梅様の教室

独り言

ダイエット

2011-11-26 15:22:28 | Weblog
 モムチャンダイエットという、韓国人の主婦が考案して大ヒットしたダイエット本のDVDが日本でも発売されていますね。ところでこの「モムチャン」というのは一体どういう意味なのか? 著者が「モム」という名前の人なのでしょうか?
  答:「モム」とは身体のことです。「チャン」が問題ですが、もともとは日本の漫画に登場する子供同士が「●●チャン」と呼び合っているのが韓国語に入り、意味が派生して「すごい」という意味に転じたものだそうです。

  まあ、私的には恐らくブート・キャンプが一番効果的だと思いますが、もともとが新兵の教育プログラムだったそうなので、体力に自信のある人でないと無理なのではないかと思います。そこで健康雑誌に載っていた、苦労なしで確実にやせるというダイエット法、本当に効果があるのか、挑戦してみました。何しろこの夏暑さを避けて文化センターまで来るまで通ってしまい、かつ学院も休みという時期に少々太ってしまったので、ズボンがきつくなってしまった私、やせるかズボンを新規購入するかしないと真冬にアンダータイツもなしで過ごさなければなりません。そこで試してみたもの:

その1
  寝る前蜂蜜ダイエット・・・寝る前に蜂蜜を大匙一杯摂取して寝るというもの。イギリスが発祥だそうです が、雑誌に載った写真を見ると、確かに別人のように体形が変わっています。なんでも眠っている間に脳に栄養を補給して、新陳代謝を促すのだとか。これが本当なら大発見なのですが・・・・。結果は当然アウト。 摂取カロリーマイナス消費カロリー=マイナスでしかダイエットは成立しません。摂取カロリーが増えるような行為を寝る直前にして成果が上がるわけはないのです。そこでもう一度記事を精査してみると・・・・。眠っている間は空腹状態で血糖値が下がり、脳の栄養状態が悪くなるために蜂蜜でエネルギーを供給するとありました。なんだ、空腹で寝るという前提ではありませんか。まともな食事をしたら、寝る前に空腹にはなりません。蜂蜜ダイエットのポイントは蜂蜜ではなく、晩飯の量を少なくして空腹状態で眠ることにあったのでした。

その2
  大根おろしダイエット・・・こちらも建前としては素晴らしいものです。摂取に注目するのではなく排出に注目せよというものです。幅1センチほどに輪切りにした大根をおろして、それを食べるというだけ。回数は一日一回で十分、思い切りやせたければ一日に二回三回食べても物が物ですから特に害はないという優れモノです。
  では効果のほどはいかに?  これは便秘がちの人には勧められます。毎日確実に排出があります。いままでの人生はは一体何だったの?と思うくらいの効果です。しかし、こちらも私は断念しました。「快眠快食快B」が成立するのですから、その効果たるや素晴らしいものがきっとあるはず。私が断念したわけとは・・・話が昨日の続きのようになりますが、私の身体から大根おろしが発酵したような臭いが感じられるようになったのです。そうでなくても脱臭機を買ったほどなのに、発酵大根おろしの臭いまで追加されてはたまったものではありません。
しかし、もしかしたら人によってはお勧めできるかも知れません。大根を買ってくる手間とおろす手間を惜しまなければ、案外効果的かもしれません。どなたかお試しください。

P.S.
  私が実際に試してみて確実にやせたのは、朝食を抜いてその代わりに青汁の元を牛乳で溶いて飲むだけにするという方法でした。晩飯を減らすのは理屈の上では正しいのですが、帰宅してくつろごうという時間にずっと空腹を抱えて耐え忍ぶというのは現実的ではありません。まあ、朝食を完全に抜いても良いのですが、健康を考えると、これが一番良い方法かな、と思います。欠点は勤め先に着く前に既に空腹感に襲われてしまうことですが、仕事にまい進していれば、何とかお昼の時間まで切り抜けることはできます。

  以上、私が経験したダイエットについて触れてみました。

脱臭機そのご

2011-11-25 16:42:17 | Weblog
  9チャンネルで午後5時から「5時に夢中」という番組をやっています。日替わりのコメンテーターの一人に岡本なつきという、大昔バブルの時代に瞬間風速的に売れたグラビアモデル?が登場していました。もう40代と思いますが、曰く、ロケバスなどに自分が乗っていると、若いタレントから、バスの中が臭いと指摘されるのだとか。要は加齢臭がするということなのだそうです。起こりもせず、まーそーだろーなーと流しているところなどは、収入ゼロの時期が長く続いた後で再ブレイクしたタレントの悟りとでもいうべきでしょうか。恐ろしくガサツなところは昔のままですが、ちょっと悟りを開いたところもあるようです。
 
  考えてみたら、女性にも加齢臭というものはあるのです。ですから、世の若い女性の皆さんも、遠からず自らが加齢臭をまき散らす存在になることは確実なのですから、加齢臭を漂わせているおじさんたちをあまり毛嫌いしない方が身のためです。私なども、たまに年配の女性が座っていた席を通りかかった時など、「あ、おばさんの臭い!」と強烈に感じることがあります。

  さて、私が自分が発する加齢臭が部屋にこもっているのを自分自身であまりにもはっきりと感じるあまり、
「脱臭機」を購入したことはだいぶ以前に書きました。そう、空気清浄機ではなく文字通り脱臭機です。しかし気にしだすときりがない物で、まだこれでは不足のような気がして、ネットで検索した挙句、活性炭ボードなるものを発見しました。厚さ2センチ、縦1m横1mという立派な代物です。これを部屋の壁にでも貼り付けておけば・・・・・。

  しかし、さすがにそれはやめました。自分の性格として、部屋の壁という壁を活性炭ボードで埋めつくし、四方真黒な部屋にするまで徹底してしまうような気がするからです。その代わり、かの脱臭機には24時間休みなく稼働してもらっています。しかし、この脱臭機君、人の気を知ってか知らずか、時々猛烈に私の心を傷つけてくれます。この機器には「臭い感知センサー」なる優秀な装置が組み込まれているのです。そして私が近づこうものなた敏感に反応した脱臭機君、一気に活動に入り、内部のファンが全力で稼働を始め、強烈に吸気と排気を始めるのです。文句も言わず私の加齢臭を吸いこんではきれいになった空気を吐き出してくれる健気なやつですが、
時々複雑な気持ちになる時があります。私がそんなに臭いのかあ?と話しかけたくなってしまいます。

ばまつ

2011-11-23 18:40:02 | Weblog
 昨日も民主党の大臣について批判を書いてしまいましたが、まだまだいくらでも書くことがありそうですねえ・・・。

 法務大臣、法務大臣にしかできない任務を果たすつもりがないようです。オウム真理教についての裁判が最後の一人についてまで完了したので、オウム関係者の死刑は法務大臣が認めれば明日にでも執行可能です。いや、これは法務大臣として果たさなければならない義務なのです。日本で唯一死刑執行命令書に署名できる人なのですから。

 しかし、この大臣、全然署名する気はないようです。いわく「慎重に考えなければならない・・・・。」だそうです。慎重に考えるのは取り調べと裁判の過程においてです。大臣の仕事は粛々と裁判の決定に従うことです。もしそれが嫌だというのなら、最初から法務大臣など引き受けるべきではありませんでした。しかし無知丸出しの民主党の一員ですから、もしかしたら死刑執行命令書に署名することが重要な任務だということも知らないで法務大臣を引きうけたのではないでしょうか・・・・。
これでは犯人がーを見つけても捕まえない警察官・火事を見ても消さない消防官と一緒です。存在理由がありません。

 昨日はもうひとつ情けない出来事がありました。以前、未曾有を「みぞうゆう」と読んで総理の座を棒に振った人がいましたが、野田総理も同じようなレベルの人のようです。いや、「みぞうゆう」よりひどいかもしれません。「場末」を「ばまつ」と言っていました。日本語の基礎も分からない人が微妙な外交をこなせるはずがありません。ますます先が思いやられて来ます。かつ、今回はこの件について揚げ足取りをするマスコミがなかったのもなんだか不気味な気がします。

日本は歴史教育をしっかりやれ?

2011-11-23 18:26:02 | Weblog
一昨日はこのブログにも訪問者がありました。きっと「秋の童話」というキーワードでネットサーフィンしていた人がヒットしたのでしょうね。中身はたぶん期待外れだったことでしょう。

  数日前、元台湾人の某国会議員=最近落ち目ですが一時は予算の仕訳人として名前を挙げた人ですが・・・が、日本はもっときちんと歴史教育をすべきだと批判しているとの記事がありました。どうやらこの人、日本の国会議員だということを忘れてしまうことがあるようです。第一台湾人がそんなことをいうのも珍しいのですが。

  終戦後既に67年の月日が過ぎました。日本があれをしたこれをしたと、いまだに批判がつきませんが、私に言わせれば日本は十分に戦争の代価を払わされたのです。計画的に経済封鎖をされ、占領軍司令官マッカーサーですら日本の戦争は自衛の戦争であったと明言したあの戦争、その本質を隠すために大東亜戦争という呼称を使うことすら禁じられたあの戦争で、日本は十分すぎるほどの代償を支払っています。

  そもそも、「太平洋戦争」は、のび太がジャイアンに無理やり喧嘩に引きずり込まれたようなものでした。結果は当然負けに決まっています。潜水艦による海上封鎖で完全に息の根を止められ、もうフォール負けして立つこともできない日本をアメリカは焼き尽くしました。アメリカが爆撃した工場など、すでに生産能力を失っていたので、爆撃には本当は戦力を破壊するという意味では何の意味もなかったのです。
  東京大空襲・広島・長崎の原爆による大量虐殺は全く必要のないものでした。朝鮮・台湾・南樺太を失ったのは原状回復をしただけなので良しとして、千島列島に至ってはアメリカが勝手に約束してソ連に引き渡したもので、日本はそんな条約を結んだわけではありませんから国際法上は全く無効です。あってはならない一方的な裁判で「戦争責任者」は絞首刑になりました。南方にいた兵士たちは戦うより以前に多くの人が餓死しました。中国から引き揚げる道すがら、足手まといになるからといってたくさんの子供たちを自らの手で殺して来ました。

  今になっても日本は反省が足りないというのは、刑期を終えて出所してきた受刑者の、その息子たちや娘たちに向かって前科者の子供だと言って石を投げつけるのと変わりがないような気がしてなりません。これを読んでいる人たちは、更に「その孫たち」に当たると思うのですが、皆さんは自分に対して投げかけられたこの質問にどう答えますか?

  今中国語を習っている先生の一人は吉林省の出身です。早い話が満州です。飲み会の席で、先生が日本に留学した動機をうかがったところ、とても自然な気持ちで日本にやって来られたのだというお話でした。お姉さんが先に日本に住むようになっていたとのことで、反日感情の「は」の字も感じられませんでした。一方、生徒として担任した中国人の子は立て続けに二人、福建省の出身でした。それ以外にも福建省出身の人は極めて大勢います。

  満州はいわゆる「満州国」のあったところです。福建省は日本が権益を持っていたところで、半分日本の植民地のようなものでした。この二か所から日本を目指す人は少なくなく、そこには恨みや憎しみという気持ちはどうしても感じられません。日本が中国でやって来たことが本当にひどい事ばかりだったのか、私は疑問に思うのです。
  第一、あの国会議員が私より歴史に詳しいとはとても思えないのですが・・・。左翼的な人の特徴は、権威ある左翼的知識をうのみにするという傾向があります。あまり自分の頭で考えたりはしないということですね。したがって私はいわゆる左がかった人や進歩的知識人というものは信用しないことにしているのです。今どきの日本史の授業を受けた人には反発を買う意見かもしれませんが・・・。

矛盾

2011-11-21 15:57:41 | Weblog
韓国ドラマ「秋の童話」を5話まで見終わりました。最初は我慢しながら見ていた感じでしたが、ようやく話しに乗れてきた気がします。それはなぜか・・・・。いつもの話題ですが、ムン・グニョンが走る姿が良かったからです。
  12歳まで共に暮らし、実の親・実の兄と信じていた家族が自分を置いてアメリカに行ってしまいます。空港へ向かう車に追いつこうと、必死でわき道を走ります。坂道を必死で駆け下る姿など、実に速いのです。大人になってからもドラマ中で走るシーンがありましたが彼女はやはり相当に速く・・・・・。しかし・・・
  22歳になって兄だった人と再会する時の主人公はソン・ヘギョに代わり、兄の姿を見かけて後ろから猛ダッシュしていく姿があまりにもとろい・・・・。本当は誰よりも足が遅いのに、バスと並走するぺ・ドウナのような、演技力を見せられなかったものか。
  いや、別にまたこんな愚にもつかない変態的な好みについて書こうと思ったわけではないのです。これはあくまでまくらということで。

  学院の中国語の授業も中級テキストを三分の二消化しました。後期に入って先生が代わり、感じたこと。私自身も今更ながら考えさせられる部分がありました。中国人の先生が二人で交代で教え、お一方は中国の師範大学から学芸大大学院卒という教育畑のエリートみたいな人です。授業を受けながら、そのプロ意識の高さと生徒の緊張感を維持する技に感心させられます。私のように、甘い声?で生徒を寝付かせてしまうような教師とはわけが違います。私の場合起きている生徒はとても緊張しているのですが、一方で緊張感に耐えられず眠ってしまう生徒もいたのです。管理職が私の授業を見て、「すごい緊張感ですね!」と感動していたくらい、私の授業は緊張したものではあったのですが、トータルではこの先生には到底及びません。どう見ても技術的に私をはるかに上回っています。

  もう一人の先生は、新婚ほやほやの大学院生。東大で教育学の専攻だそうです。上記の先生は学院の専任講師であるのに対して、この方はありていに言えばアルバイトの非常勤講師です。その性格たるや、中国にこんな人間がいたのかと思えるほど穏やかで声が小さい、優しい人です。授業に緊張感なんか生まれる余地もありません。
  しかし、緊張感から解放されていると、生徒の方は間違いを怖がることがなくなります。生徒から発せられる質問の回数も、これまでとは打って変わって多くなりました。生徒は社会人ばかりですから、先生が優しいからといって授業の妨害をするなどということもありません。大変リラックスしたムードで授業は進んでいくのです。私個人はこちらの若くて未熟な先生の時の方が授業を受け易いと感じる時もあります。

  この対照的なお二人を見ていると、「あるべき教師の姿」像というものには永遠に解決できない矛盾が存在することがわかります。熟練した教師の方が教え方はうまいに決まっています。少数の例外を除いて。しかし、生徒のやる気が引き出されるという面では、経験が浅い、素人っぽさを残した教師の方が上である場合もあるのです。私も晩年、生徒達からどのように受け止められていたのか、ちょっぴり気になるところではあります。

中級の壁

2011-11-19 17:08:41 | Weblog
どこにも飲み会を仕切ってくれる人が必ず一人はいるものです。私が通っている中国語学校のクラスにも一人よく飲み会を設定してくれる人がいます。私はといえば、現役中は飲み会の席での話題についていけず、自分が実践している事を話したところでキャラが異なる人には参考にもならず、夜更かしにも弱いので飲み会ははっきり言って避け気味でした。

  しかし、人との接触を避けることは最もしてはならない年齢に達した今、飲み会の声がかかれば逃げ出すことなく出席するように方向転換しています。なんだ、自分にもできるじゃないか!と言いたいところですが、職場の人との飲み会ではないから気楽に参加できるという面が強いことは確かですね。

  毎回思うことですが、中国語を学ぼうという人と、韓国語を学ぼうという人の違いの大きさには驚きます。韓国語を学ぼうする人はほとんどが女性ですが、中国を学ぼうとする人は男性の方が多いのです。また、韓国語を学ぼうとする人は、浅い韓流ブームに乗った人が多いのですが、中国語の方はそれとは趣を異にしています。

  今回の飲み会には10名ほどの参加者があったのですが、みなさんの職業がなかなかなのです。弁護士・公認会計士(このお二方は同じビルの一階違いに勤めているということが初めてわかりました。)アメリカの大学を卒業している人、既に一年間上海に派遣されていた経験のある銀行員、テレビ局勤務の人、新聞社勤務の人・・・・。どなたをとっても、お互いに自分のレベルで話をして互いに何の問題も生じない人たちです。

  このクラスになって二度目の飲み会とあって、前回より打ち解けた会話が交わされたのですが、初めて知ったのは、このクラスの発足時つまり私が加入する一年前の入門時には、受講生が沢山いたので二クラスに分かれていたのだそうです。かつ今のクラスには22人在籍していたとのことですが、その中で現在も続いている人はわずか3名に過ぎません。一つの外国語がそんなに簡単にマスターできると思って入学したのでしょう。実際には外国語をマスターするのは長く厳しい道のりです。

  韓国語のクラスにいた時も、上級に進むに従ってどんどん人が減って行きました。韓国語の場合は間接話法のところで一気に挫折してしまう傾向があります。中国語の場合は、中級テキストに移ったとたん、アレルギー反応を起こしてしまったようです。なおかつ現在習っている先生方は、生徒の実力よりも少しだけ上のことを要求してくるので、その要求をしてくる理由が分かる人にとってはありがたいやり方なのですが、学校へ行きさえすればなんとかしてくれると甘い考えで通い始めた人は夢を打ち砕かれてしまいます。

  私は語学教師のはしくれなので、中級の分厚い壁も、時間をかければいつか必ず突破できることを身を持って知っています。そのことを理解できないか、手間暇かけることを惜しむ人は、どんなに優しい外国語を学んでも初級から先に進むことは絶対にできません。今の中国語のクラスは既に英語を話すことができる人が何人もおいでのようです。なかなか面白いことになって来ました。

中国に差し上げてしまえ?

2011-11-15 19:02:16 | Weblog
 またまた民主党の某大臣がなんとも愚かな発言をしたようですねえ・・・。翌日あわてて否定したそうですが、絶対に言ったに決まっています。その程度の皆さんです。

  酒の席との話ですが、一国の大臣の発言としては情けなさすぎます。何かと中国とのトラブルが絶えない某諸島を「中国に差し上げてしまえ。」とおっしゃったとのことです。中国がなんとか既成事実を作ってこの諸島が自国領であるという既成事実を作ってしまおうとしていることまではこの大臣も認識しているようですが・・・・もめるくらいなら面倒くさいから中国に差し上げてしまえということなのでしょう。
  
  この発言にはいくつもの見過ごすことができない問題が含まれています。一つには、この諸島の周りにはエネルギー資源のない我が国にとって重要な天然ガスが埋蔵されていることがわかっているということです。中国も今や資源の不足に悩まされています。だめでもともと、日本がひるんでくれれば儲けものというつもりで頻繁にちょっかいを出してくるのです。民主党のこの大臣は、原発廃止運動まで起きている日本でエネルギー資源について真剣に考えなければならないということなど完全に忘れてしまっています。

  次に、民主党のこの大臣には、日本の領土を守るという最低限の意識もないことがわかります。酒の席でやけになって叫ぶならせめて「中国にくれてやれ!」くらいの表現ができるはず。現実には「差し上げる」という表現だったそうですから、この大臣にとってのご主人さまは日本国民ではなく中国共産党なのだということがわかります。
そもそもこの諸島は、戦後米軍が爆撃演習に使っていたところです。中国領であるなら米軍が軍事演習に使用することを中国が見過ごすことはありません。中国も天然ガスが発見されるまではこんな小島のことなどどうでもよかったのです。

  何より、この島は私有地なのだということをこの大臣はご存じないらしいのが無知の極みだといえます。そうなのです。この諸島は完全な私有地で、とある個人の持ち物なのです。個人の所有する土地を勝手に「中国に差し上げてしまえ!」などと平気で言ってしまえる人が大臣の座についているなど、いかに現政府が知識も英知も国民の財産を守る意識もないかということがばればれですね。

どうするよこのTシャツ

2011-11-14 16:09:31 | Weblog
  何着もたまってしまったTシャツ。昔は用が済むそばから捨てていたのですが、最近のものは生地も良くなり、着ようと思えば当分着用可能なものばかりです。ただし職業柄、背中にはぎっしりとクラス全員の名前がプリントしてあります。捨てるのはもったいないが、着用して表を歩くには恥ずかしすぎます。特にJT最後のTシャツ(厳密にはポロシャツ)は、背中に寄せ書きをしてくれたのは良いとして、何を思ったか前には大胸筋と割れた腹筋が黒々と手書きで書き込まれているのです。着られないだろ、これ!

  室内に飾るのもなんだかなあ・・・。ただでさえトレードマークのポロシャツがたまりにたまっているので、思い切って処分しなければなりません。しかし、捨てたら罰が当たりそうで、しかし思い切り場所ふさぎで・・・・。そろそろ徐々に身辺整理をしておかないと何があるかわからない年頃に入ってきたので、やっぱり思い切って捨てるか・・・・・と思って、収集日前日に燃えるゴミの袋にまとめて入れてしまったものの、ゴミの袋に入れたこと自体なんとなく後ろめたくて再度取り出してしまいました。

  優柔不断だなあ・・・・。

追記

2011-11-14 15:59:16 | Weblog
 このところ中身が硬派の話題ばかり書いてきたので、急に次が書けなくなってしまいました。が、読んでくれる人がいる以上書かないわけにはいきますまい。

  というわけで・・・・。30年代について万一誤解があるといけないので追加しておきます。私が住んでいた江戸川区葛西は東を江戸川、西を荒川、北を新川、南を東京湾というふうに他からは半ば隔離された島のようなところでした。そうとう文化的に遅れていたことは確かです。葛西にとうとう喫茶店が出現した時は、お茶を飲みにわざわざ店になんか入るか?とバカにしたようなところでした。

  もっと凄いのは、物の大きさに対する感覚の違いです。長さ800メートルほどのバス通りに薬屋が2軒、八百屋が2軒、魚屋が1軒、肉屋が1軒、文房具屋が2軒、豆腐屋が1軒、金物屋が1軒、洋品店!が1軒、よろずや(パン・アイス・駄菓子・卵・味噌=量り売りで新聞紙にくるむ・乾物・等)が1軒あっただけで、基本的に私たちはその島の中で暮らしていました。父の勤め先も正門まで200メートルしかありませんでした。したがって、距離感・空間認識の狭さは大変なものがありました。何もない場所に環七が出来た時、こんなところに滑走路を造ってどうするんだ!と思ったほどでした。

  しかし、東京の内、江戸川区・葛飾区・足立区・荒川区の北部・北区の西部・板橋区・豊島区・練馬区・中野区・世田谷区などは似たようなものでした。池袋から西武線にのると、5分もすれば畑と林の田園地帯だったのです。
決して葛西だけが文明から隔絶していたわけではないのです。

  当時の世相を物語る記憶があります。小学生高学年の頃だったと思います。江戸川にかかる総武線の鉄橋の下には、バラックを連ねた集落がありました。それはいわゆるサンカだと言う人もいますが、当時はそんな時代だったのです。この集落はいつの間にかなくなりましたが、恐らく東京オリンピックに向けて行政の指導により退去させられたのだと思います。

私がJTを捨てた訳-2

2011-11-10 18:46:05 | Weblog
卒業したのは埼玉県立所沢高校でしたが、入学したのは都立江戸川高校でした。6学区のエース、両国高校に合格する学力は十分あったのですが、江戸川高校なら自転車で通えるので、バスと電車を乗り継がないと通えない両国高校へは最初から行く気がありませんでした。まあ、根性を出せば自転車でも通えたとは思いますが。

  江戸川高校へ入って真っ先に感じたのは、クラスメートたちが自分とは違う雰囲気を漂わせているということでした。小岩何中とか、錦糸何中とかから来た連中にはどうしてもついていけないという気がしました。前にも書いたように、当時の小岩地区と私の故郷では韓国と北朝鮮ほどの経済力の違いがあったのです。錦糸町あたりから来ている生徒の家は更に裕福そうでした。やはり、鉄道が通っている地区の奴は文化程度が違うのだと感じたのです。
(当時の鉄道は総武線一本だけでした。)
  何しろ町?で唯一の洋食屋だった「田中ホール」の店先の商品見本、オムライスを横目に見ながら、いつかこれを食える人間になってやる・・・と決意していたような田舎者だったのです。江戸川高校でのカルチャー・ショップはとても大きなものでした。

  JTに転勤し、自分のクラスを受け持つことになって真っ先に感じたのは、この時と類似した感情でした。JTの生徒は全員が4年生大学に進学するつもりで入学してきます。既にその時点で家庭の経済力ははっきりとしています。最初に勤めたI商業高校のように、親に捨てられて高校時代から売春で身を立てているような子は一人もいません。それでも最初の内は私なりに希望を持って仕事に打ち込んでいました。しかし彼らが3年生になった時、私ははっきりと、JTは私のような教員がいていいところではないことを悟ったのです。

  JTに入学する子の大多数は、何らかの運動部で活躍することを夢見て入学してきます。野球部だけで150人から部員がいる高校なのです。そして、3年の6月くらいまで(野球部は夏の大会の予選まで)部活に励んだ後、部活を引退した彼等は、一気に予備校へと流れてしまいます。学校へは出席日数を計算して卒業条件を満たすだけの出席はしよう、後は予備校にすべてをかけようという雰囲気が充満しているのでした。明らかに高校や高校の教師には頼らないという気構えでした。

  それまで私は予備校に金を貢ぐことなく大学に行けるように、私が全身全霊を挙げて指導する、というやり方を貫いてきた教師でした。その意気に感じて、それまで通っていた予備校をやめて、私の補習一本に絞った子も出現するほどでした。そんな私には、自分とJTの生徒との間に、何ひとつ通いあえるものが感じられなかったのです。そこで私は、まだたった一回の卒業生しか出していない段階で、JTには見切りをつけ、間違いなく自分を必要としているはずの学校へ移ることにしました。それが商業高校であり、結果的にKTSに配属されることになったのです。

  KTSに通って来る生徒たちが置かれた家庭環境は、私が育った地区の家庭環境と50歩100歩か、それをさらに下回っています。私が可愛がっていた子が、実は母親が刑務所に入っていて、出所してきたら実は不治の癌ンに犯されていたなどということもありました。(KTSでの私については、goo版にはほとんど載せていません。あしからず。)

  KTSでの私は、先述のように非常につらい立場でもありましたが、とても充実していました。何より、自分が育った世界とほとんど同じ世界で育ってきた子たちを相手にしているのです。JTにいた時のように、異星語?で話をする必要はありません。私が話したい言葉で話したいように話せば彼女たちにはしっかりと通じたのです。他のどの先生よりも乱暴な言葉遣いで激しく迫る私を、獣でも見るかのような目でみる生徒は一人もいませんでした。(JTではいくら気をつけて話をしても、私をそういう目で見る生徒がいました。)

  私がJTに適応できなかったのは、恐らくは自分の育ちが悪かったせいです。しかし、最後にその育ちの悪さを存分に生かすことが出来たのは望外の幸せだったと思います。恐ろしいまでのくやしさが(ここもgoo版では意味不明かと思いますが)残る終わり方であったとはいえ、私ほど幸せな気持ちでキャリアを終えることができた教師はそう多くないはずです。少なくとも私はそう思っています。

私がJTを捨てた訳

2011-11-09 16:00:33 | Weblog
いろいろと過去に書いた内容とかぶってしまいますが・・・。
 
  担任命の教師生活を送った私・最初のIKBが7年・次のKWが9年・次のADCが11年と続き、ADCを出たところでその次の学校を最後に定年まで居座ろうと思っていました。ところがあにはからんや、次に行かされたのが3年で廃校になる予定のTTM。そしてその次がJTというわけです。JTと言えば都立高校ながらかつては甲子園に2回も行ったという野球の名門校?です。ここにやってくる子たちは大部分が運動部目当てでやってきます。しかし頭の方もそこそこ優秀で、浪人すれば大体が最低でも6大学に入ります。非行という面ではこれといった問題児はいません。部活に打ち込めるくらいそこそこ裕福な家庭の子女がほとんどです。いようと思えば定年までいられたJTを捨てていわゆる底辺校といわれるKTSに自ら進んで身を投じたのはなぜか。ほとんどの教師はKTSから脱出して中堅以上の進学校へ異動することを願っているはずです。(商業科の先生は無理ですが)その真逆の道を選んだ訳は・・・・・。

  そのヒントは9回に渡って書いた「30年代」の中にあります。私が17歳まで住んでいた地域では、中卒で就職するのが当たり前でした。17歳になるまで、私がこの地域でお目にかかった大学生と言えば、大家さんの家の応接間に下宿していた医大生のみです。およそ高等教育とは縁のない地域でした。私の兄3人もすべて当時の化学工業高校へ進みました。

  私も高校で学業を終えることを考えていましたが、私には良き理解者がいました。2番目の兄がある日私に言った言葉:「お前大学いかないで満足できるのか?」
  幸い私は英語が良くできました。あまり会社員に向いた性格でもなさそうですし、英語が好きなのだから英語の先生になろうと思いました。所沢の自宅から45分のところに、某教員養成系国立大学がありました。もっとも私の家は父親も既に定年退職し、有り金はすべて建売住宅を購入するのに費やしてしまっていましたから、親の懐を期待するわけにはいきません。大学進学者などほとんどおらず、進学向けの授業もない某県立高校に通いながら、一人で黙々と受験勉強に励みました。予備校に通うことなど頭をかすめたことすらありませんでした。高校はと言えば、進路指導室の場所すら知らなかったくらいですから、学校からは授業も含めて大学進学については何の恩恵も受けていません。学校の方もそれは百も承知らしく、一応ある卒業生による進路懇談会にも私が呼ばれたことはありませんでした。高校も家庭も、大学の「だ」すら知らない環境の中で、一人ぼっちでの受験勉強でした。
 
  しかし私の良いところは、良い意味で能天気だったことでしょう。「俺ならできる!」と、何の根拠もなく自身を持って勉強していました。模試の合格率も25~39パーセントだったのに、合格する気満々でした。

ありがたきかな日本

2011-11-07 16:38:22 | Weblog
  「韓国の学校では日本人は残虐な救いようのない民族で、韓国の敵だと教わりました。しかし日本へ行ってみたらみんな親切な人ばかりで、教わったこととは全然違いました。」
  これは私がソウルに行った時についていたガイド嬢の言葉です。韓国では学校教育の場で、日本は敵国として扱われてきたようです。 かつ、戦後膨大な援助を受けながらも少しも感謝はしていないのが韓国です。何をしても素直に受け取らず、あくまで規定の日本像の枠からずれない範囲でしか日本と日本人を見ようとしません。

  まあ、そうしていかないと国としてまとまれないのかもしれませんが、今のままでは韓国は世界で最もありがたい同盟国である日本を失うことになるかもしれません。いくら日本人がお人よしでも、韓流ブームと共に明らかになってきた「反日の根深さ」を知るにつけ、韓国に対して警戒心を持つ「嫌韓」本もいくつか発行されて来ました。一体韓国は日本が「嫌韓」に転じてしまったらどうするつもりなのか、ぜひ知りたいところです。

  反発を覚悟で言わせてもらうなら、韓国は隣に日本という国が存在することに対して感謝の気持ちを持つべきです。日本という「国」に対して感謝の気持ちを持たなくても結構です。日本という国が「存在する」ということがかけがえのないありがたいことだとわかってもらえれば。

  歴史を遡ってみましょう。埼玉県には高麗神社というものがあります。近所には高麗峠も。その昔半島にあった高麗という国が滅ぼされた時、王族である若光一族が日本に亡命してきた時にこの地を任されて定住したという由緒正しい土地柄です。
  これほど明白な由来がある土地は珍しいと思いますが、それでも朝鮮半島で戦乱が起きるたびに、敗走の果てに日本列島に逃れてきた人たちは数え切れないほどいたはずです。基本的に朝鮮半島は来たから攻めて来た勢力が優勢で、南まで制圧するということが定例でした。おそらくは南の人々は平和を愛好する農耕民族、北の人々は好戦的な騎馬民族を基本とする人たちであったからでしょう。学者によっては長い年月の間に百万単位の人々が半島から日本に渡ってきたという人もいます。

  日本統治時代の密航者(相当な数に上りますが)についてはここでは数に入れないことにします。あくまで戦乱を逃れてというケースに限ってみます。時代的に近いところでは、朝鮮戦争時、戦乱を逃れようとする人々の行き先は、南の海しかありません。その先には日本があります。プサンから対馬が見えます。戦争に巻き込まれて命を失うよりは、ついこの間まで一つの国だった日本に逃れようとするのは当たり前の選択です。

  その後、済州島で、共産主義者を取り締まるという名目で大虐殺が行われました。私が知る限りでは6万人ほどが虐殺されたという話です。きちんとした取り調べをしたうえでの処刑ではないので、無実の人々が多く含まれていたはずです。この時も日本に向かって大量の密航者が出ました。皆さんの知り合いに韓国人がいたら、聞いてみてください。親は済州島出身だという人が簡単に見つかるはずです。

  私は、日本の学校教育の中で、日本史の時間にはぜひこうした日韓の密接な歴史を教えてほしいと思っています。もちろん韓国の学校においても。これまでの歴史教育は、一番大切な部分をすっ飛ばしてきました。本来日韓はもっと親しく、補完しあえる間柄のはずなのです。

ここが変だよ韓国人

2011-11-06 18:36:39 | Weblog
 この件については、このブログが炎上するくらい反応があると良いのですが・・・。

  先日ネット上で読んだもの・名前は忘れましたが韓国人の歌手かアイドルかが、日本へ来て食べた牛丼がおいしかったと感想を述べたのに対しての書き込みです。
  「どうせもとは韓国でできたものだと言いだすんだろう?」とか、「かき混ぜて食べるんでしょ?」といったものでした。後者は切り捨てても構わない内容ですが、前者は簡単に無視できない書き込みです。

  韓国で、なんでも自国が発祥の地であると主張する現象を、ORIGINALをもじってURIJINAL(ウリジナル)というのだそうです。ウリとは韓国語で我々という意味でしたね。いろいろなものが元は韓国(朝鮮)でできたのだという主張ですが、たとえばどんなものがあるかというと・・・

  柔道・剣道・合気道・空手・相撲・忍術・歌舞伎・和歌・華道・演歌(これはありかも)・海苔・納豆・寿司・味噌・豆腐・うどん・漬物・といった日本のものから、羅針盤・漢字・活版印刷・etc.etc.しかし、主に日本文化と世界から認められているものについて、元は韓国(朝鮮)が本家だと主張することに主眼が置かれているようです。
  こんなことを主張しても世界に対して恥をかくだけですが、結構まとも?な学者がこれらの説を大真面目に唱えているようなのです。

  しかし問題は、こんなどうでも良いような項目に対して韓国人がなぜこれほどまでも熱く語るのか、そこに多くの日本人は疑問を感じると同時に、内心あきれかえってしまうであろうということです。(実際にはほとんどの日本人はそこまで韓国に関心がないので、この件については知らない人の方が多いのではないかと思います。日本人が知っているのは韓国の芸能人であって、韓国そのものには対して関心はなさそうですから。)

  昔、金達寿という作家がいて、日本中の旧跡を旅して、それらのひとつひとつが朝鮮半島に起源を持つものであるということを突き止め、本にして出版していました。私も第八巻まで読んで、後は読むのをやめました。もっと先があったのですが、私はそこで挫折してしまいました。なぜでしょう。日本中の古い神社が皆半島由来の神様を祭っていることは理解できました。しかし、私は思ったのです。「で、それがどうかしたの?」

  韓国人がどうして日本のものを韓国由来のものだと言い張りたいのか、それによって何が得られるのか、日本人には理解しがたいのではないでしょうか。何しろ我々は天皇家の祖先が朝鮮にルーツを持つと言われても、「ま、そうだろうね!」くらいにしか思わない人がほとんどなのです。この件についてしくら主張しても、右翼が街宣車を寄こす恐れは全くありません。

  日本人は、現在日本にあるすべてのものが本来は朝鮮から伝わってきたものだということになっても、そんなことはなんとも思わないでしょう。「ま、そうだろうね。」か、「へー、そうだったんだ。」で終わりです。

  日本人の受け止め方はそんなものであるにもかかわらず、せっせとウリジナルに励む韓国人の発想はどこかゆがんだものがあるとしか言えません。肝心の日本人が何の感想もないことについてエネルギーを注ぎ込むのはあまりにも惨めったらしいのではないでしょうか。

  

30年代ー9 韓流ブームと在日韓国人

2011-11-04 16:43:23 | Weblog
 あっという間に終えるかと思った30年代シリーズ、意外と長編になってしまいました。
  
  30年代と現在を比べて、少しだけ変わったな、と思うことがあります。それは韓国人についての意識です。30年代にはまだ韓国人とか北朝鮮人という区別は私たちの方には希薄でした。みんなまとめて朝鮮人と呼んでいたような気がします。かつ、朝鮮人=貧乏、朝鮮人=不潔 という思い込みが大手を振って歩いていました。確かに昭和29年には在日韓国人・朝鮮人の生活保護支給率が日本人平均の5倍の割合であったそうなので、貧しい暮らしを強いられていた人たちが多かったことは確かだと思います。また、在日の皆さんが集団で居住している地域もあり、一般に朝鮮と呼ばれていました。(ここでは蔑称として書いているのではなく、当時はそう呼ばれていたという事実を述べています。)

  韓国人・朝鮮人に対する差別意識が色濃く残り、学校でいじめ抜かれて授業を抜け出して江戸川の河川敷で一日過ごしたなどという告白を聞いたこともあります。また、教室内で「チョン」「チョン」という差別呼称が横行し、日本名を名乗っている韓国籍の生徒がじっと我慢をし、日本人のふりをし続けていなければならなかった時代でもありました。力道山・大山増達といった大物格闘家もあくまで国籍を隠していました。また、在日の人を除いてしまったら紅白歌合戦が成立しなくなると言われるほど、芸能界にも本名を隠した在日の人が大勢いました。こうした傾向は結構根深く残り、昭和40年代の末になっても、生活指導部の担当教師が警察に集められる打ち合わせの場で、「あいつらは達が悪いから・・・」という言い方で担当の警察官が話をするような時代でした。

  この「日本人のふりをして学生時代を過ごす」という意識は未だに色濃く残っているようで、在日の子弟は基本的に通称名と呼ばれるものを名乗っています。私の長い教師生活の中で、本名を名乗っていた子は朴という女生徒一人だけでした。(彼女をイニシャルで書く必要はないでしょう。朴という名字はソウルで石を3つか4つ投げたら朴さんに必ず当たるくらい多い名字です。)

  そんなある日、ソニンという子が本名で歌手デビューをし、ちょっとだけ人気が出ました。もっとも街の料理教室へ参加しても誰も気づいてくれなかったというエピソードも残してはいますが、とにか在日韓国人がく本名でデビューしたという画期的な出来事は、何かを期待させるものがありました。

  昨今の韓流ブームを見るにつけ、正に隔世の感があります。もっとももっと広い目で見た時の韓国人vs日本人ということを考えると、永遠に平行線のまま進むのだろうな、という予感はしますが・・・。この平行線についてはまた稿を改めて書くとして、今の韓流ブームは果たして在日の人たちに対する日本人の意識と、在日の人たち自身の意識を変えるところまで突き進むのかどうか、私はその点を注目しています。
  
  しかし私の予感では、この面での変化は期待できないような気がしないでもありません。なぜなら在日の人たちは自分の名前をカタカナで表したりはしません。韓国人歌手や俳優が、日本において活動する際に自分の名前を堂々と漢字表記するようにならない限り、在日の問題には何の影響も与えないでしょう。いや、本当に自分が韓国人であることにプライドを持っているなら、名前の漢字表記をした上で勝負すべきだと思います。さもなければ今の韓流ブームが去った後に残るものがあるのかどうか、あやしいものです。単に韓国人が金を稼いで去って行った・・・あの人たちは今?・・・・とならないことを願っています。

30年代ー8 破壊と絶滅の時代

2011-11-02 16:28:25 | Weblog
  いやー、私の30年代の思い出・・・暗い話ばかりですねえ。一応貧しいながらも親子6人、肩寄せ合って生きていたことは確かなんですけど・・・・。ここまで書いた以上、もう一息我慢して書いてしまいましょう。

  30年代は夢と希望と人情に満ちていた・・・・と見る人もありますが、私にとっての30年代は、「破壊と滅亡の時代」でした。それまで私が育った地区は半農半漁の、とても23区内とは思えない、ド田舎でした。すぐ裏の家は海苔養殖を生業としていました。200メートルほど離れた家では人を使ってアサリの貝殻をはがしてむき身を作る仕事をしていました。少し離れた場所には、海苔の佃煮の瓶づめを作っている家(工場というほどの規模ではありません。)がありました。荒川では船を出してシジミ漁がおこなわれており、引き潮の時にはおばさんたちが川に降りてゴカイ堀をしていました。釣り人に餌として売るためです。青大将が鎌首をもたげて荒川をくねくねと泳いで横断したりしていました。家のすぐ近くの製薬会社の裏門の前には桟橋があり、船で積んできた石炭を下ろすと、朝鮮牛に引かせた荷車で工場まで運んでいました。
  今では地下鉄まで通り、都会化が進んだ、すぐ北の船堀地区は、東側が世界一の金魚養殖地帯、西側はじめじめした荒れ地が広がっていました。東西線が通るよりはるかに昔の時代です。葛西の南半分はほとんどが葦っ原で耕作すらされていませんでした。

  ある年までは魚が豊富で、専業の漁師も沢山いました。私の記憶に壮観な景色として残っているのは、釣りの季節になるとどこからともなくやって来る沢山の釣りマニア達の姿でした。本当に隙間なくと言いたいくらい釣り人が立ち並んでいたのです。近所のおじさんは、とある会社の社員食堂に勤めていましたが、この季節になると調理師免許を生かして、日曜ごとに副業に励んでいました。荒川までおでんの屋台を引いて行って、釣り人相手に商売をするのです。シーズンには週一のおでんからの収入の方が会社の給料よりも多かったそうです。

  しかしある年、夏休みのある日、荒川の魚が「全部だろう、これ!」と言いたくなるほど沢山岸辺に打ち上げられました。そしてその翌年も。そして、更にその翌年・・・・魚は一匹も打ち上げられることはありませんでした。その2年間の間に荒川から魚という魚が姿を消し、死の川と化してしまったのです。それまでは生きた川として、住民みながなじんできた荒川でした。私など岸に上がって日向ぼっこをしているトビハゼを見てもなんとも思わず、ハゼは陸にも上がるんだとしか思っていなかったくらい、魚のいる風景が日常的なものだったのですが・・・・・。

  江東区の中小工場地帯からの媒煙がものすごく、冬になると600メートルほどしか離れていない旧葛西橋がかすんで見えなくなるほどでした。今の大島(JTも大島にありますが)地区は更にひどいスモッグで、たまたま歩いて大島を通った時など、息をしたら死んじゃう!と思って、息を止めて駆け抜けたこともありました。公害という意識もない時代です。有害物質も当たり前のようにその辺に転がっていました。私など、黄色くてきれいな物体を手に持って遊んでいたこともありました。それは六価クロムという毒物だったのですが。
  ちなみに、JTが毎年マラソン大会のスタート・ゴール地点として使用している公園、やけに盛り土がしてありますが、あの下には大量の六価クロムがそのまま埋まっています。

  こうして昭和30年代は、葛西の自然を破壊しつくし、豊かな生き物たちを絶滅させてしまいました。このいきさつを思い出すにつれ、進歩と希望に充ち溢れた30年代などといううたい文句がいかに陳腐なものかと絶句せざるを得ません。どうですか、みなさん。これをお読みになっても、昭和30年代とはそんなに素晴らしい時代だったと思いますか?