Hさんからこれを聞きなさいと言って渡された東方神起のCD・・・・・。はっきり言って聞いているのがつらく感じます。たっぷり感情をこめて歌いあげているところが女性たちの心を揺さぶるのでしょうか?この年齢で東方神起を語る方がおかしいのでしょうが、私にとっては臭い歌詞とあいまって、ひたすら疲れます。男女の感性の違いなのか、いや、年齢的なものなのか・・・・。少女時代の無内容な歌は聞かされても少しも疲れないのですが。まあ、否応なしにその方面の知識が増えていくのはたぶん良いことなのでしょう、きっと。
教員養成のための大学院が、大変不人気で、定員を満たせないところが多いのだとか。このぶんで行くと、鳴り物入りで始めたものが、早晩消えてなくなることでしょう。
私に言わせれば、こんなことは当初から予想すべきことでした。後から投資をはるかに上回る金額を回収できる見込みがある医学部ならともかく、お金と青春を捧げたところで教師では後の実入りはたかが知れています。金銭感覚の優れた人なら絶対にこの方法は選択しないと思います。
しかしこの大学院の最大の問題点は、22歳から24歳という貴重な時代を、理屈の勉強に捧げてしまい、中途半端なプロ教員として生徒の前に送り出してしまうことにあります。これまでは22歳で右も左もわからないような若者がいきなり教師として現場に送り出されてきました。では、それで教育界は大きなデメリットがあったのでしょうか?否!生徒は兄のような姉のような、まだ学生臭さの抜けない若い教員を慕ってまとわりついてきます。(中には最初から定年まで生徒にまとわりつかれることのない人間もいましたが、これは例外中の例外。)新米教師は生徒たちにまとわりつかれ、甘えられながら、理屈を離れて教師としての感性を磨いていくことができました。言ってみれば、手垢のついた偏見を持たない、人間同士の触れ合いができたということです。この「理屈を超えた」というところが実は何よりも大事な部分なのです。
残念ながら大学院で教師になるための専門教育(ある意味せこい小技に過ぎません)を受けてしまった人間は、おそらくこの「理屈を超えた」部分を味わうことなく教師としてのスタートを切ることになります。何しろ「理屈」を教え込むための場が大学院なのですから、「理屈を超えた何か」を学ぶことがないまま教師として実務につくのです。更にいうなら、「理屈」を既に身に付けた教員を現場に送り込むことがこの大学院の狙いであり、目的なのですから、現場で待ち受ける教員の方もやりずらいことこの上ないのではないでしょうか。
私の知る限り、教員に対する研修ほど不可解なものはありません。ここ数年新人として研修を受けている教員が真っ先に教え込まれることは、どういうことをしたらどういう処分を受けるか、とか、教師として知っておくべき法規、といった内容なのだそうです。どうすれば生徒たちに夢を与えられるかとか、どうすれば勉強に関心のない生徒たち(学校によってはほとんどの生徒が勉強に関心がありません)に授業を聞かせ、学力をつけさせることができるか、といった、実際に役立つような研修ではありません。私が若い教師に私自身の過去の体験を語って聞かせた時、彼女の口をついて出た言葉が印象に残っています。
「私たちはそういう話を聞きたいんですよね。」
残念ながら、新人教師の研修で講師を務めるような方々は、生徒と格闘し、もつれ合い、汗と涙を流しながらどのように生徒たちを掌中のものにしてきたかといった体験談は語れません。なぜ?彼らはそんなことを体験してきてはいないからです。こうした場で講師を務めるような方々は、早めに管理職コースに転向してしまっています。かつ、脂汗を流しつつ悪戦苦闘した経験がないのですから、特に失敗もありません。そのため、彼らは逆に堂々と理論を振りかざすことができます。若い教師たちは、なんか違うような気がするんだけど・・・と思いながら、義務付けられた研修である以上、我慢して時間が過ぎるのを待っている、というのが現状なのではないでしょうか。
その上、年間数百時間に及ぶ研修には、膨大な量の報告書を書かねばなりません。若い教師たちはますます生徒たちと関わる時間が削られてしまっています。いわば、魚に触らせずに寿司の握り方を紙に書いて教える、そんなやり方が現在の新人指導なのだと言って差し支えないと思います。
更に屋上屋を重ねるが如き大学院。現場に必要なのは新人教師たちに生の魚を触らせてやること。立派な図鑑を何冊与えて魚の名前を覚えさせても、頭でっかちで心が伴わない教師が増えるだけです。
教員養成のための大学院が、大変不人気で、定員を満たせないところが多いのだとか。このぶんで行くと、鳴り物入りで始めたものが、早晩消えてなくなることでしょう。
私に言わせれば、こんなことは当初から予想すべきことでした。後から投資をはるかに上回る金額を回収できる見込みがある医学部ならともかく、お金と青春を捧げたところで教師では後の実入りはたかが知れています。金銭感覚の優れた人なら絶対にこの方法は選択しないと思います。
しかしこの大学院の最大の問題点は、22歳から24歳という貴重な時代を、理屈の勉強に捧げてしまい、中途半端なプロ教員として生徒の前に送り出してしまうことにあります。これまでは22歳で右も左もわからないような若者がいきなり教師として現場に送り出されてきました。では、それで教育界は大きなデメリットがあったのでしょうか?否!生徒は兄のような姉のような、まだ学生臭さの抜けない若い教員を慕ってまとわりついてきます。(中には最初から定年まで生徒にまとわりつかれることのない人間もいましたが、これは例外中の例外。)新米教師は生徒たちにまとわりつかれ、甘えられながら、理屈を離れて教師としての感性を磨いていくことができました。言ってみれば、手垢のついた偏見を持たない、人間同士の触れ合いができたということです。この「理屈を超えた」というところが実は何よりも大事な部分なのです。
残念ながら大学院で教師になるための専門教育(ある意味せこい小技に過ぎません)を受けてしまった人間は、おそらくこの「理屈を超えた」部分を味わうことなく教師としてのスタートを切ることになります。何しろ「理屈」を教え込むための場が大学院なのですから、「理屈を超えた何か」を学ぶことがないまま教師として実務につくのです。更にいうなら、「理屈」を既に身に付けた教員を現場に送り込むことがこの大学院の狙いであり、目的なのですから、現場で待ち受ける教員の方もやりずらいことこの上ないのではないでしょうか。
私の知る限り、教員に対する研修ほど不可解なものはありません。ここ数年新人として研修を受けている教員が真っ先に教え込まれることは、どういうことをしたらどういう処分を受けるか、とか、教師として知っておくべき法規、といった内容なのだそうです。どうすれば生徒たちに夢を与えられるかとか、どうすれば勉強に関心のない生徒たち(学校によってはほとんどの生徒が勉強に関心がありません)に授業を聞かせ、学力をつけさせることができるか、といった、実際に役立つような研修ではありません。私が若い教師に私自身の過去の体験を語って聞かせた時、彼女の口をついて出た言葉が印象に残っています。
「私たちはそういう話を聞きたいんですよね。」
残念ながら、新人教師の研修で講師を務めるような方々は、生徒と格闘し、もつれ合い、汗と涙を流しながらどのように生徒たちを掌中のものにしてきたかといった体験談は語れません。なぜ?彼らはそんなことを体験してきてはいないからです。こうした場で講師を務めるような方々は、早めに管理職コースに転向してしまっています。かつ、脂汗を流しつつ悪戦苦闘した経験がないのですから、特に失敗もありません。そのため、彼らは逆に堂々と理論を振りかざすことができます。若い教師たちは、なんか違うような気がするんだけど・・・と思いながら、義務付けられた研修である以上、我慢して時間が過ぎるのを待っている、というのが現状なのではないでしょうか。
その上、年間数百時間に及ぶ研修には、膨大な量の報告書を書かねばなりません。若い教師たちはますます生徒たちと関わる時間が削られてしまっています。いわば、魚に触らせずに寿司の握り方を紙に書いて教える、そんなやり方が現在の新人指導なのだと言って差し支えないと思います。
更に屋上屋を重ねるが如き大学院。現場に必要なのは新人教師たちに生の魚を触らせてやること。立派な図鑑を何冊与えて魚の名前を覚えさせても、頭でっかちで心が伴わない教師が増えるだけです。