くろちゃんの甲府城つづり

やまなしの甲府城跡のようすや活動を、
くろちゃんと仲間たちがなんとなく紹介します

今どうしても探し出す必要があるもの

2013年03月28日 | くろちゃんの日記
江戸時代 安政の大地震
甲府城の石垣や建物が崩れ 城下にも大きな被害がありました


発掘調査で判明した安政年間の大地震で崩壊したと考えられる石垣
『甲府城跡』2005.3より


東日本大震災は鉄門事業の初年度に発生
この震災の前後を考えると、仕事に対する考え方にも大きな変化をもたらした出来事でもありました

さて、甲府城の歴史を探っていくうちに、お隣の静岡県下田は
全く知られていませんが、江戸時代の山梨県にとって重要な場所と気づきました
そして、その証拠となるあるモノが 下田に1点のみ残されていることを突き止めたのです

それは、下田の町が津波で大被害に見舞われたとき 甲斐の石工棟梁がとった行動の証拠
東日本大震災を経験して 今も昔も人の優しさは変わらない歴史的な証拠だと感じました

仕事とは直接関係ないので 調べが遅々として進みませんが 近いうちに必ずその成果を
山梨に持ち帰りたいと決意
今回は、詳細まで書けませんが 当時の下田の被害がどれ程か 中日新聞の記事で紹介しておきます


オプションで房州石にも大きくかかわるため チョットだけ石切場も見てしまいました

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防潮の堤を乗り越え、海水が押し寄せる。津波は大小さまざまな船をさらい、陸に押し上げる。女性は流されまいと木材にしがみつき、男性は沖を眺めて両手を大きく広げている。「津波よ、来るな」。そう叫んでいるようにも見える。

 絵図を描いたのは、ロシア海軍のモジャイスキー大尉。江戸時代の末、幕府に開港を迫り国境を定めるため、プチャーチン提督率いるディアナ号で来航した。が、会談が始まった翌日に被災、母国へ帰る船を失った。

 一八五四(安政元)年十二月二十三日、安政東海地震による津波が下田を襲った。船には随行の画家がいなかったため、美術が得意なモジャイスキーが記録係を務め、A3判ほどの克明な絵図を残したのだった。

 「あまりに恐ろしい状況なので、事実より過剰に描いたのではないかと疑問に感じていましたが、東日本大震災を見てありのままの姿なんだと思い直しました」。下田市史編さんを手掛けた元高校教師の佐々木忠夫さん(76)が、絵図の描写について説明する。

 当時の町役人が被害を記録した文書「大震津波ニ付 裁頂お見舞其外控」を読み解くと、津波の高さは最大で六メートルほど。付近の家屋の大半の八百四十一軒が津波で流され、三十軒が揺れで半壊、百二十二人が亡くなった。無事残ったのは四軒だけだったという。

 交渉団の一員だった外国奉行の村垣範正は、津波の第二波の様子を日記にこう書いた。「千軒余の人家、片はしより将棋倒しの如(ごと)く、黒煙を立て、船を押し込め、家の崩れるさま、人々叫び、地獄もかくやと思うばかり」。押し波と引き波を繰り返し、下田は焼け野原と化したと伝えている。

 立命館大歴史都市防災研究センター(京都市)の北原糸子教授は「歴史地震の多くは夜に発生したので想像で描いた絵図がほとんど。津波を実際に見て描いたものは珍しい」と、モジャイスキーの絵図の資料価値を高く評価する。

 下田で暮らす佐々木さんは「津波には、すぐ高台に逃げるという心の備えが大切。この絵図はそのことに気付かせてくれる貴重な資料です」と言うと、絵図に視線を落とした。

中日新聞(福田大展)《震災再耕 歴史遺産をたどる》 下田津波絵図(上)20120721



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