにできたことは、信じることだけでした。けれども、それで、救われたのです。


(*注1)カトリック•••カトリック教会という組織が聖書の神のことばより権威を持ちます。 ローマ法王やその側近が、教会の都合によって、聖書に無い儀式や教理を作り、それらは法王が替わる度に変わって行きます。 その為、聖書の教えから、離れてしまいました。
しかし、カトリックに限らず、聖書の言葉に何かを付け足したり、差し引いたりする教会もたくさんあります。 それによって、どんどん聖書の教えから離れ、異端となります。

(*注2)幼児洗礼•••赤ちゃんが受ける洗礼のことです。 洗礼は、救われるために受けるものではなく、信じて救われた者が、その信仰を表明するものなので、幼児洗礼は非聖書的です。 聖書の中にも例がありません。

(Semakimo)

信じるだけで救われる 1

2021年01月27日 | 聖書
さて、今回も、コメントでいただいた質問をもとに、色々考えていきたいと思います。

1) 無戒律な宗教は、人類の道しるべとして、役にたたないのではないでしょうか?

さて、最初にはっきりさせておかなければならないことがあります。
宗教とは一体何でしょうか?それは人間の宗教心を満足させるために、人間が造り出したものです。
真実なクリスチャンが信じているのは、この天地、宇宙、人間を造られた創造主なる神であって、人間が人間のために造った宗教の神ではないのです。
人間は、霊とたましいと肉体を持つように造られました。 しかし、アダムが罪を犯して以来、人間は霊的に死んでいます。すなわち神との交わりが絶たれてしまっているのです。 そのために人間は人間よりも偉大な力との交わりを求めます。 それが、人間にある宗教心です。
ところが、罪に支配されている人間は、その宗教心を満たすため、真の神を求める代わりに、悪霊と交わってしまったり、自分たちに都合の良い宗教を造るようになりました。
ですから、人間の造った宗教と真の神を信じるクリスチャンの信仰とは、全く関係ありません。

“彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。“ (ローマ 1: 21~23)


(Semakimo)