梅様の教室

独り言

書評④

2014-02-28 16:14:34 | Weblog


   筆者はコッツウオルズのような海外の第一級の村が日本全土に名を馳せることになってしまった、とまで書いているのですが、あなたはこの村を知っていますか?まあそんな筆者の思い込みはそっとしておくとして、イギリスでは、以前からある街並みの雰囲気と異なる場合、クレームをつけることができるのだそうです。したがって、イギリスの街中に自分の好みでログハウスを建てることなどできる雰囲気ではないわけです。その結果、古くからの街並みは半永久的に保存されていくことになります。上の写真に見られる街並みとは大違いですね。獨協大学にほど近いこの新興住宅地では、街並みの統一感といったものは一切考慮されていません。イギリス人が見たら卒倒し、筆者が見たら怒り心頭に発することでしょう。しかし民主主義国家というのはそういうものなのではないでしょうか。

   またイギリス人はしっかりとした家を建てるので、(本当にイギリス人は全員アパートや借家には住まないで暮らせるのでしょうか・・・・)、年季が入った家ほど値段が高くなり、日本の家のようにどんどん値段が下がり、しまいには土地の値段しかつかないようなことはないそうです。かえって古い家の方が風情があって好まれ値がつくのだと言います。それに引き換え日本人の建てる家は長く住むということを念頭に置いた家がないと著者は嘆きます。

   私の考えでは、日本人は家というものを耐久消費財というよりは消耗品と考えているのではないかと思います。日本人だって家が長持ちした方が良いに決まっていますが、日本の歴史が日本人の体内に刻み込んできたDNAが、家というものを消耗品と受け止める思考回路を作っているのではないでしょうか。

   これは著者も認めていることですが、日本の夏は高温多湿、冬は底冷えがします。この気候に適応するために造られたのが日本家屋です。木で柱を作り、壁は土で硬め、部屋と部屋の間は細い木でできた枠に紙を貼ったもので仕切ります。床は植物の細い茎をまとめて板状にしたものを敷きます。この構造が、多湿な時は湿気を吸い、乾燥すれば湿気を吐き出すと言う仕組みを作っているのです。

   ではこうした建造物にどれほどの耐久性が期待できるのかと言えば、専門の大工が腕をふるった大寺院や仏閣を除けば、さしたる耐久性はありません。地方へ行けば一千万円で売れそうな梁を載せた家もありますが、それはそれで冬になると途方もなく寒く、居住性はあまり良くありません。かつて3月末富山県のそんな家に宿泊した時は、石油ストーブをガンガンたいていたにもかかわらず、布団の中でも凍えそうでした。

   そして、これが一番大事なことだと思うのですが、日本は世界に類を見ない災害大国だということです。この本の初版は平成16年です。もしあの東日本大災害を見ていたなら、筆者もこのことに気がついたかもしれません。日本では数百年に一度襲う大地震や大津波で、多くの家屋が潰されたり流されたりして、きれいさっぱり地上から姿を消してしまいます。そこまでいかなくとも、かつては台風が来るたびに洪水が起こり、戦後においても数千の死者を伴う大惨事が発生していました。江戸川区に住んでいた頃、私の家の裏の家の軒先には緊急避難用の小舟が常につるされており、そんな家が葛西にはたくさんありました。

   足立区と埼玉県の間に、幅跳び選手なら飛び越えられそうな狭い川(毛長川)があります。この川は今でこそどぶじゃないよね川だよね、という程度ですが、古墳時代は幅が数百メートルもある川でした。鎌倉時代浅草寺は隅田川の中州にありました。徳川幕府が利根川を掘るまでは、現在の隅田川にあの水が流れており、常に洪水が起きていました。荒川放水路は大正時代に、中川放水路は昭和になって掘られました。江戸川も河口近くで二股に分けられました。日本というのはここまでしないと水害の危険から逃れれられない国だったのです。

   水ならぬ「火」の方では、かつて九州ではこれによって縄文人が全滅したのではないかと言われる大きな噴火が幾度も起こりました。その名残が阿蘇山や鹿児島湾なのです。東日本では富士山を始めとする火山の噴火が幾度となくありました。浅間山の麓に行けば、火砕流に飲まれた村がそのまま埋まっています。 

   応仁の乱では京都市街全てが焼けつくされました。東京大空襲では下町一帯が2時間で焼け野が原になりました。原爆のことは言わずもがな・・・・。不動産屋が3年に一度敷金を取るのは、かつて江戸の町は3年に一度くらいの割合で大火があり、その都度再建しなければならなかったのが始まりだと言う話を読んだことがあります。したがって日本人にとって、家を建てるのは一生一度の大仕事であると同時に、子供の代には再建しなければならなくなるだろうという覚悟の下、ほどほどの耐久性で手を打っているのだと思います。

   ではイギリスはどうか。イギリスは実に地盤が安定しています。火山も無く、台風も来ません。山と言えるほどの山も無いので、川の氾濫もあまり考える必要がありません。石か何かで壁を組んでも、大地震で崩れる心配もないのです。地震がないので津波も来ません。家が潰されたり流されたりする心配はなかったのです。こうした国で、家というものが百年を超えるスパンで耐久性を持たせる物になったことに何ら不思議はありません。

   問題は筆者がこうした気候風土歴史の違いを一顧だにせず、一方的にイギリス人は偉くて日本人は駄目だと断じていることです。著者の著作と言えば、「いつかイギリスに暮らす私」「イギリス式時給900円から始める暮らし」「イギリス人の格」など、ひたすらイギリス人を崇拝するものばかり。日本と日本人の優れた点を見出すことが出来ない筆者は、本当に気の毒な人だと感じます。

   最近買った本に、ドイツと日本を比較したものがあります。この本の筆者は冷静に判断し、日本に軍配を挙げていました。やはり盲目的に外国を崇拝するようではいけませんね

書評③

2014-02-27 17:39:12 | Weblog

   「日本人の中高年に人気のイギリスの庭、インテリア、暮らし」というのが筆者の見方らしく、この本はそんなタイトルから始まっています。ある旅行者が中高年向けにイギリス人の家庭にホームステイする一週間というツアーを企画したら全国から申し込みが殺到したともあります。筆者によれば、日本人には潜在的にイギリスに対する強い憧れがあるのだとか。

   私は元英語教師です。しかし残念ながら日本人が潜在的にイギリスに憧れているとか、イングリッシュ・ガーデンがブームだなどと感じたことはありません。筆者は人生の転換期を目前に控えた中高年層がイギリスの村々に押し寄せていると主張するのですが・・・・。私は不幸にして、いまだかつてイングリッシュ・ガーデンなるものを国内で見たことがありません。こうした前提を組むこと自体が、筆者の思い込みによる目の曇りではないかと思います。第一、イギリスなんて世界地図のどこにあるか知らない人の方が多いのではないでしょうか?こうした曇った目で日本という国を眺めている筆者には、日本に対する残念な意識というよりは、イギリスを知っているという優越感さえ感じられます。

  イギリスの田舎には変わらぬたたずまいがしっかりと残されているのに対して、日本の田舎はどこももう東京とあまり変わらないのではないかと筆者は言います。部分的に昔風の家が残されている半面、都市機能が日本全国の隅々にまで張り巡らされ、コンビニや自販機がどこにでもあるので、便利さは向上したが、伝統的な景観は確実に崩れてしまったともあります。古い木造家屋、藁ぶきの家はプレハブ住宅の陰に隠れ、もはやただの廃墟と化してしまったのだ、と断じています。

  この本の末尾近くの見出しにはこうあります。

  「なぜ日本人はイギリスに関心を寄せるのか。そこには我々が求めていた暮らしがあるからだ。」

  とりあえず、著者が賛同してくれそうな家屋の写真を載せてみました。多分前にもこれを載せたと思います。私たちはこうした伝統的家屋と、筆者がプレハブと切り捨てた近代的な家屋と、どちらに住むことを望んでいるのでしょうか。なかなか微妙な問題です

書評②

2014-02-26 15:49:50 | Weblog
    昨日は続きを書こうと思ったのですが、整体へ行った後もみ返しがひどくて何をする気力もなく、卒業生からのメールにも返信しないまま過ぎてしまいました。今日も引き続き、日本の文化、風土、歴史に無知なまま盲目的にイギリスを肯定し日本を否定している人物が書いた本について論評を加えていきます。今日はトイレについてです。

   「イギリスのトイレは通常風呂場と同じ部屋にあり、通常バスルームと呼ばれている。」こんなことを平気で書いていることに既にこの人の無知さ加減が現れていますね。そんなことをいちいち断らなければいけないほど日本人が無知だと思っているのでしょうか。

   「地方に行くと、家のサイズに合わせてバスルームも10畳以上もあるような広いものが多い。そこには厚手の絨毯が敷いてあり、隅には椅子が置かれ、その上に雑誌が並べてある。壁にはリビングや寝室同様、絵が飾ってあり、窓にはきれいな色のカーテンがかけられてある。」申し訳ありませんが、いかにイギリスといえども、こんなバスルームを所有している家は多くないと思いますね。少なくとも真の労働者階級の家の様子ではありますまい。一方比較対象になるのは日本の一般家庭ということになるのですから、これはフェアな比較とは言えません。

   従来日本のトイレは、住居とは切り離されたものであることが多かったのです。古い農家に行けば、トイレは母屋とは離れた場所に造られており、更に別の場所に風呂場が設置されていました。江戸時代の長屋ではトイレは別棟の共同便所、風呂は銭湯まで通っていました。この銭湯文化は私が20歳位まではしっかりと日本の生活に定着していましたね。

   著者は、日本の夏がいかに湿度が高い蒸し暑いものであるかを知らないのでしょうか?そんな気候風土の中で、トイレを生活空間と切り離しておくことは、衛生面から見て大正解なのです。風呂場を母屋から切り離して別棟にするのも全く同じ理由からです。日本人は、寒い冬にいったん外に出なければならないという不便を承知の上で、夏場の衛生を優先したのです。だからこそ、トイレのことを「ご不浄」とも言うのです。

   一方でトイレは、「ご」不浄という通り、ちょっぴり敬語を使って表現もされています。「トイレには、それはそれはきれいな女神さまがおるんやで~・・・」なんて歌は、日本以外でははやらないでしょう。トイレ掃除をすることが精神修養であるとされる場合もあります。こうした感覚は、欧米人にはありません。もちろんこの本の著者にも。こうした感覚を抜きにして、中身の造作だけを見て比較し、日本のトイレを馬鹿にするのは筆者の無知が為せるわざだと言わざるをえません。「くつろぐならなにも風呂場に椅子や絨毯を持ちこまなくったて他の部屋を充実させればいいではないか、イギリス人のこだわりは変!」とはならないのが筆者の盲目的なイギリスびいきの表れなのでしょう。 

   そもそも江戸時代の長屋は土間+四畳半一間」です。押し入れもありません。布団を畳んだら部屋の隅に積んでおき、その前に屏風を立てて隠し、寝室から居間に早変わり!という切り替えセンスで300年間やって来たのです。どこに10畳のバスルームが入り込む隙があるでしょうか。それとも著者はそんな江戸庶民の生活を見下して愚弄する人なのでしょうか。

書評

2014-02-23 17:02:08 | Weblog
   以前、「日本が世界で一番貧しい国である件について」という本についての書評を書いて著者の無知をこきおろしたことがありますが、他にも似たような手合いはいるのですねえ・・。共通して言えるのは、日本の歴史・風土・文化についての知識がゼロのまま、イギリスと比べて日本はなっていないという切り捨て片をしていること。今後英語教育に力を入れれば入れるほど、こういう手合いが増えるに違いありません。

   今度の本は、「古くて豊かなイギリスの家・便利で貧しい日本の家」というタイトルです。一読しての感想は、著者はイギリスのものはすべて良くて日本のものは全て駄目であるという前提でしか物を見ていないと言うことでした。いきなり細かい部分から入ってしまって恐縮なのですが、著者によると、イギリスでは高層アパートを建設したところ、住民の子供たちが荒れて手がつけられなくなってしまったので、高層アパート自体を取り壊してしまったのだそうです。高層アパートに住んだら子供が荒れる・・・・。日本ではそんな話は聞きませんね。そもそも高層マンションに住む人たちは日本では富裕層に当たるので、生活は豊かです。荒れたりしません。イギリスではもともと荒れる要素を持った人たちを高層アパートに詰め込んだのではないかと疑ってしまいます。第一、高層アパートに住むことと子供たちが荒れることの間の因果関係は証明されていません。

   ところで、子供が荒れたからといって高層アパートを取り壊してしまったという同じイギリス人が、実にいい加減な食生活を送っていることについて、著者は逆に褒め称えています。大方のイギリス人家庭では、冷凍食品をまとめ買いして、それをチンして出しておしまいなのだそうですが、そういう食事を続けていると子供が荒れやすくなるということは統計的に証明されていたように思います。しかし著者は栄養バランスや味付けを考えて毎日頭をひねっている日本のお母さんたちが、まるで意味のない努力をしていると切り捨てているのです。

   著者も日本では食事は教育や健康と並ぶ大切な価値観であると認めながら、イギリス人はそんなことは考えていないとし、ここでもイギリス人の考え方の方が優れていると言い切っています。そもそもフランス人に言わせればイギリスには料理はない、「餌」があるのみだと言ういくらい、イギリス人の食事はまずさで有名です。食文化という言葉があるくらい、食事はお国柄を表すものです。休日、親が在宅であるにも関わらず、子供の昼食に食パンでも適当に食っとけというくらい、食に対していい加減なお国柄です。しかし、この点についても著者はとても肯定的なのです。やはりイギリスのやりかたが全てにおいて優れており、イギリスと日本のやり方が違う時は無条件でイギリスが正しいのだと言う思い込みに立っているとしか思えません。

   今日は「食」について書くだけでスタミナが切れてしまいました。本日はとりあえずここまで

女子選手には魔法が必要だ

2014-02-20 18:21:01 | Weblog
   浅田真央がリンクに登場した瞬間、今日は駄目だと思いました。前の選手が終わった途端リンクに出て来て滑り始めた姿は、私には既に平常心を失っていたように思えたからです。前の選手の点数発表が終わった所でおもむろに姿を現すという心のゆとりを失っていたように思います。あるいは事前に大人数で圧迫を加えて来た韓国のマスコミの影響もあったのかも知れません。結果論になりますが、ずっとニヒルなタラソワにコーチを任せていたら、もう少しマインド・コントロールが出来ていたのではないでしょうか。

   それはそれとして、競技選手にはピークというものがあります。かつて日本には飯島秀雄という天才的素プリンターがいました。四谷の交差点で死亡事故を起こして市原の交通刑務所で実刑に服し、本来であれば陸連の役員になっているべきところを、故郷の水戸市でスポーツ用品店を営むという、至って地味な後半生を送っています。

   彼は東京オリンピックの年に、それまでの自己記録を一気に0秒4短縮し、10秒1の日本新記録と共に五輪前の世界最高記録を出していました。しかし本番では走る度に記録を落とし、惨敗という結果になりました。4年後のメキシコオリンピックでも電気計時で10秒34(これは東京オリンピック時の10秒1に相当します)を出汁、準決勝にまで進出しましたが、そこまでで終わってしまいました。

   実は彼の競技選手としてのピークは、東京オリンピックの翌年に来ていたのです。この年彼は東京オリンピックで2位に入った選手と、後にメキシコオリンピックで6位に入った選手の両方を同時に破るなど、大活躍でした。しかし、メキシコオリンピックの時には、残念ながらピークは過ぎていたように思います。

   浅田真央選手はまだ若い選手なのですが、年齢に関係なく、精神的にピークを過ぎてしまっていたように私には思われます。あるいは彼女のような選手を男性がコーチするのは無理があったのかもしれません。今更あれこれ言っても仕方ないのですが、女子選手にはその選手に魔法をかけられるコーチが必要です。最後に彼女を指導したコーチには、魔法をかける能力に欠ける、普通の真面目な人、という印象が強いのです。

   浅田選手に魔法をかけられるコーチが付いていたら、精神的にもまだ数年は持ちこたえたのではないでしょうか。私自身の部活指導体験から言っても、女子選手には魔法をかけることが必須です。ただ、魔法をかけることができる能力は、どうやら先天的に備わっているもので、出来ない人にはいかに努力しても出来ないものなのです。失礼ながら、浅田真央選手はコーチの人選を誤ったのではないかと思います。

ここまでやるのは狂気の沙汰でしょう。

2014-02-18 15:05:02 | Weblog
   以前安倍首相は3、000円のカツカレーを食べたと言って朝日新聞に攻撃されたことがありました。本当に下らないことで上げ足を取ったものだと思っていたら、大雪なのに高級な天ぷらで会食をしていたと言って民主党が首相を攻撃したそうですね。まともな政策論で勝負しろ、この愚か者め!と言いたくなりました。

   さて、本日の本題。今やインターネットで検索すると、さまざまなテーマで恐ろしいほど多くの人が画像や持論をアップしています。たまたま見つけた動画を見て私は心の中で「え?え?え?」と、「え?」を三回叫んでしまいした。いや、高橋留美子の漫画のように、「え」に「〃」を着けたいくらいあきれてしまったのです。

   それは、東方神起の先輩に当たるというグループが歌っている場面の動画です。なぜか何と言う名前のグループなのか明らかにされていないのが納得がいかないところですが、その歌の内容が紛れもない「反日」。さすがは韓国と思わせるほど、ねちねちと理屈っぽくて過激な歌詞です。別に韓国人の歌手が反日の歌を歌うくらいでは、ふん、馬鹿め、くらいで気にもしないのですが、問題はこの歌を歌うのに、アイドルグループっぽく、いかにも韓国という振付で、ダンスを伴っているところです。こうなると、気は確かなのかと疑いたくなってきます。

   たとえばPSYか誰かがおふざけっぽい振付で日本を揶揄する歌を歌うのであれば、十分理解できます。しかしアイドルグループがそれらしい曲に乗せてアイドルらしいダンスをしながら反日の歌を歌うとなれば、もう狂気の沙汰としか言いようがありません。韓国人が正気を取り戻す日は来るのでしょうか・・・いや、それ以前に、韓国人が正気だった時代というものが歴史上存在したことがあったのでしょうか。

   昔ロシア領内でロシア風の家に住み農業を営んでいた朝鮮人達は、いたって正常で、半島に住む朝鮮人特有の民族的欠点は少しも見られなかったといいます。韓国人も外国に住めば民族の根性が変われるのでしょうか?現在アメリカに居住し、従軍慰安婦少女像を建て、日本人の子弟に対する嫌がらせやいじめにふけっている韓国系アメリカ人を見ると、そんな期待は到底持てないように思います。

   中国にすり寄りながら、オリンピックでは中国選手に平気で暴力を振るう韓国人選手。絶対にまともではありません。    ああ、また書いてしまった・・・・。
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やっぱり駄目だケネディ大使

2014-02-15 16:36:03 | Weblog
   東京裁判と南京大虐殺に関する百田尚樹NHK経営委員の発言を理由に、ケネディ駐日大使に対するNHK放送のインタビュー要請が拒否されたそうです。百田委員は東京都知事選挙に出馬した某候補の支援演説で「南京大虐殺はなかった」と発言したからだそうです。

   そもそもアメリカは戦前、一貫して中国が捏造する作り話の方を採用し、日本に対する攻撃を続けていましたが、あの時期であれば、ためにする方策として、許し難いが、政策としてはありうるとも言えます。しかしこの期に及んで中国の一方的な作り話を盾にとるのは、許しがたい背信行為です。

   日本の歴史教育においても「良心的」な歴史教師たちが南京大虐殺を糾弾する授業を展開しているので日本人の多くもこれを信じているのではないかと思いますが、人口が30万人など到底いなかった南京でどうやって30万人を殺したのか、どなたか教えていただきたい。また、大虐殺があったと言われる直後から中国人達は続々と日本の占領下にある南京に集まって来ていた事実をどうとらえるのでしょうか?

   30万人というのは、これくらい大目にふっかけとけばいいんじゃないかと、中国共産党が適当に定めた数字です。政治的な意図を持って「定めた」数字であって、実際の統計とは何の関係もありません。どうしても30万人と言いたいのであれば、被ばく者名簿のように、30万人の戸籍と年齢、生年月日、性別、氏名などを正確に示さなければなりません。ありもしない大虐殺を取り上げてインタビュー要請を拒否するなど、ケネディさんは、歴史的な素養も大使としての資質もないことを告白しているようなものです。第一、一経営委員が個人的立場で発言したことを根拠にNHKそのものの取材を拒否するなどあってはならないことではないでしょうか。

   この際はっきりさせておきましょう。そもそもアメリカ人にそんなことを言う資格があるのかどうか。イギリスで食い詰めた初期の移民がアメリカにやって来た時、インディアンたちは白人たちよりもはるかに豊かで平和な生活を営んでいました。今にも飢え死にしそうな白人たちに救いの手を差し伸べたのもインディアン達でした。しかし白人達はそれに対して感謝するどころか、平和を愛するインディアン達に対する虐殺を際限なく続け、奥地へ奥地へと追い込んで行きました。そして、白人というのは存外狡猾な人種なのかもしれません。インディアンたちがなかなか減ってくれないので、彼らの食糧源を断つことを考え、大平原を埋め尽くすほどいたバッファロー=野牛を片っ端から撃ち殺しました。西部劇のヒーローで有名なバッファロー・ビルという人物がいますが、彼は一日の内にバッファローを5,000頭撃ち殺したというギネス記録?の持ち主です。


   インディアン達を虐殺し続けた戦果として広大な土地を手に入れたアメリカ人は、今度は土地は手に入れたものの、農地を耕してくれる人手がいないいことに気づきました。誇り高いインディアン達は絶対にアメリカ人の奴隷になることを拒否したからです。そこで考えたのが、。アフリカから黒人奴隷を連れてくることでした。今風に言えば、アフリカから拉致してきたのです。1,000㌔以上もアフリカ大陸を歩いて横断する過程で沢山の黒人たちが死亡しました。アメリカに渡って来る船の中でも、不衛生で狭い船室に押し込められた黒人たちが沢山死亡しました。途中で産気づいたために海に投げ捨てられた黒人女性もいました。

   アメリカに連れて来られた奴隷たちは「奴隷」ですから「奴隷」としての扱いしか受けませんでした。黒人奴隷を殺そうが犯そうが、白人の勝手でした。建前として法律上黒人が白人と同じ権利を獲得したのは20世紀半ばになってからです。リンカーンが奴隷解放の父としてたたえられていますが、彼は肥沃な農業地帯である南部を手放さないための南北戦争に当たって、言葉だけの大義名分を考え、北側に箔をつけたに過ぎません。

   またアメリカは、太平洋のかなたへ進出することを国是としていました。アメリカ人達はそうすることが神から与えられた使命だと信じていたのですから始末が悪いといったらありません。ハワイ王国を勝手に併合した後はフィリピンに触手を伸ばし、あのマッカーサー将軍の父であるマッカーサーパパは、フィリピン人達を40万人も虐殺してフィリピンをアメリカの物としたのです。40万人です。でっち上げの南京大虐殺と違って、こちらは事実であるにもかかわらず、アメリカ人はこれに対して何の反省も謝罪も補償もしていません。あろらく普通のアメリカ人はこの事実を知らされてもいないのではないかと思います。

   あのペリー提督も、日本が万一てこでも言うことを聞かない場合には、日本に対して攻撃を加える許可を得ての来日でした。アジアの東の果てで奇跡とも言える独自の文明を築いていた日本。日本がもう少し遅れた国であったなら、間違いなくフィリピン人と同じ運命をたどったに違いないのです。

   ケネディさんはもしかしたら史上最低の駐日大使になる可能性があります。彼女には政治はわかりません。歴史も知りません。何を言ったら日本人の逆鱗に触れるかなんて気にもしていません。一日も早くアメリカへ召還していただかないと、日米関係にひびを入れる張本人になる可能性がありますね

おもろうてやがて悲しき中国人

2014-02-14 14:57:45 | Weblog
   中国には節日病ということばがあります。今週やった中国語の例文で登場したのですが、共産党の幹部が「付け届け」をもらえる日があるのだそうです。この付け届けとは日本でいうお中元やお歳暮に当たるのではないかと思われますが、この付け届けのその後の成り行きが面白いのです。

   付け届けは地位が高ければ沢山もらえる訳で、権力を握っている人間の元へは沢山の付け届けがあつまるのは当然です。その中身は酒とか煙草ということになるようですが、人間そんなに飲んだり吸ったりはできません。そこで登場するのが、これらを買い取る業者。業者はこうした付け届けの品物を6掛けの値段で買い取り、再び本来の値段で販売することにより、暴利をむさぼることができます。幹部たちはかなりの現金収入を得ることになり、迂回賄賂とでも言うべきものになるわけですね。

   しかし、ここで日本の誇る時代劇の名作、「水戸黄門」を思い出してみましょう。悪徳商人が悪代官の元へ届ける付け届けは二重底になっており、下側には小判がザクザクと入っているのでした。そしてお決まりのセリフ、「◎◎屋、お主も悪よのう、わっはっは。」となる訳ですが、中国でも煙草の化粧箱の中に札束をたんまり仕込んでおいて手渡すというケースがあるようです。しかし露骨にお金が入っていることを告げるわけにはいきませんから、そこから先は受け取る側の判断になります。運良く?受け取り手が発見してくれれば良いのですが、必ずしもそうなるとは限らず、買い取り業者が開封して現金を発見するケースもあるのだとか。その場合は開封した業者がそのまま頂戴してしまいます。

   更には、こうした幹部たちのところへ金が集まるシーズンというものは誰でも知っていることなので、夜間こっそりと泥棒に入る輩が現れます。蛇の道は蛇、こっそりと忍び込んだ泥棒は、しっかりと幹部たちの上前をはねてしまいます。しかしそれだけでは終わらないのが中国たる所以(ゆえん)です。泥棒は持てるだけの現金を奪って逃走した後、密かに警察に通報し、その幹部の家の某所に賄賂がためこまれていることを知らせてしまいます。幹部はそのまま警察に御用となり、見せしめとして重い刑罰を受けることになります。私の勘では幹部宅に捜索に入った警官も、どさくさまぎれに現金の一部を着服してしまうのではないかと思いますが、そこまでは明らかになっていません。

   そして恐ろしいのが「女」の存在です。中国語では第三者と呼ばれる愛人。そもそも古来名誉と地位と権力と財力を手にした男が次に持ちたがるのが「愛人」ただし中国語では「愛人」は夫や妻の方を指しますので意味が違います。中国人の「第三者」を侮ってはいけません。この「第三者」が、男からのお手当の額に不満があった場合、男の収賄を警察に告発して復讐することがあるのです。男たる者最後には抱えたい「第三者」?最後の欲望を満たさんがために女性を囲うことが途方もなく高くつくことがあるというお話です
   

筑波山は雪景色

2014-02-13 15:31:53 | Weblog
  毎回ぎすぎすした内容が続いていますが、たまにはどうでも良いお話を書いておきます。

   先日の大雪で、筑波山行きは少し伸ばし、本日10日ぶりで登って来ました。10日も間が開くと行くのがおっくうになり、今日はやめておこうか、とか、もう行かなくてもいいのでは?と弱気の虫と怠けの虫が顔を出します。そんな気持に鞭打っての筑波山行。筑波学園都市に入ると、芝生の上などにまだ雪がかなり残っています。駐車場までのワインディング・ロードも両サイドには除雪した雪が。いつもの駐車場に入れようとしましたが、そこまでの坂道がいまいち除雪が行き届いていないのと、駐車場自体もまだ雪が結構そのままになっていたので、Uターンして観光案内所の横の駐車場へ止めることにしました。

   昨年とは違って、雪道アイゼンの経験も積んでいるので気持に余裕が・・・と思ったのもつかの間、今回は登山道入り口から既にアイゼンが必要な状態になっているではありませんか。とりあえず行ってみるかと登り始めたものの、やはり滑ります。結局い登り口から20メートル行った地点で早くもアイゼン着用となりました。

   相当に積雪があるので、いつもとは景色が全く違います。危険を避けるため、忠実に人の足跡をたどって登ってゆきます。大方はアイゼンの跡が付いているのですが、明らかにアイゼンなしの足跡がちらほら混じっています。勇敢な人たちがいるものです。もっとも地元民は長靴で登ってしまうので、慣れればいけるのかもしれません。しかしそんな冒険をする気はないので真面目にアイゼンを着けて登りました。

   アイゼンを着けて雪道を登るのはなかなか楽しいもので、いつもよりアドレナリンが多く分泌されているような気がします。「それでも登り隊」の皆さんは、こんな日も必ずやって来ているはず。すれ違った人数はせいぜい10人程度に過ぎませんが、気のせいか皆さんいつもより楽しそうな表情をしています。

   楽しいと言っても、アイゼンを着けないよりも筋力は必要です。いつもより脚を下に押し付けて、確実に雪にかませることが必要になるからです。したがって必然的にペースもゆっくりになります。しかし積雪が多いので、この登山道のかなりの部分を占める階段が見事に無くなっています。目の前に続くのは、真っ白い急斜面のみ。雪の斜面を登るのは階段よりもきついということが分かりました。

   有難かったのは、風がなかったので、マイナス5度くらいに差がっているはずの気温が寒いと感じなかったことでした。かつ、雪のお陰で適度な湿度が保たれ、呼吸は楽であるような気がします。

   明日も降雪があるようですね。その後は大雨になるという予報ですが、雨で雪は流れてしまうのでしょうか。中途半端に雪を濡らしてくれると、今度は氷の斜面を登らなければならなくなってしまうので、雪のまま残っていてくれるか、いっそのこと雨で全部流されてしまうとありがたいのですが・・・

「歴史に学べ」よ韓国人

2014-02-12 17:38:17 | Weblog
   中国語の授業中、先生から日本史上最も偉大な人物は誰かと質問され、ある人・・60歳近い年長の男性が、徳川家康と答えました。家康が開いた徳川幕府が300年に渡る平和の礎となったことは間違いないのですが、私はあえて意外な人物を挙げたいと思います。それは中大兄皇子つまり天智天皇です。なぜならこの人が眉毛爺こと村山元首相のような間抜けな人物であったなら、日本という国は存在し得なかったかもしれないからです。

   村山さん、何を考えているのか、韓国の国会で従軍慰安婦問題で謝罪してくれました。国と国の関係というものが全く分かっていない愚かな人です。万が一従軍慰安婦問題が事実だとしても、知らぬ存ぜぬを通すのが国と国の関係というものです。ましてや悪意あるでっち上げであることが証明されているにも関わらず・・・。

   西暦660年、新羅は恒例中国頼みという得意技を使って、唐・新羅連合軍となり、我が国と一心同体とも言えた百済を攻め滅ぼしてしまいました。日本も大軍を送りましたが、有名な白村江の戦いで完敗し、洗練された文化を誇った百済はこの世から姿を消してしまったのです。百済の遺跡はほとんど残っていません。

   中大兄皇子はこの国難に対処するために各地に城を築くとともに、都を防衛しやすいように、飛鳥から更に奥まった近江へ移します。日本人が「国」というものを本格的に意識するようになったのはこの時からだと言われています。いわゆる「祖国防衛」の気持がそうさせたのだと思います。新羅。唐の連合軍が日本本土に攻め込んできても対処できるように対策を講じたわけです。

   ところで、唐の援助で百済、高句麗を滅ぼした新羅は調子に乗って、唐に反抗をし始め、676年には朝鮮半島を統一してしまいました。唐に背いた新羅は、掌を返すかのように日本との関係修復を図りました。しかしここからが今も昔も変わらぬいけ好かない半島人根性が発揮され始めるところなのです。  

   7世紀後半には唐に対抗するため日本との融和を図り、こちらから新羅に向かったり、新羅からこちらに向かったりで、、使者の交換が30回ほどもあったそうです。しかし7世紀末に唐との友好関係を修復するや否や虎の威を借る狐のように、新羅は日本に対して高圧的な態度に転換します。ついには新羅からの遣使自体が送られて来なくなるのです。

   どうですか?韓国が現在中国に露骨に媚を売り、日本に対して高圧的な態度に出ている姿と瓜二つではありませんか。結局彼等は1,300年間、何一つ学習していないのです。思考法も行動パターンも1,300年前と全く同じ。おそらくあと1,300年たっても何も変わりはしないでしょう。

   韓国経済も陰りが見え始めました。いずれ日本が経験したようなバブル崩壊を韓国も味わうことになるでしょうが、その時韓国人は、何とかしてそれを日本のせいにして、援助を取り付けようとするでしょう。その時が来ても、一切の援助をしないことを私は望みます。どんなに情けをかけてやったところで、少し元気になれば元の木阿弥となり、何かと因縁をつけ始めることは目に見えているからです。

教師と嫉妬

2014-02-11 18:49:27 | Weblog
  結局前にも書いた話の焼き直しになってしまいますが・・・。

   前々回の話の続きの戻ります。昔私が習っていた韓国人の女性が、ある時ふとこう漏らしたことがあります。

   「先生って、嫉妬深いでしょ!」

   私はこの指摘に返す言葉がありませんでした。いや、先生が嫉妬深いというよりは、ひどく嫉妬深い先生がいる、と言った方が適切な表現にはなるのですが、確かに言い得て妙な言葉ではありました。一番問題になるのは、同じ学年を組む担任同士の間で、必ずかなりの力量の差が出てしまうということです。私も最少で6クラス、最大で10クラスの学年を経験しましたが、担任の結束などというものはあまりありませんでした。まがりなりにも結束できたのは12回のうちたったの1回だけでした。

   この時はいちいちフォローしておかないと危ない先生もいれば、犬猿の仲の先生もいたのですが、私が学年発足と同時提案した言葉、「保護者会には全員出席!」というアイデアを皆さん厳守してくれました。一般の
皆さんはどう思っておられるか知りませんが、保護者会というのは教師の中ではなかなかやっかいな代物という認識が強く、保護者会の総会以外ではまず間違いなく2名程度が交替で出席してお茶を濁すというのが定番でした。

   私はそうならないように、しょっぱな全員に縛りをかけてやれ!という気持で提案したのですが、これが守られたことにより、保護者と担任の関係は最高に良く、その反映として、生徒と担任の関係も最高に良い学年のまま卒業してゆきました。先生方も最後には全員が一緒に韓国旅行へ行くという、素晴らしい終わり方をしたのでした。 しかし、こんなことにはならないというのが普通、というよりは、こんなことには絶対にならないと言っても過言ではないのです。いろいろな人がいるので、本当にめんどくさくなります。

   ある時、それはそれは素敵(女性の先生方曰く、梅さんとは比較にならない)な男性教師が転勤してきました。新任紹介に当たって、女性の先生方の空気が一瞬変わったのが鈍感な私でも感じられたほどでしたから、きっと本当に「いい男」だったのです。

   「いい男」には女生徒も憧れます。彼はある文化部を創設したのですが、沢山の女生徒が続々入部しました。ところが3年生の9月になり、文化祭で公演が終わったその日の晩、彼女たちが大挙して職員室を訪れ、門前列をなすという状態になりました。何と彼女たちは、自分達が抜けたら公演が成立しないと言う責任感から、文化祭までを自らの期限として定め、3年生全員が一度に退部を申し出たのです。何もその晩に・・・と思いますが、彼女たちは実は一刻も早くこの顧問から逃れたかったのでした。(已然にも取り上げた話題ですね。)

   問題は、彼が一番可愛がっていた女生徒が部の指導的立場にあると共に、実は私からも可愛がられており、(ずっと以前に書いた、滅びゆく合唱祭を再建するために私の一言でなんにも言わず合唱祭委員長に立候補して任務を果たしてくれたあの女生徒です。)私に対しては大変信頼の気持を寄せてくれていた子なのでした。彼女の担任が、彼女の進路指導は私に任すと言って私に回して来たくらいですから、言わば私と彼女は公認の師弟関係のようなものでした。他にも私に対して面と向かって彼の性格ををぼろくそにけなす子もいたくらいで、どうやら彼はあこがれて入部して来た女生徒の期待を大いに裏切ってしまっていたようでした。

   自分の部活に背を向けた子が、私との関係はかえって良好・・・・。自己評価がかなり高いと見受けられた彼でしたが、こんなかっこ悪い奴に負けたという意識が湧いてしまったのか、以後何かと私に反発をするようになりました。私が一言言うごとに、「~じゃ駄目ですよ。」とケチをつけるようになり、何度か皆さんの前でぶん殴ってろうかと思いましたが、まあ私の方がルックスにおいてはるかに劣ることは確かですし、言わせておくか、と聞き流すように勤めていました。

   一例:卒業式のクラス代表を選ぶに当たり、
   
   彼:「先生のクラスはB子なんかいいんじゃないですか?」  
  
   私:「あいつは駄目です。」 (余計なお世話だろう。)

   彼」「先生、自分の好みが入ってませんか?」 (好みが入っているのはどっちだ!)

   私がB子を代表に指名しなかった理由はいたって簡単。卒業証書授与式のクラス代表は、品行方正、成績優秀またはクラスや学校に対する貢献度が高いことがポイントなのです。学校という所は真面目に勉強し成果を挙げた子供に対して最後に名誉を与えるべきです。B子は過去に喫煙で停学処分を食らっています。何の問題も起こさなかった子より彼女を優先すべき根拠がないのです。

   彼の場合には、あまりにもみみっちく分かりやすい嫉妬でしたが、教師同士の嫉妬心というのはなかなか面倒なものです。嫉妬するのは勝手ですが、それを態度に出されてしまうと、実にうとましいものになります。

   教師はある意味で人気商売です。人気のある先生と人気の無い先生が出てくるのは避けられません。AKB48の総選挙を毎日やられているようなものです。神7に入れなかった先生が来年こそ実力で勝ち取るぞ!と奮起してくれれば学校全体が盛り上がるのですが、なかなかそうはなってくれないのは困ったことです。私などどちらかと言えば不人気教師であったにも関わらずこんなことが起きるのですから、教師達というのは思いのほか心の狭い人が混じっているのかもしれません。
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韓国の高校に体育はあるか

2014-02-10 15:13:26 | Weblog
   いつもコメントを下さるKさんから、韓国では体育の授業がないのかという御質問をいただきました。この点について厳密にお答えいたしますと、さすがに全くないというわけではありません。しかし、儒教が国教となって以来、半島では体を動かすのは卑しい下々の人間のすべきことであるとされ、支配階級の両班たちは歩くことさえろくにしませんでした。時代劇を見ると時々出てきますが、戸板に角材をくくりつけたような(と言えばけなし過ぎですが)輿に乗って、使用人に運搬させていました。私たちの目から見ると実にみっともない乗り物なのですが、とにかく彼らは体を動かしてはならなかったのです。

   儒教を生んだ本家本元の中国人はいざとなればどんなにきつい仕事でも飛び込んでいく強靭な精神を持っていますが、儒教のうわべだけを取り入れた半島の人々は、今でも手先が器用な人を憐みの目で見たりするといいます。そして昔は中国の古典、四書五経などが支配階級の必須教養とされていたのですが、現在ではどうやらその位置を英語が占めつつあるようです。その昔科挙といわれた管理登用試験がありましたが、現在は超一流大学に入ることが科挙に変わってステータスとなっています。

   参考までに韓国の大手新聞である中央日報の記事を転載しておきます。要は、授業の置き方に学校の裁量を認めているので、進学と関係のない体育は一年生で済ませてしまい、2、3年生では全くやらないということが可能なので、その方式を取り入れている「進学意識の高い」学校がかなりあるということです。


韓国の学校から消えゆく体育の授業
集中履修制導入で、1年生時にまとめて体育の授業

   ソウルに住むパクさん(46)は最近、高校2年生の息子の机の前に張ってある新学期の時間割を見て、気になることがあった。1週間に体育の授業が1回もないためだ。息子に尋ねると「1年生のときにまとめて体育の授業を受けたから、2年生では体育をしない」という答えが返ってきた。パクさんは「体力づくりは継続して行うべきものなのに、体育を特定の学年にまとめて行うなんて、生徒たちの健康が心配だ」と話した。
   このような現象は、今年の高校1年生から、さらに顕著になりそうだ。「2009年改訂教育課程」により、今年から「集中履修制」が本格的に導入され、学校で体育の授業が目立って減少している。集中履修制とは、授業の集中度を上げるため、一つの科目の授業を6学期(1学年当たり2学期)のうちの特定の学期や、特定の学年にまとめて行う制度だ。
   パクさんの息子の学校のように、体育の授業を集中して行う高校は、全体の70%に迫ることが調査の結果分かった。民主党で国会教科委員会所属のアン・ミンソク議員が、全国の高校3673校で体育の授業の編成状況を調査した結果、全学期を通して体育の授業を行っている学校は、昨年の1994校(54.3%)から1178校(32.1%)へと大きく減少した。
   4学期だけ体育の授業を行っている学校は1541校(42.0%)と最も多く、3学期だけ行う学校が272校(7.4%)、2学期だけ行う学校は366校(10.0%)だった。高校生の10人に1人は、高校時代の2年間、全く体育の授業を受けないことになる。
 京畿道のある体育教諭(38)は「体育教育が受験勉強に押され、次第に形式的に行われるようになっている上、集中履修制がこれをあおっている」と話した。教総のキム・ドンシク・スポークスマンは「学校現場では、芸術・体育教育を通じた創意力・人格形成教育を強調しているが、実際は国語、英語、数学の授業だけを増やしている。学校の状況に合わせて、集中履修制をより弾力的に運営すべきだ」と話した。

■集中履修制
   今年から小・中・高校に本格的に適用される新しい授業編成方式の一つ。科目別の授業時間数さえ満たせば、授業を行う学年や学期を各学校が自由に定められるというのが、この制度の柱となっている。例えば、体育の授業を3年間のうちの1年にまとめて行うのか、あるいは3年にわたり毎学期、均等に行うのか、学校の裁量で決定することができる。
   

   こんな調子で授業が行われ、早朝7時からと放課後4時から10時までの強制自習(サボれば親が呼び出されます)の後学習塾通い。運動部などありません。こんな高校時代を送った韓国人が健全な精神を持った大人に成長したとしたらその方が奇跡ですね。その分まとめて徴兵し、軍隊で徹底的に肉体を鍛錬してくれますが、兵役期間は当然女っけなしのいじめあり。青春時代を受験勉強で奪われ、一息つくと兵隊に取られ・・・。韓国の男は災難です。

この記事に賛成:今時の先生について

2014-02-09 15:40:30 | Weblog
 本日のネット上で読んだ記事。私はこの記事にほぼ賛成しています。

「教師の実力が、急速に落ちていると感じる。危機的ですらある。もちろん、努力し、勉強している教師は、どの学校にもいる。しかし、それは少数だ。
  第1に、教師が教育雑誌、教育書などの本を、ほとんど読まなくなった。かつては一人の教師が「教科」「障害」「心理」など、3冊ぐらいの教育雑誌をとっていた。今や「教育雑誌」を読んでいる人は学校に1人か2人だという。教育書も読んでいない。新聞をとっていない人も多い。

   
   
   まあこの部分には私はそれほど関心がある方ではありません。教育雑誌に乗っていることが参考になるとか実践に応用できると感じたことがないからです。下町の学校で通用したやり方は山の手の学校では通用しません。進学校での実践は教育困難校では通用しません。極端な話、足立区と荒川区では、隣接区であるにも関わらず、生徒達の気風がかなり違います。教育雑誌を読んでそこに書いてあるへたに信じ込んで実践に移した場合、大やけどをすることもありうるのです。教師は学校を変わるごとに虚心坦懐、真っ白な気持ちで取り組んだ方が良いのです。



   第2に、「できない子」を責任をもって教えるという考えがない。立派な先生は「漢字テストクラス30人全員100点」とか「算数テスト平均95点」という結果を出すが、そういう先生はいじめられている。

   「そういう先生はいじめられている」と言うと、信じられないかもしれませんが、私はそのことを長年実感して来ました。いじめられていると言って悪ければ、他の先生方から浮いてしまうと言い変えましょうか。実感として、そういう教師が組織として歓迎されていると感じたことは一度もありません。教師の世界で最も望まれているのは、誰も突出せず、横並びでほどほどに済ませることです。校内で横並びをするので、従来から実績のある学校では高い水準が維持されますが、もともと駄目な学校では、低い水準が維持されることになります。

  第3に、立派な先生のじゃまをする。「学年で足並みをそろえましょう」ということで「工夫する教師」「努力する教師」の足をひっぱる。「足並みをそろえる」とは、最低ラインにあわせるということである。 立派な先生を助けるには、保護者の力が必要だ。「先生がんばってください」と声をあげ、手紙を書くことだ。教師を育て、守るのも保護者の大切な仕事である。

  これは生徒にとっては時に致命的な結果に結びついてしまうことがあります。私が何度も書いて来た、あのK君を例に取ってみましょう。私にはあのK君を卒業まで持っていくだけの意思と、口はばったいのですが、「実力」があったと思っています。しかし、他のどの先生も、K君を扱うだけの硬い意思とK君を指導するだけの自信がありませんでした。結果として、K君の存在に耐えきれない教師たちが、手ぐすね引いてK君がミスをすることを心待ちにしており、K君のミスに付け込んで一気に退学に追い込んでしまいました。K君のちょっとしたルール違反を見逃してやる代わりにK君からの信頼を勝ち取ることができるという、初歩的な裏技を使うことすらその発想にはなかったのです。何度も同じ例を引いて申し訳ないのですが、この部分の例としては最適だと思うので、あえて書きました。やる気のない教師たちがルールを盾に取って怠慢を決め込む、こうした現象を私は沢山見て来ました。

  第4に、大学を出て教師になったばかりの「新卒教師」が、驚くほど何も知らないということである。原因は、新卒教師にあるのではなく、大学の教育にある。

 教師にとって最も大切な仕事は「授業をする」ということだ。


   私が危惧しているのは、大学の専門学校化、就職予備校化です。現代の若者はあまりにもお手軽な「HOW TO」本のような物に関心が行き過ぎて、大学の授業も近年ますますその方向に傾きを強めています。時には英語教師が、教科書に載っている偉人が一体誰なのか知らないといった珍事さえ起きて来ます。また、もともと読書量が圧倒的に少ないので、語る言葉にも味と深みが不足している感は否めません。「教師に取って最も大切な仕事は授業をすることだ。」という言葉には賛成なのですが、味のある授業をするにはそれなりの雑多な知識の蓄積が必要です。

   もっとも、私のように、英語教師でありながら、ついつい脱線して調子に乗って話した雑談が一番楽しかったと卒業後言われるようでは行き過ぎの感は否めないのですが・・・・。

ひねくれるのもいい加減にして欲しい韓国人

2014-02-08 16:10:34 | Weblog
    「韓半島」という映画のシナリオを、130ページ台まで読み進んで来ました。DVDを見てしまえば一気に片付くのですが、シナリオを読み込みながら、後で音声教材としてDVDを見る方式なので、映像で見るのはしばらく先のことになります。

   ここまで読んできて改めて思うのは、韓国人というのは本当に捏造の達人なのだということです。これほどまでにひねくれきった民族と国家が存在しうるなどとは、外国人の想像力を超えるものだと言えます。フランス人が韓国人の捏造による従軍慰安婦の漫画を見て、日本人が若い娘の腹を裂いて胎児を取り出したり乳房を切り取るような残虐な行為をしたと信じてしまうのは、ひとえに韓国人の国民性のひねくれ具合が彼等の想像を絶するものだからです。

   日本が今置かれている立場をこんな風に説明したら、筋金入りの韓流おばさまも良く分かってくれました。

   「ある善良な紳士が電車の中で、金目当ての性質の悪い女子高生に罠にはめられました。女子高生はこのオジサンが私のお尻をさわった!と大声で周りの人に叫び出しました。オジサンがどこまでも紳士的に振る舞っていると、女子高生は更に叫び声を荒くし、遠くにいる乗客にまでオジサンがエッチなことをしたと宣伝しまくり出しました。オジサンの紳士的な雰囲気と女子高生の風情から最初は半信半疑だった乗客たちも、この子がこれほどまで言い張るのだからきっとこの紳士は女子高生に痴漢を働いたに違いないと思い込むようになってしまいました。女子高生が、ここまで来たら痴漢やったって言ってくださいよ、それで私の顔も立つし、そしたらもううるさいことは言わないから、と言うので、オジサンは早く会社にも出勤しなければならないし、それならやったということにしよう、と妥協しました。それを聞いた女子高生は、周囲の乗客に対して、ほら、オジサンが痴漢したって認めましたよ、こんなひどい破廉恥オヤジは徹底的にやっつけないといけません。とりあえず慰謝料をたっぷり払ってもらわないと・・・。と、話はどんどんエスカレートしていってしまいました・・・・・。

   「韓半島」の中で、日本は韓国に無言の圧力を加えるために。海上自衛隊の艦船を多数送り出し、公海上で韓国ににらみをきかして、無言の圧力を加えます。それと同時に、日本の外務大臣が何の前触れもなくいきなり大統領官邸にやって来て、アン・ソンギ扮する大統領に対して、武力を背景にした一方的な交渉を開始します。

   自衛隊が出動することもあり得なければ、日本の外務大臣が韓国の大統領官邸にいきなりやって来ることなど絶対にあり得ません。しかし韓国人はそういう筋書きの映画を平気で作ってしまいます。この映画を見た人は、韓国一の名優(グンちゃんやユチョンなど恐れ多くてそばにも寄れないような)アン・ソンギが大統領を演じているだけで、この映画の信憑性を確信してしまったことでしょう。

   こんな風にしながら、韓国人は自ら日本に対する誤解と憎しみを増幅して来ました。そしてこれからも日本に対する思いこみと憎しみを増幅し続けることでしょう。日本を憎み(心の中では憧れているにせよ)蔑むことによってしか自己のアイデンティティーを維持していくことができない可愛そうな韓国人達。これを韓国人の国民性を表す「恨」という漢字一文字で表すには少々無理があり過ぎるという気がします。

   ところで、韓国人のこのひねくれ具合を少しは改善できるのではないかという妙案を私が考えました。そもそも韓国の高校は7時過ぎに登校して自習し、放課後も10時位まで残って自習するという馬鹿げた制度があります。自習と言っても強制参加です。しかも韓国の学校には基本的に体育の授業というものがないのです。これでは屈折するなと言う方がおかしいではありませんか。韓国の性犯罪率は日本の10倍、売春婦の数は世界一というのも、ちょっとこじつけになりますが、もしかしたら学校教育にストレス解消と共に、勉強が苦手な子にも活躍の場が与えられる体育の授業がないことに起因しているかも知れないではありませんか。皆さんはどう思いますか?

韓国人の救いようのなさ:キム・ヨナがらみで

2014-02-07 09:54:24 | Weblog
  まあ、韓国人全てがこんな連中だとは思いたくありませんし、実際にはそんなことはあり得ないと信じてはいますが、時として韓国人の品性のなさにはあきれかえることがあります。以前にも書いた通り、映画やドラマになぜかトイレで便器にしゃがんでいる姿とか、エレベーターの中で女性が放屁する場面とか、あげくの果てには「排泄物」を食べてしまう場面などが無視できない割合で登場します。韓国人にとってはこんなに品のないことがユーモアになるのだな、と、妙な納得をしてしまいます。なにしろ未だに排泄物を混入した酒を薬用として販売している人たちなので、それくらいはしかたないのかも、と。

   しかし、自分達同士で勝手に喜んでいる分には勝手にしなさいで済むのですが、その下品さが韓国人以外に向けられた時は、正直「いい加減にしないか、お前ら!」と思います。だいぶ前になりますが、キム・ヨナが登場したバラエティ番組で、お笑い芸人たちが徹底的に我らが浅田真央選手をこきおろしていたことがあります。お笑い芸人がやることとはいえ、内容にはまるで品性というものがなく、あの手この手で浅田選手を徹底的に笑い物にしていたのです。

   私たちの感性では、浅田選手の真面目さ、ストイックに努力する姿などを見て、心の底から声援を送る気にこそなれ、嘲笑の対象になる要素など見つけようがないのですが、彼らはそんな浅田選手を見事なまでにたたき、笑い物にしていました。その下卑た感性たるや、同じ人間とは思えないほどでした。まともな人間があの番組を見たら、日本人でなくとも呆れかえり、韓国人そのものを軽蔑の対象として見るようになるはずです。

   そして、怒りを通り越して憐みさえ感じてしまったのは、そうしたお笑い芸人たちの話を聞きながら、ゲストであるキム・ヨナが、腹の底から笑いこけていたことです。どこから見てもキム・ヨナという人物には浅田選手に対する敬意もなければ、切磋琢磨する者同士の連帯感もありませんでした。

   こけても失敗しても必ず浅田選手より高得点をもらうことが出来るキム・ヨナ。その「秘訣」は知る由もありませんが、ソチ・オリンピックでも再び同じことが繰り返されるのか、世界中が注目していることでしょう。いや、浅田選手がソチに到着した時、異様に多くののテレビカメラや記者たちが浅田選手を取り囲んでいましたが、その半数が韓国のマスコミだったそうですから、一番注目しているのは韓国人なのでしょう。

   キム・ヨナ選手、本当に審判を買収していないのでしょうかねえ・・・。サッカーのワールドカップでも審判を買収していたことが見た目にも明らかだった韓国。果たして栄冠はどちらに輝くのか。