雨日記

雨とイギリスとアートにおけるコーヒーなはなし。

風邪をひいて考える。

2006-11-27 07:33:05 | Weblog
昨日。朝。頭が重たい。
寝すぎたと思ってシャワーで無理矢理起こそうとしても。
目が痛いし。喉も痛い。
ボーッとしながら絵を描いてたときに、ふと思いつく。
もしかしたらいやもしかしなくても、風邪ではないのか、これはもしや。

いちど思いつくと、もうどこかにずーんと、風邪がいる気がしてくる。

久しぶりに風邪をひいたなあ、と思って。
はじめ、あ、なんかちょっとうれしい。と思った。
それは多分、昔の 
あ、学校休める、とか。 
あ、部活サボれる、とか。
そういった類いのうれしさだったけど。
そう感じた3秒後、自分に今風邪ひいてよいことなど一つもないことに気づく。そして、こうなったらいちはやく治してやろうときめこんで寝た。
そしたら変な夢を見た。

夢の中でぼくは小説を読んでて。
その小説のなかに、もうひとりの自分がいて。
そのなかで、知らない人たちが学祭かなんかの準備で一生懸命で、ぼくはやることもなく、そのまわりをひとりの友達と歩いてた。ふと「君は何もやらないの?」て聞くと、「やらないよ。」と答えが返ってきたので、「ふーん。」と返した。
あとすこしでひとつ章が終わるからちょっとまってよ。
と思った瞬間、呼ばれたので読み終えずにそっちの部屋に行った。

昔々。
高校の頃一度だけ、高熱をだして寝込んでたことがあった。
そのときにぼくは、ちょうど弟が借りてきたヴェルヴェットのファーストを聞きながら寝てたら
ものすごく、頭が数式だらけになって、ふと工業高校の生徒はなんて大変なんだ。と、ちょうど洗濯物を取り込みに部屋に入ってきた母親に言いそうになった。言う0.5秒前に正気に戻って言わなかったけど。


この二つははっきりいって意味不明だ。
夢なんていつも意味不明だけど、熱のあるときにみる夢はいつも以上に意味不明だ。
現実に抱えてることと結びつけようと思ったらなんとかできてしまうかもしれんが
それもなんだか無理矢理な気がする。


風邪の状態って、まず感覚が鈍るってこと。
目が痛くなって、たまにはかすんできたりもする。
耳は遠くなって、キーンと耳鳴りなんか聞こえてきたり。
ハナはつまり、舌の感覚もおかしくなって、
手先もしびれてきたり。

だから、外のものから自分が遠くなる感覚になる。
一枚のかぶり物をかぶってる気分。フィルターみたいな。
だからこそ、逆に自分そのものの感覚を感じることになる。
頭が勝手に動いて、変なことを考えたり
逆に、何も考えずに、ぼーっと深いところに意識がいってたり
でも、とにかくいつもよりその奥を感じ取れてしまう。


だから、なんというか
その前に書いた二つの夢も
そういった風邪状態によって奥の奥から引っ張りだされてきたものたちのような気もしてくる。
これが深層心理ってやつか。と考えたりもする。
思考とかけ離れたとこにある意識。そいつか。もしや。


なんてことを風邪も治りきらないところで考えるから
訳もわからなくなってくる訳だ。

もしかしたら、何日かたってこれ読むと
いったい何をいっているのだ。といいそうだけど。
それも、どうぜ健康時の発言だろう。

そんなものは、深層心理にはかないはしないのである。




Jim Hall と Dave Holland

2006-11-19 09:23:58 | Weblog
二つの線が

時には牽制しあい
時には引き寄せあって

そしてあるところでぴたりと重なるとき

二線の間の緊張感が
グルーヴとハーモニーを生み出しているということを
僕は知ることになる。

人間の記憶について。

2006-11-13 10:06:44 | Weblog
昔のことを思い返すとき
そのときに自分の頭がなにを考えてたかということよりも
周りにあったものとか、そこにいた人とかのことの方が思い出しやすい。

ちょっとがんばっても、ほんのすこし、それも片隅しか思い出せないから
そのときに自分がとった行動から推測して
多分、こんなふうなことしたのは、あんなふうに考えてたからなんだろう
と、思い出したような気分になる以外、なにもできない。


昨日,今日と
昔読んで感想も内容すら忘れた本を読み返してみたら
そこにでてくるレコードのはなしだけ覚えていた。

それと、
このあいだ入ったスターバックスで、まあスタバで
メニューみてたらチャイティーが目にはいって、それを頼んだ。
懐かしい気分だった。



三年前の冬。まだジューダイでコーコーセーだったころ。

僕は友達と缶のチャイをよく飲んでいた。
四つ並んだ自販機のはじっこにあったような気がする。そこは少しあいまいだけど、
でも、とにかくチャイティーで、無理矢理のインド風なデザインで、真中にはゾウがいた。

美術室でチャイを飲みながら、デッサンに飽きると色々話をした。
映画の話とか本の話とかジャズとかロックとかそういう高校生の話だ。

そのときにその本を借りて読んだ。
でも、そのときにどう感じたのか。全く覚えていない。
あまり、よく理解してなくて、読んだ気分になってただけ。という気もしなくもない。
とにかく、レコードの話しか覚えてない。



そういうことって、ちょっともったいないな、て思った。



でも、

僕はこないだメニューのなかのチャイティーが目にはいったのだ。
そして、それを頼んだのだ。

あの自販機で売られてた缶のチャイがどんな味だったか覚えてなかったし
そもそも、それまでチャイの存在すら忘れていたのに、

いつもメニューをみて考えるのが嫌いな僕はメニューをみたふりして毎回カプチーノをたのむ。
それでもこないだは、一回チャイティーが目にとまると、頼まずにはいられなかった。


結局、頭が覚えていて、
しかもそれを自由に出し入れすることのできる記憶って
ものすごく小さい規模で
それをもし 覚えてる。というならば
僕はほとんどのことを覚えてないけど。

でも
スタバのチャイの話のことを考えると
頭じゃなくて、もしかしたら頭かもしれないけど、
どこかに、そういった忘れたと思ってるものたちはちゃんといて
意識して取り出すことは無くても
忘れたと思われてても。ちゃんとそこにいて。

簡単に出し入れできるものだけじゃなくて、
じつは、こういう奥にずっといるものたちが、
自分を形成する上でなかなか重要な存在なのかもしれない。


近頃、
色々なものを見て、ちゃんと噛みしめたつもりでも
すぐぽろぽろとこぼれていって、忘れてしまっている気がするけど
それでも、なにかしら、どこかに引っかかってくれてるといいんだけどなあ。



と最終的に、こう思ったのだった。終わり。







シュールなレアリズム

2006-11-08 09:30:41 | Weblog
今日みつけた、おもしろいこと。

あるシュルレアリストのことば。
'a word is itself a very highly combustible object'
意訳;言葉というものはそれ自体それはもうとても燃えやすい物質なんですよ

上手く訳せてないけど。

ここでなにがいいたいかというと
言葉は言葉として、ひとつのモノとして存在するんだよ、てはなし。




言葉はなにかを表して、ほかの人に伝えるために
“道具”という面が最初にある。

今くるってみわたしたときに目に入るもの全てには
それを表す言葉がある。

だから、その言葉たちには必ず後ろになにかあって
それ一つの存在ではなく。常に、なにかに付属している。

が、しかし



マグリットが絵に描いたのは、
言葉と画がちぐはぐにおかれ、額に飾られた画。
彼は馬の絵の下に、the doorという文字をのせる。
また牛乳瓶の下に、the birdという文字をのせる。

彼はその行為を
demonstrate of the freedom of the languageとよんだのである。

ここがいいとこ。

モノはモノとして一個で存在できる。これはよし。

次に言葉。
言葉は、なにかを表すための道具。
だから、その言葉をつかうと、その言葉そのものよりも
その言葉の後ろにある、表してるモノが前にでてきちゃう。

でも、ちょっと目を細めて思考の速度を落とすと

表してるモノが出てくる前に、その言葉というモノに目がいくと、だ。
ここで、その言葉が言葉それ自体として存在できるという可能性を知る。

the doorは扉を表すことは無く、the doorであり
the birdは鳥を表す訳でも無く、まして牛乳瓶でもない、the birdであるのだ。

それは表すためではなく、それ自身として成り立つモノになるのだ。

人は何かに言葉をあてはめる。
そうすると、あてはめられた言葉によって、そのモノはその言葉を通したものになるし
その言葉も、それを表すための言葉になる。そこに固定される。

でも、その関係性をちょっとほどいてみると

その二つのものが、ひとつ、ひとつ、なにも縛られずに存在できるようになる。広がるのだ。


そこが、最終的に、surrealism(シュルレアリスム)の目的である
the liberation of our mind: 心の解放
につながっていくのだ。






あー、面白いけど、あったま痛くなりますね。




11月がやってきたらしいよ。

2006-11-01 20:38:59 | Weblog
ひさしぶりに昼間に書きます。


11時過ぎに換気しようと開けた窓から
冬の匂いがしてきたのです。
だからこれをこう書いている訳です。

白い息が
冷たい風に一瞬で消されたので
窓から顔をだして何回もはあはあ息はいてやったのですが
結果はどうしようもなく同じです。

乾燥した太陽が
頭痛をおさえてくれるはずも無く
ものが多くなってきたこの部屋で
どうしたものかと考えるていると
またくらくらしてくるので
冷たくて透き通った電子音に体を沈めるしか無いのです。


空白。

になりきれないけども。


でもそうしてちょっと落ち着いてみると
むこうから早足でやってきやがる季節も
まったくしょうがないなあ、寒いけどしょうがないなあ
て、笑って許してあげたくなる気もしてきます。

まったくしょうがないなあ。
きづけばいつのまにか11月だ、まったくしょうがないなあ。