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田舎くらし

趣味、あそび、旅行

栃木のお城 2025年

2025年02月06日 | お城巡り

佐野インターより近い 唐沢山城跡
唐沢山神社が頂上に鎮座し 城跡をぶち壊している
今回、編集途中で 映像だけ先に載せ後日、文章を入れます

2月10日 現在入院中 胆石が見つかり 胆のう摘出手術し
これを、編集中です

唐沢山城跡には、藤原秀郷を祀る神社がある 正月のころは
道路が一方通行で、登り 下りに分かれ 駐車場が混み
40分ほどかかる

駐車場から 神社までの間を 横道ずれていくと
城跡が出てくる









平安時代の末から この辺一帯治めていた佐野氏により築かれた
山城で242mあり、国指定史跡になっております。
尾根上に曲輪 石垣 本丸跡など残っています




400年以上前の8mを越える 高石垣は 安土桃山時代のもので
この造りは、豊臣方のお城の入り口に 大きな一枚岩が
よくあるとおもいますが その造り方で自分の力を
見せつける意味での石垣








土塁 堀が あちらこちらに巡らせてあり 敵からの攻撃を弱体化する
足利氏と関東管領上杉氏の対立により守りを固めた (佐野城)と
呼ばれていた 後に小田原の後北条氏や上杉に攻められ
謙信が佐野氏を配下にした





尾根を上を散策すると、8ブロック位に分かれて三の丸
二の丸 本丸 倉屋敷跡 金の丸 杉曲輪 平とや丸 がある

帰りに、栃木ICに近い皆川城も寄りました



皆川家は、唐沢山城ー藤原秀郷 身内、小山政光 その後
長沼氏が会津田島より移り 宇都宮氏 佐野氏などと戦い
皆川広照が領主の時代 小田原北条に負けて配下になるが
秀吉の小田原攻めに出向いたが、家康の勧めで
秀吉側に寝返り その後、家康に仕える

こちらのお城跡の方が 建物がなく景色がいい
遠くに筑波山が見えている

城跡と言えば、県庁 市役所 学校 公園などに変わり果てている場所が多い
100名城の新潟新発田城は、狭く一部しか存続してないで
後ろにある自衛隊ほぼせんりょうしている








三段になる土塁


井戸のあと




日が変わり 第二弾 矢板市にある川崎城跡に来ました

栃木県矢板市 塩谷氏(しおのや)の居城 1200年頃築城
当時は、宇都宮氏 那須氏 などと争いが絶えない時代
秀吉の関東平定にて戦負けをし(廃城1595ねん)

南北1km長く、幅は200m 渦巻き状になる珍しい
城で


前日に雪が降り 残雪が少し残り気味






土塁跡は鎌倉時代初期の作






二の丸 三の丸跡など 曲輪があり 当時としては
広い館があったとみられる








本丸跡はすごく広い

高土塁が行く手を遮り 切岸などが数多く 横堀 空堀一般的な
城跡と変わりはないが 小高い山城の部
この時代は、小さな豪族同士の攻め合いが続き 栃木県の有名な市町村の名称は
領主の名前からとったもので 市町村名=領主となるわけで

小さな編集で申し訳ありません 今回はこれにて終了です。


中国地方100名城の旅(4)

2023年11月23日 | お城巡り

昼食は、日本三大稲荷の一つとも言われ 最上稲荷の下の土産店で食べる
その近くには 秀吉が攻めた 備中高松城跡があり1571年三村氏の城
1582年 黒田孝高の策により 秀吉は川の水をせき止め人足を使い
堤を築き 高松城を水浸しにする 秀吉の得意の水攻めは
小田原攻めの時 石田三成に命じて 忍城(現在の 埼玉県行田市)でも使われるが失敗する

 信長は援軍を連れ 秀吉の毛利攻めを助けるため挙兵
 途中泊まったのが本能寺 そこで 信長最後を迎える
しかし、信長の死を知らされた秀吉は 安国寺恵慶に頼み毛利との和議を
結ぶように頼み 明智光秀を討つべしと 中国大返しを行う

最後の備中松山城に来ました。
例えば、駅からだと15分間隔で出ている(この頃できたのかな)
 予約乗り合いタクシー(高い)と 乗り合いハイエース(安い)800円くらい 
歩くと急な登り2時間弱




ふいご峠に到着  前回、個人で来たときは 普通の乗り合いタクシーで
峠まで来て右側の車道を登る 今回は、左の当時の登城道を行く
これが結構きつい


NHKの大河ドラマ真田丸の時のオープニングカットで使われた場所


石垣の下が 天然の岩盤を利用している 珍しいこと

三大山城
一つ目は 岐阜県恵那市にある 岩村城 今後行く予定
二つ目は 奈良県 高取城 ここは行きました 要予約タクシー
三つ目 ここ備中松山城


最初の石段 

臥牛山の小松山山頂(430m)に築かれた城
そこから、松山城と呼ばれている  でも、
四国にも 松山城があり 現代になり 組み分けの為
備中松山と付け替えられた


右 左 右と回されて


土塀の一部は、現存しています




三の丸跡


石垣が素晴らしい どこかのお城と違い膨れてない




厠(トイレ)の跡です 汲み取り口が分かりますか 
この上に建物があって用を足す(外トイレ)ということ


天守が見えてきた






重要文化財に指定されている 二重櫓




復元 腕木御門 本丸の裏門にあたる




12城の一つ 重要文化財 6万石の城


天守閣


土台の石垣から入る





囲炉裏の跡


装束の間


守護神を祀った御社壇




毛利方の東の拠点の城として存在 関ヶ原以降 防長二国になった
毛利家 遠州小堀家により、修改築され池田氏 水谷氏などと城主は
変わり 現存する天守は 1683年 水谷勝宗により改築されたのが
残っているとのこと
二層二階 古い木組みの構造 梁と柱の太いこと

これにて、今年のお城巡りは おしまいです 一部付け足し
編集あするかもしれません

中国地方100名城の旅 後半は来年 
でも、来年は3月末にパキスタンに行き 山を見に行きます

ネパールは、過去ログに書いてあるように 2回行ってますので
スイスの山も2回行ったし アメリカのキャニオンの山も観たし
 城と山に行くのが好きです 興味ある人は 
過去ログを見てください

それでは、失礼します ありがとうございました
しばらくは、お休みします


中国地方の100名城の旅(3)

2023年11月22日 | お城巡り


ツアー3日目 岡山から総社市へ 第三弾

鬼の城と書いて 「鬼城」 国の史跡指定(鬼城山)
約400Mの山の上 周りは2800M西と南には大きな門
小型の東門、北門で構成されている
築城は660年頃とされている
石垣土塁とか 中世の城とは違う造り 東北のアテルイの時代
又は、奈良の大仏様ができた時代と同じころよ




さて、あそこまで登らなければ へ・へ・へ・


近くの展望台から見える ワンショット


このしろは、土で固めた構造 泥と稲わらを混ぜて
1層目を造り乾いたら、2層目を造りの 繰り返しで
何層にも積み上げている造り だから、横縞が見えるでしょ


この屋根の作り どこかで見たな?
そう 韓国の宮殿とか お寺に似ている
韓国には、3回行きました 良いところですが
食べ物が 辛くて 大変。 
過去ログの海外旅行辺りに、載せています


これは、市が復元したので どこまでが本物かは不明


ぢ田に敷き詰められた石は 水はけを良くするため
でないと、土が流れて崩れるからだそうです


門の上には、門番が寝泊まりできる様式


土砂崩れを防ぐ石垣 今まで見てきたお城の石垣と
用途が違う 小高い山の上にある城 600年のころ武器は何


水はけのための、(用水路)ですって






見えてきた、次の目標点


石の祠 今で言う おじそうさまかな


石仏が彫られている 観音様みたい



山梨の昇仙峡のような景色と雰囲気


天然の要塞 戦国時代のお城とはちょっと違う










これで、一周2時間の歩き 上り下り ツアーのメンバー
殆ど、50代以上、転ぶ人2人 怪我あり
ちょっとした、トレッキングになってしまった
100名城のスタンプのために みんな頑張りました💮

「この鬼城は」 この時代はお城を築く方法を分からなかった
この時、大陸から、朝鮮半島の百済から 人の行き来と
物の物流が盛んで、交易していた関係 沢山の職人が
日本に来ていた 城造り経験者いたため その方々に
教えを請いながら完成した

なぜ、中国地方と呼ばれているの⁇ 戦国時代始まりは
この地域は、尼子氏と大内氏の領土でして、小さい土地を
持っていたのが毛利氏 大内氏は、日本人ではなく(百済)
朝鮮の人で もっと、さかのぼれば源平合戦の戦いのとき
平家方の一部は、外国人が混ざり源氏と戦い負けそうになったので
船で逃げて 撤退したため 平家は戦に負けたとも言われている
所説あり(インドネシア系とか)(朝鮮系とか)の人

 わが国の天皇陛下も、先代が公表したように
先祖は、朝鮮の人間であると言われたのであるからにして

また、卑弥呼はなぜ、中国の三国志の時代に
魏の国に朱印状をもらいに行ったのか

朝鮮半島の文明が 日本に今で言う、輸入されたってこと
稲作 剣 土器 青銅など・・・

秀吉が備中高松城の水責めのところ 備中松山城の見学に行きます

そういえば、今日 越前大野城(雲海のお城)で有名なところ
ニュースで放送されてましたね 竹田城跡(ここは建物のないから)
 大野城は訪れると たいしたことはないが雲の上の城
見てみたい 私が行ったときはこの11月 時期だはないので残念

このあとは 後日、付けたし編集か 新規で書きます

つづく

 

中国地方100名城の旅(2)

2023年11月18日 | お城巡り

岡山から続き 付けたししました その2
岡山城付け加え その3

2日目 
米子から月山富田城へ




山城構造 190mの高低差


馬走り跡


大土塁跡




山中鹿介の銅像 主君尼子義久が1566年11月、毛利に敗れたが
その後、尼子勝久と共に富田城取り戻す 1578年毛利軍の河村氏、福間氏に
討たれた 


尼子氏が出雲を支配した拠点の城 戦で負けた後は、毛利一族、吉川氏、関ヶ原以降は
堀尾氏と主が変わる そして、堀尾氏が松江城を造り拠点を移すことにより
廃城となる 山頂から西北に延びる尾根上から、南から本丸 二の丸 三の丸
西袖が平と曲輪が伸びる


途中に現れる 七曲りと呼ばれるきつい階段


三の丸から見る景色


二の丸からの景色






頂上から見下ろす城の曲輪  このあとは、松江城にいく




月山富田城から 一国一城令で便利な松江城を築いた堀尾氏
松江城に入ります




松江城は、今回で二回目 及び岡山城 備中松山城も二回目
前は、個人出来てます  松江は前に来たときは国宝ではなく
重要文化財でした お札が見つかり築城年月が はっきりしたため
国宝に格上げされたのはニュースでも出ましたね

関ヶ原以降を築いた堀尾吉晴氏の居城














堀尾氏は1600年~1633年まで24万石* 京極忠高氏が1634年から~1637年まで
26万4千石* 1638年~1871年(明治4年)家康の孫松平直政が拝領


外観は4重 内部構造は5階建て 地下1階の構造 複合式望楼型
手前小さいのが附け櫓 瓦は鬼瓦


 漆喰の壁は少なく 黒の下見板で出来ている 


三角の千鳥破風の屋根の下、花頭窓は寺院様式


2012年発見されたお札 歴史資料館から発見され
築城が 慶長16年(1611)年であることが確認できたので
国宝に昇格したわけです


城には大事なお水 井戸 覗き込むと深いよ








太鼓櫓にあった本物


敵が攻めてきたときに知らせるために(ドドン、ドドン)と打つ




過去のお城ブログでおなじみの 急階段


よく見ると改修あとの柱と 元からの柱を見つけるのが楽しい


誰かが言ってました ウンチとおしっこ どうやって運ぶの
私は、糞尿は戦いのときに上から撒いて、敵の戦闘意識そぐため
覚えていますが でも、保存方法はどうするんですかね




西側


北側


東側


東側
天守最上階からの景色

個人で来たときは、お堀の周りを観光船で巡る コタツのある船に乗り
(この日は寒く、今季初めてのコタツ1番の日に当たりヌクヌクで)
優雅に 船頭さんのガイド付き、小唄付きで最高でした
船から降りて、内堀を一回りすると 建築中の歴史館などがありました
{今回は、完成していましたよ}  抹茶と和菓子のセットを頂きました
個人で行くと、時間が自由なので ゆっくり見て回れるのがいいが

ツアーは、スタンプ集めにはいいが ゆっくり見学できない。


岡山城入口です

今までの見学したお城 2022年以前のお城は (過去ログお出かけ)に入っています
この後は 岡山城から鬼城、備中松山城にと行きます

つづきです 第二部

岡山の地 石山という丘に城を築いたのが 宇喜田直家で、その子が
あの有名な 宇喜多秀家で 今の岡崎城になるわけでして
築城は、秀吉の指導の下で行われ 旭川の流れを利用して
北や東を守り 南北に城下町をつくりあげた
1597年天守完成だそうです


又の名を、からす城とも言われ






城の主の力を見せつけるための 鏡石 これがおおきいほど
鼻高々なわけで

 






内堀から橋を渡り入ると ここを左に回され
右に回され 鉄門跡を通り 


これをみて、お城大好きな人は分かりますよね
後ほど答えを
正面に、大納戸櫓跡が見えて奥まで進むと月見櫓




これ、築城当時の石垣だそうで 見つかった模様 保存されています





この下の部分は 築城当時のものだそうです


この部分んも




 築城当時の石垣
一番奥の廊下門をくぐり抜けて お城を見てください
五角形が分かりますから そして戻り不明門をくぐり抜けて
天守の礎石跡が見れます






岡山城の右の奥側 この城は四角ではなくて よく見ると五角形で
出来ているのです








下が膨れているのが わかりますか

ここも、石工の腕が良くなかったので 石垣が膨れてきて
補修で崩れないように、(前で述べたように)してある
穴太衆が築いた 野面積みは400年の時を過ぎても
ガッチリしてある


正面入口の左側に行って下さい ここが当時の本当のお城に出入り口
今は白い扉で塞がれている


安土城 大阪城と似ていて 外壁は黒塗り下見板
発掘調査によると宇喜多秀家時代は金箔瓦が使われていたとのこと
一階の平面が、不等辺五角形していているのには、地形に合わせて
造り上げた 左入口にところは塩櫓として使われていた


関ヶ原合戦で裏切り者の宇喜多秀家
その後は、小早川秀秋 池田氏(徳川系)と主が変わる




一番上の屋根瓦のところに ふつうは鯱があるのに
一段下にあるのは珍しい 




ここに付いているのは、桃 そうです 桃太郎伝説のもと
川を隔ててはしがあり、そこには、日本三後楽園のひとつ
岡山後楽園です 前に個人で来たときは 中に入りました
元々は 殿様のお庭なんですよ あと、時間がある人は
近くの中学校の中に 秀家が築いた時の 隅櫓が現存しています
当時 教頭先生に許可を頂き 見学させてもらいました
良かった 学校もお城の跡にたっているわけでして

さて、答えは 復元した人が 表 裏を間違えている
元来、城に中なので こちらがわは小さくて 外側が広がっているように
作るべきのはずでした

次回3日目 つづく


中国地方100名城の旅(1)

2023年11月15日 | お城巡り


羽田空港~岡山空港へ 観光バスツアーの始まり
1日目

津山城 美作に信州川中島から18万石で拝領した信長の小姓
森蘭丸の弟(盛忠政)が1603年大名として赴任小高い山
(鶴山)を城地と決め13年かけて築城
4代藩主で終わりを迎え その後は、松平宣富が藩主になる








入口から入り冠木門左に曲がり三の丸跡 二の丸跡をを抜け本丸跡へ










石垣は立派なつくり






一部公園になっているのです






本丸御殿の再現
















本丸跡地




白い服の人が 歴史ガイドの人
お城のことや、藩主のことなど説明を聞きながら巡るので為になる




天守跡


隅櫓




現存の時の写真 明治8年に取り壊しになりました


天守から見えたであろう景色 なかなか高低差もあり、
まあまあのお城でした

この後は、移動 鳥取城へ向かいます






鳥取城に入る手前右に見えるのが仁風画国指定重要文化財
1907年旧藩主、鳥取池田家14代目【池田仲博)が建たものです フランス風ルネサンス様式洋館
庭園は江戸末期、12代藩主(徳川慶喜の兄)池田慶徳が作りました






西坂下御門からの入城

続から

1573年、因幡の国(鳥取城)を収めるために来る  戦闘の時は、上で戦い
普段の暮らしは麓で 山はつちからなる 土塁、切岸 竪堀の城づくり 山名豊国氏
羽柴秀吉、総大将の基 中国地方攻め毛利方の最前線鳥取城を2度に渡り攻める
歴史に残る兵糧攻め 吉川経家は部下と民衆を守るため自害した
鳥取の(渇え殺し)と言われいる 秀吉の三大攻略の一つである
この後は、秀吉の配下 宮部継潤氏石垣や天守を築き 近世の城の形にした
息子の長房は、関ヶ原で朝来の武田城の城主 赤松氏などに攻められ
鳥取城は開城 その後は姫路城を築いた池田輝政の弟 池田長吉が入ります
鳥取池田家は江戸幕府以来徳川一門として厚遇されました






お城の階段は2種類ありまして 一つは膝くらい高い石段 これは、攻め込む相手が
登るのが大変一度の上がれない 二つ目は時代が変わり、殿様が馬に乗ったまま
登城出来るように馬の歩幅で登れるように低く長い間尺で出来ている


登り石垣階段で 本来の目的は竪堀の役目をしている、階段跡






古くはないですね






上へ上へと上ってきましたが 今回は、二の丸までなのです これが、ツアーの弱み








この円い石垣は何ですか?  これは、石垣が崩れるところを抑えるための
修復工事の跡 これがあるということは、石垣が上手に作られていないということを表している
ということになります ここは、NHKのお城番組で 千田先生が説明されたところです
時間が経つにつれ水抜きが上手くできていないと 石垣が外圧に押され 石が外に飛び出してくる
城造りが下手だったということになります この後に廻るお城の石垣に膨らんだ石垣が出てきます
のちの報告で、


この上が本丸跡地  さらにその先が太閤ヶ平、片道1時間半のコースになっています
私たちは時間の都合、三階隅櫓跡から円い天球丸まででした 33万石鳥取池田家城
見学終わりです 

次の日は、月山富田城~松江城~岡山城へ行きます

2023年新潟のお城

2023年08月14日 | お城巡り


8月15日 追加編集 村上城について、少し詳しく

今回は新発田城と村上城に行く  新発田に着くと
清水園に寄り道 ここは、越後新発田藩の初代藩主
溝口秀勝が1598年加賀大聖寺より六万石で配置
以来12代まで納めた  この庭園は三代宣直が清水谷と
呼ばれたこの地に下屋敷として建立


武家屋敷








清水園入口






広さは、四六〇〇坪 近江八景を取り入れた 京風の庭園


大池泉を配置した回遊式庭園








紅葉ではないですよ 紅い葉の木


















下級武士の長屋




二間 台所のみ


移動し お城に向かう








新発田城に到着 外からの景観


正面左側の隅櫓




正面 表門 重要文化財に指定されている
石垣は、切り込みはぎ積 1689年のもの


右側隅櫓 辰巳櫓




右隅櫓の中




展示物室


左隅櫓 1615年武家諸法度後の築城なので、天守閣は無い
三匹の鯱の三階櫓はここだけ




100名城の中でもがっかりさせる城の一つ
何も残ってない 後ろ、横、すべて自衛隊に敷地を取られ
一部しか 城として残ってない 水戸城と同じ

初代藩主のひ孫で、新発田生まれの忠臣蔵で高田馬場の
助太刀で知られる 堀部安兵衛で有名なのに残念だな

ここは これで、おしまいにして北上する
100名城ではないが 村上城に行く

村上市の東にある臥牛山 135メートルにある城
戦国時代に築かれたとも 特定はされていない
この城は本庄城と呼ばれ鎌倉時代からの国人
本庄重長は、上杉謙信に従え 川中島の戦いでは
有名な武将だったのだが、 上杉と対抗していた
芦名氏 伊達氏とも付き合うなか そして
1568年 武田信玄と手を組み上杉に謀反を起こす
その後、和睦 息子を人質として戦いは終わり
時代は秀吉の天下 堀秀治の臣下、村上頼勝が治めることに
9万石 その後はコロコロと城主が変わる 徳川の時代
本田忠義 松平直矩 徳川の譜代内藤氏と続く




山城なので登っていく


道幅は広く コンクリート道なので歩きやすい観光用




段々登っていくと、古い石垣が出てくる


真ん中に大きな木が現れる これは年数が経っている


表示がないので 三の丸跡か 二の丸跡地かな


なにものこってないが 櫓跡があったと想像して
松平直矩の時、かつては、三層の天守櫓が存在してた






東西南北の隅櫓跡地
出櫓跡と呼ばれる二層式の櫓があった
雪櫓跡は武器庫として 使用されていたと












石垣は素晴らしい 古くて当時のものでは、と思われる
門は七か所あり 本丸に行くには城の周りを回されていく感じ
城主が何人も変わっているので その時代の工事に使われている石が
違うので石垣の種類も違うのが楽しめる








積んである石垣の年代が 違うのがお分かりかな


これなどは、四角に切ってから積んである 切り込みはぎ


歩いてきた登城道
全体とし総構えの縄張りで 町全体を守る
小田原城と同じ構造




やっと、頂上に着く 下の街が見える
ここが、本丸跡地この下が 二の丸 さらに下が、三の丸跡のようだ
これにて、おしまいです



四国100名城の旅(5)

2022年08月26日 | お城巡り












街の中に残る城跡 復元武家屋敷が2軒あるだけ


天然の岩盤を利用した この上の小高いところが城






階段の急な所は一丁前


1180年 湯築城は 源平合戦で河野通信が頼朝軍につき
壇ノ浦で水軍を率いて功績をあげ 1192年伊予の国
松山あたりを所領 承久の乱後鳥羽上皇方につき敗北
細川軍と戦いがあり 負け和睦し足利将軍家と結びつき
大内 大友 毛利 中国山地三大勢力と同盟をもち伊予守護大名になる
1535年頃、村上水軍と関係を強化 秀吉の四国攻めにあい
1585年小早川隆景に湯築城を明け渡す 河野氏滅亡

今日は奥道後温泉に泊まる

3日目 最終日

丸亀城に着く




お堀跡




丸亀城は 秀吉に信頼されていた生駒親正により1597年
高松城の支城とし亀山に築かれる 1615年一国一城の制度により
廃城 その後天草の山崎家治の領地となり亀山城を
築城するが、1656年焼失 翌年山崎氏廃城 
そのあと、京極高和が藩主 1660年丸亀天守完成
66mの高さに築かれた平山城 本丸 二の丸 三の丸帯曲輪
東西540m、南北460m 石の城と言われ石垣が有名








大手門跡 切り込みはぎ 見せる権力者力の魅せ比べ


大手一の門


三の丸石垣は一番高い20m以上ある






山崎氏の時代の石垣が残る 野面積み 打ち込みはぎ 切り込みはぎ
石には普請した 家臣マーク △ 田 よく刻まれている印
探してみるのもいい




二の丸跡




本丸跡地と天守が見えてくる
3層3階15mの高さ 1650年日本一小さい現存12天守
重要文化財に指定されている










お決まりの東西南北の景色
移動します 次は高松城














1587年前にも出てきた 生駒親正の平城
海水を水堀に使う 日本三大水堀城の一つ
生駒氏が改易のあと 出羽の国(秋田県)に格下げ
1642年常陸の国(現在の茨城県下館藩主)
松平頼重(徳川家康の孫 <光圀>の兄上にあたります






本丸と二の丸を結ぶさや橋


水堀は干満の差があるため、水門がある




月見櫓 水手御門 渡櫓 太鼓櫓など重要文化財に指定されている


高松藩と彦根藩は縁組にしていて 彦根藩主井伊直弼の次女
千代姫を輿入れしている間柄




天守跡


奥どまりの門まで来た


朝日門かな


今後天守閣復元計画があるらしいがコンクリートはやめてほしい

最後の徳島城跡はこてこて歩き博物館まで連れていかれ
100名城のハンコ押しツアーみたいで何時まで戻るように
時間が足りず 上のほうに小高い本丸跡とか 二の丸跡地まで
行かれない これがツアーのやなところ、じっくり見れないもどかしさ
帰りの飛行機の時間により 少しばかりカットされたかな

徳島城は細川氏の居城であり 秀吉の四国攻めのあと蜂須賀家正が
領主となる61m高所 山城であるが石垣は本丸の一角に
残り280年続いた歴史ある蜂須賀家が治めていた
徳島城ガイドを見る限り上の所を登ると石垣跡とか
搦手門あと 見るところはありましたが
私たち見ることはできませんでした
個人で行く人は 上まで行って見てください

これにて、今回の四国100名城の旅はおしまいです


四国100名城の旅(4)

2022年08月20日 | お城巡り

2日目
お宿から宇和島城へ行く


駐車場から歩いて、すぐに待ち構えるのは急な階段


右へ左へと振り回されて登る


歴史的には、天正3年(1575)西園寺宣久が板島丸串城の城主となる
慶長元年(1596)藤堂高虎が板島城の築城を始める
当時の地名が板島と呼ばれていたから 1601完成
しかし高虎は今治城に移り ここは城代の任せる その後1608年
富田信高が宇和10万石として1608年任されるが
1613年改易され 高虎預かりになる
1614年 東北伊達家から伊達秀宗(秀の字は2代将軍秀忠から一字もらう)
板島から宇和島に変更される




井戸丸門跡 深さ11m さらに進む


さらに急な階段を上り




藤兵衛丸 高虎時代の石垣が残るところ
二の丸跡を通過し本丸跡地に出る








小ぶりの天守が見える


現存12天守の1つ 1615年伊達政宗の長男秀宗が入城 
西国伊達家9代の城 重要文化財に指定されている
2代藩主宗利が1666年建築したもの高虎の城を撤去し
新しく自分の城を築城 千鳥破風 唐破風 武者走り
武者窓など備える 海水をお堀に入れている
本丸までは一の門 二の門 三の門を通らなければここまでたどり着けない


入城 当時の材木 古い時代をぃ感じながら
400年の歴史たまらんばい












最上階からお決まりの 東西南北の景色


高虎時代の石垣が残る野面積み


長門丸と呼ばれ 家臣の名が付いている 算木積み

宇和島城を後にして次に向かうは大洲城


高台にある 街からよく見える




駐車場から街並み 公園見ながらあるく


民家のすぐ後ろに石垣が残る 残し方があるだろう


昔の石垣が残るが残す方法あるだろう



この残し方


復元天守




中は木造で国産木材を使用


2004年に復元








大洲城は1888年天守が取り壊されてしまう
台所櫓と高欄櫓は残り現在は重要文化財に指定されている






大洲は1585年羽柴秀吉の四国平定後
道後湯築城を本拠地とする小早川隆景の枝城となる
戸田勝隆に代わり 次に高虎に移り 脇坂安治が洲本より入り
1617年に 加藤貞泰が米子より入城 4郡6万石所領
以後加藤家のお城として築かれていく

昼食後 湯築城に行く

四国100名城(3)

2022年08月04日 | お城巡り

午後から 高知城

元々は長宗我部元親の領地 関ヶ原合戦の功績で
遠州掛川から入国した山内一豊が治める






高知城石垣は近江の穴太衆によるもの 雨の多い高知
崩れにくく排水能力にかけた石垣になっている


三の丸では長宗我部元親が 築城当時の際の石垣がある
追手門から登り杉の段に入る 石落としの仕掛け
大井戸のあと通過 鉄門跡詰門 桝形になり
防御している 




鉄門




右手前三の丸 右手に二の丸 左手に本丸 天守閣が見えてくる


詰門 橋廊下 2階が家老、中老など詰め所になっている




内部三層六階外観四重の天守1749年再建 
一階北東角には全国唯一 現存忍び返しがある




右手奥にある 黒鉄門


1727年大火にて焼失 1753年完成現在の天守20年以上
かけて再建された




本丸御殿上段の間
本丸には 天守、納戸蔵、廊下門、東多聞、西多門、黒鉄門など
建造物が残る 現存12城の中でも 本丸御殿があるのは
高知城のみで国の重要文化財指定にされている


中庭があり 不思議な城


畳敷きで、生活感が残る 本丸天守 合体した城見るべし


上から見る廊下門


ミニチュア


急な階段は上から槍攻撃 狭い階段では一気に
攻められない 敵は階段の上の柱があるので
刀がふれない








縄張り地図












上から見る景色




かぎ状に曲がる石垣 死角をなくして どこからでも矢浴びせられる


忍び返しだ







城を守るお堀は三分の一ほど 堀の幅も半分くらい狭くなり
土塁もなくなっており 規模は相当小さくしか残されていない
また、城の近くには 山内家資料館 山内容堂の下屋敷(国指定重要文化財)
大政奉還に関係した後藤象二郎 土佐勤王党(武市氏)など見るところもあります

1日目のお城観光はおしまい 本日高知市内にてお泊り
次回、2日目は 宇和島城、大洲城などに行きます

四国100名城の旅(2)

2022年07月27日 | お城巡り



1日目 
今治城




バス車窓から


黒鉄門から入城

築城の名手 藤堂高虎 関ヶ原の功績で1602年築城開始
5年で完成します

その後 高虎は伊勢・伊賀に移り 今治城には養子、高吉が治める
1635年 家康の甥 松平定房が3万石にて城主となり
石垣と内堀が完全に残っており 今に続く


内堀 中堀 外堀三重の水堀で囲まれて
堀には、海水が入ったお堀 近くの海と繋がる




内堀の幅は50m~70mあり 弓矢が届かない距離
石垣の高さは9~13m砂の上に建つ城で
軟弱地盤の上に建つため 【犬走り】と言われている
地盤強化を施しは高虎の技術の高さを示している


桝形虎口 と多門櫓で囲まれている




二の丸跡 二の丸御殿に着く




天守閣が目の前に
当時は五層天守 1980年に再建されたコンクリートレプリカ天守
内部は、歴史資料館 自然科学館となる








最上階からの景色


本丸跡地に建つ神社






山里櫓 後ろの出口 搦手門


犬走が良く見える場所 高虎の石垣技術も



このあとは、遅めの昼食のあと
高知城に行きます