以前、甲府市善光寺にある加藤光泰のお墓(五輪塔)を紹介しましたが
今日は、大洲加藤家の墓所ついてご紹介しますね
このブログでも何度かお伝えしてきましたが、
豊臣政権下、甲斐国を任された加藤光泰ですが、
秀吉の反対を押し切って自ら朝鮮出兵に出陣、
その最中に急逝しました
その死に臨んで浅野長政に宛てた遺書は有名ですね
ところで、遺骨は家臣によって甲州へ運ばれました
その時、城中を遠慮して善光寺本堂へ入ったそうです。
当初はお墓を築き、
さらに高さ5尺(約1.5メートル)の石碑が
建てられたそうです。
現在ある五輪塔は、当時のものではなく、
光泰150回忌にあたる元文4年、
大洲加藤家第6代泰温の時代に墓石を五輪塔にあらためられたものなのだそうです
子貞泰が甲斐から美濃黒野へ移封する際遺骨を移し、
曹渓院を建立。
その後伯耆米子を経て、大洲へ移ったときに
現在の曹渓院が創建されました。
ですから、愛媛県大洲市内にもお墓があるんですね
残念ながら、廟所の写真はありませんが
こちらが大洲加藤家歴代藩主の霊廟がある曹渓院入口にある看板です
江戸時代、大洲藩では藩祖研究が盛んになり、
光泰を祀る神社などもつくられました
大洲加藤家初代は子貞泰ですが、光泰は藩祖として
大洲の人々の尊敬をあつめているのですね
今日は、大洲加藤家の墓所ついてご紹介しますね
このブログでも何度かお伝えしてきましたが、
豊臣政権下、甲斐国を任された加藤光泰ですが、
秀吉の反対を押し切って自ら朝鮮出兵に出陣、
その最中に急逝しました
その死に臨んで浅野長政に宛てた遺書は有名ですね
ところで、遺骨は家臣によって甲州へ運ばれました
その時、城中を遠慮して善光寺本堂へ入ったそうです。
当初はお墓を築き、
さらに高さ5尺(約1.5メートル)の石碑が
建てられたそうです。
現在ある五輪塔は、当時のものではなく、
光泰150回忌にあたる元文4年、
大洲加藤家第6代泰温の時代に墓石を五輪塔にあらためられたものなのだそうです
子貞泰が甲斐から美濃黒野へ移封する際遺骨を移し、
曹渓院を建立。
その後伯耆米子を経て、大洲へ移ったときに
現在の曹渓院が創建されました。
ですから、愛媛県大洲市内にもお墓があるんですね
残念ながら、廟所の写真はありませんが
こちらが大洲加藤家歴代藩主の霊廟がある曹渓院入口にある看板です
江戸時代、大洲藩では藩祖研究が盛んになり、
光泰を祀る神社などもつくられました
大洲加藤家初代は子貞泰ですが、光泰は藩祖として
大洲の人々の尊敬をあつめているのですね
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