よみがえる鉄門
連日、まだまだ暑い日が続きますが8月も今日で終わりです。
みなさん、今年の夏もいい思い出がたくさんできましたか?
今回は只今復元中の鉄門工事に携わっている職人さんたちにインタビューしてきた
ので随時、紹介していきたいと思います
まず、トップバッターは現場のみなさんを引っ張ってくれる頼れる親方、吉野さんです。
私がお話を伺うのは初めてなので緊張します
Q、この仕事を始めてどれくらいですか?
A、16歳から始めて今年で42年目。
ってことは、何歳だ
もう定年間近だ。(笑)
少し笑顔になり、ホッとしました
Q、鉄門復元工事に携わっていかがですか?
A、こういう大きな仕事は一生に一度だと思っている。
なかなか、ない経験だな。
神妙な面持ちで語ります
Q、手斧(ちょうな)がけを久ぶりにされてコツはありますか?
A、鉋(かんな)とかは台と刃がしっかりされていれば素人でも出来るが、手斧(ちょうな)
はそうはいかない。手斧(ちょうな)は経験がものをいう。
手袋をするとマメができてしまうからあえて手袋なしですべらせてかけるといいんだ。
余分な力を加えず、材木にあたる瞬間に力を入れることが大切。
手斧(ちょうな)の難しさを力強く語っていただきました
現場で音頭をとり、全体をまとめあげる親方は「将棋をやるように先を見越してやらなきゃ
いけない!」とおっしゃっていました。
定年間近と言いながらも二の腕の筋肉はムキムキ素晴らしかったです
鉄門復元にあたりとても頼りになる親方、これからもよろしくお願いします
ちょーっと間があいている内に、鉄門工事の方はだいぶ
進んでしまいました
今日の段階で2階の梁が乗っかりましたよ
1階が終わってしまえば2階部分の組立はぽぽぽぽ~んと
早く組みあがってしまうらしく…
毎日ちょくちょくチェックしに行かないとすぐ見逃して
しまうので、みなさんにお伝えできるようにがんばって
現場に突入していきますよ
そろそろ大工さんたちへインタビューを開始したいな~
進んでしまいました
今日の段階で2階の梁が乗っかりましたよ
1階が終わってしまえば2階部分の組立はぽぽぽぽ~んと
早く組みあがってしまうらしく…
毎日ちょくちょくチェックしに行かないとすぐ見逃して
しまうので、みなさんにお伝えできるようにがんばって
現場に突入していきますよ
そろそろ大工さんたちへインタビューを開始したいな~
今から約400年前の8月28日、1通の遺言状がしたためられました。
差出人は加藤遠江守光泰。
宛先は浅野長政でした。
「甲斐国は(豊臣政権の)国の端で、徳川家康のいる関東諸国との境目。
息子作十郎は若輩者でまだ心許ないので、だれかふさわしい人物に
任せてほしいと、上様(秀吉)に言上してほしい。
また、上様にたいしてはこれまでの恩に対し十分な恩返しができず
申し訳ない。何か珍しい道具でも贈進したいがそのようなものを持って
いないので、この地より送る黄金20枚をお渡ししてほしい。・・・」
加藤光泰は天正19(1591)年から文禄2(1593)年まで、
豊臣秀吉から甲斐国の経営をまかされた人物です。
光泰は2年間の在任期間に甲府での築城(注1)に力を入れました。
文禄の役では、秀吉から出兵を止められましたが、それをおして
大谷吉継や石田光成らとともに出兵。苦しい戦いとなりましたが、
海のむこうからも手紙をよこし築城の進捗をたずねています。
しかし、文禄2年8月26日陣中で急に体調を崩し、今から418年前の
今日8月29日に57歳の生涯を閉じたそうです。
こののち、遺言状のとおり、息子作十郎(加藤貞泰)は美濃国黒野へ移り、
浅野長政・幸長父子が甲斐国を治めることになりました。
加藤光泰は甲府の築城の完成を見ることなく亡くなりましたが、
その遺志は浅野長政・幸長父子に立派に引き継がれ、甲府城はこの
浅野氏の時代に完成をみました
(注1)加藤光泰時代の甲府築城については諸説あり、甲府城ではなく
武田氏舘跡における築城であったとの説もあります。
加藤光泰の墓碑(甲府市 善光寺)
光泰の遺骨は家臣によって甲斐善光寺へ運ばれ、善光寺に納められました。
差出人は加藤遠江守光泰。
宛先は浅野長政でした。
「甲斐国は(豊臣政権の)国の端で、徳川家康のいる関東諸国との境目。
息子作十郎は若輩者でまだ心許ないので、だれかふさわしい人物に
任せてほしいと、上様(秀吉)に言上してほしい。
また、上様にたいしてはこれまでの恩に対し十分な恩返しができず
申し訳ない。何か珍しい道具でも贈進したいがそのようなものを持って
いないので、この地より送る黄金20枚をお渡ししてほしい。・・・」
加藤光泰は天正19(1591)年から文禄2(1593)年まで、
豊臣秀吉から甲斐国の経営をまかされた人物です。
光泰は2年間の在任期間に甲府での築城(注1)に力を入れました。
文禄の役では、秀吉から出兵を止められましたが、それをおして
大谷吉継や石田光成らとともに出兵。苦しい戦いとなりましたが、
海のむこうからも手紙をよこし築城の進捗をたずねています。
しかし、文禄2年8月26日陣中で急に体調を崩し、今から418年前の
今日8月29日に57歳の生涯を閉じたそうです。
こののち、遺言状のとおり、息子作十郎(加藤貞泰)は美濃国黒野へ移り、
浅野長政・幸長父子が甲斐国を治めることになりました。
加藤光泰は甲府の築城の完成を見ることなく亡くなりましたが、
その遺志は浅野長政・幸長父子に立派に引き継がれ、甲府城はこの
浅野氏の時代に完成をみました
(注1)加藤光泰時代の甲府築城については諸説あり、甲府城ではなく
武田氏舘跡における築城であったとの説もあります。
加藤光泰の墓碑(甲府市 善光寺)
光泰の遺骨は家臣によって甲斐善光寺へ運ばれ、善光寺に納められました。
堺町の踏み切りのすぐ手前を、藤川の流れに沿って東へ
降りて行くと、大きなケヤキの木が茂る空き地があります
草の生い茂るすき間から、藤川を渡る壊れかかった木の橋が
見えました…ここは富士見温泉の跡地です。
いつからあったのかわかりませんが、甲府市内には昔から
あちこちに温泉がありました
我が甲府城にも、楽屋曲輪(現在の山梨県庁構内)に温泉が
わいていたという記述があります
甲府城が造られる前、一条小山と呼ばれていたこの地にも、
南側に温泉がわく場所があり「湯田」という地名だったそうです。
築城に伴い、湯田の町は現在の場所に移りました。
明治12年、海州温泉が、お城の南側の堀のすぐ側に開業しました
甲府温泉の始まりです
昭和30年代には72口の源泉があり、たくさんの温泉宿が
あったそうです
ところで、稲荷櫓で開催中の企画展「ひらけ!玉手箱」
ご覧になった方は気がつきましたでしょうか?
色鮮やかな絵図の中に「温泉」の文字があるのです
青く塗られた円が描かれており、最初は池かと思ったのですが、
その中に「温泉」の文字が…
約200年前の甲府勤番士の時代にも、温泉を楽しんだのでしょうか
まだ稲荷櫓の展示を見ていない方、8月いっぱいやっています
温泉を探しに来てください