雨日記

雨とイギリスとアートにおけるコーヒーなはなし。

さよならこんにちわ。

2006-09-21 17:28:58 | Weblog
あしたの夜にはロンドン。



日本はいい国。
そしてやっぱり東京には自分の好きが多くある。

新宿に行くとディスクユニオンでレコードのジャケを眺め。

渋谷についてブックファーストで高い美術書を立ち読みすれば。
裏道にある趣味の良い映画館へ。


御茶の水のジャニスには
海外でさえ手に入らないであろう貴重な音源があったりして。
その流れで神保町にでると、商売する気のない古書店で安い画集をあさる。
ちょっと奥に入って珈琲を飲む。

下北沢で演劇を見た帰りに寄る呑み屋さん。
300円のラーメン。

高円寺にはお香の匂いのする優しい古着屋さん。

初台の商店街にあるあったかいパスタ屋さん。



国分寺のスタジオで皆が適当に楽器を鳴らす。
操作の手違いで名曲が録音されることはなかった。


代々木公園の向こうには明治神宮。
幸も不幸もないおみくじ。満員のハチ公バス。


団地にさしこんでくる西日。
小田急線から眺める。

夕立。
傘がこわれる。


いろいろたくさん。

東京タワーとか六本木ヒルズとかじゃない東京。
裏道とか雑居ビルの上とか商店街の奥とかの東京。

あの人達がいるところの東京。
はじっこだけど東京。


そういう東京がものすごく好きと最近気がついてしまい。
もうちょっと見ていたい気もしますけども。

しょうがない、選んでしまったロンドン。
イギリスロンドングリニッヂ。

たのしいロンドン。素敵なロンドン。

たまにはオシャレしてみるかなあ。
東京少年はロンドンボーイになれるのか。


雨降り。
ロンドン。なにが待つ。

とりあえずカッパを買ておくことにしよう。




では。

東京さよなら。ロンドンこんにちわ。
みなさんさよなら。みなさんこんにちわ。















デザインによせて。 ~エピローグ~

2006-09-15 21:04:30 | Weblog
三部構成でかいてみた自分とデザインについて。

大きな影響を与えてくれた三人の素晴らしいデザイナーに感謝します。
ひとりでも欠けていたら、今回のこの発見はありえなかったと思います。

今まで書いてきたことを通して。

結論をいうと、この発見は次の発見によって覆される可能性は十分にあるということです。
ここで僕は、デザインにおける新たな魅力を発見しました。でも、これが必ずしも僕のデザインに対する結論ではなく。
最初に書いたように、途中経過で。
これから、僕はロンドンで三年間大学でデザインを学ぶでしょう。でも、学校以外でもデザイン以外のものに沢山触れてみたいと思っていて。そしたら卒業して。デザイン事務所に就職するかもしれないし。いきなり彫刻に目覚めたり、陶芸にはまって修行しているかもしれない。そういった、色々なことを通して、自分のデザインやアートに対する見方は変わってくるのが自然だし、その変化を止めようとは少しも考えていません。深沢さんもこういっています。大学のたった数年の間に、才能があるかないか見いだせるほどデザインは簡単なものではない。そう。どれもこれもそう生半可に片付けられることじゃないんです。だからこそ面白いともいえるでしょう。

今回ひとつ言えることは。
まだまだ浅い自分の考えにとらわれるのは危険だな。ということ。
まだまだ。かじったどころか、触ったくらいだよ、君は。
デザインさんにそういわれました。そんなんでわかったような気でいたら困るよー。

すいません。

まだまだ見えないとこあるな、と。魅力はかくれてるな。奥に行かないとわからないこともある。
それを探らずに投げ出すには、まだ早すぎる。

ああ。危ない。
あなたの投げ出そうとしてるそれにも、まだなにかあるかもよ。

僕はデザインをもう少しみてみます。三人に触れて、そういう想いでいっぱいの今。
三人の方にもう一度感謝。そして、この素晴らしいデザイナー達を教えてくれた人たちにも一礼。



ここでデザインによせては終わりです。
読んでくれてありがとうさようなら。



デザインはとてつもなく素晴らしいもの、、、かもしれないよ。







デザインによせて。 服部一成編

2006-09-15 20:45:00 | Weblog
ちょっと、観念的な話しになりましたが、、、

こう言って服部さんは色々なヒントを僕にくれたのでした。

時は9月の10日。日曜日。
葛西薫さんの講演会が行われた東洋美術学校で、こんどは服部一成さんによる講演会が開かれました。

少し眠たげで、しゃがれた声で。服部さんはボソボソッと話し始めました。

このころの僕は、段々とデザインを勉強したいという熱が冷めてきていました。どうしても、手段や道具から切り離すことのできないデザインというものを、ずっと好きでやっていけるかどうか自信があまりなくて。そっちより、もっと自由に思える自己表現の世界というものに、漠然とだけど魅力を感じていました。

だから、今回はなんとなく機会があるから、というような。とても失礼な話だけど、どこか気の抜けたかんじで見に行ってしまいました。

でも、予想とは裏腹に。服部さんのデザインにたいする熱と姿勢にやられたのでした。

デサインとは、手段だ。でも、ただ単に手段といわれたときに、そこからこぼれ落ちてしまう大事なものがあると思っています。それがあったから、ここまでやってこれたと思っています。

一番、信じたい。一番、言ってほしかった。
そんな言葉でした。
まるで、形になってない断片みたいな言葉たちだけど。デザインに取り憑かれてると、自分とデザインについて表現していた服部さんの、まぎれもなく素直な想いだな。と思って。

そして。写真家中平卓馬氏の宣伝美術を担当したときのはなしで、こういう逸話があって。
服部さんが中平さんに、仕事の初めに挨拶に行ったときに言われた言葉。

僕以上でも以下でもないものにしてほしいね。

そして、服部さんの先輩であるデザイナーの仲條正義氏との会話で交わされた言葉。

百円のものは百円のデザインをしたいよね。百円にたいして千円や一万円のデザインをするのは品がないよね。

この二つの言葉は、服部さんの中に強く残った言葉だったらしいのですが。
自分にとっても、ひとつコトってものにつまづいて、なにか見つけたような。そんな気分になったりして。



自分はいったいデザインのなかに何を求めていたんだろうな。と思いました。
デザインに自分の個性を見いだそうとしてみたり、芸術性とかいう自分でもはっきりわかってないものが含まれてるかどうかでなやんでみたり。しまいにはデザインはなんか商業的で、かたいモノなんだ。とか思うようになっていって。

どこでなにを置いてきてしまったんだ!

服部さんは若いころ、仲條さんのデサインしたマッチ箱のグラフィックデザインに出会い、それにどうしようもなく豊かな気持ちをいだいて。そのマッチ箱がある喫茶店に通ったころがあると、話していました。

僕にとってのそれは、高校二年のときにCD屋でみつけたRAMONESのファーストアルバムのジャケデザインで。白黒の写真のなかに四人の革ジャンパンクスがボロボロのジーンズとコンバースをはいて横一列にならんでて、その上に白地のロゴがはいっていて。このなんでもないけど、どうしようもなくかっこいい、と思える。このCDを買わずにはいられないような。はじめて視覚的に音楽を知って。

見つけた!ていうような。なにこのジャケ、かっけーんだけど!


そういうのをいつの間にか、グルグルと色々なかっこだけは良い言葉を並べて説明するようになってしまった。理屈とか言葉とか、そういったものには説明できないことがあったはずだった。たとえ、自己表現とはちがくても。たとえ、アートとは区別できてしまっても。デザインは、デザインのなかに、ちゃんと持っていたんだっけ。

そういう大事な、言葉で説明してるとこぼれてしまいそうな。
もっと、それを知りたい。そう思えてきて。
デザインをもっと探ってみたい。その価値は十分すぎるくらいあるはず。


曇りが晴れたな。と確信できました。

もうちょっとみてみよう。
先はわかんないけど。いまはもうちょっと。


なんかデザインを思い出したような。
いや、ちがうな。もう一度発見しなおしたんだなあ。

とにかく、すばらしい言葉と、いまの自分に響く
そういったものが溢れていた

服部一成さんと彼のデザインたちのはなしでした。




デザインによせて。 深沢直人編

2006-09-11 23:33:44 | Weblog
デザインを自己表現と勘違いしている人がいる。

あれ?俺じゃん。て思いました。


自分にとってデザインってアートと同じ、もしくはアートにふくまれるもんだと思っていたんです。

そもそも、そのアートっていう言語自体あいまいなものだけれど、僕の中では、“表現”という言葉としっくり馴染むようなきがしてたわけで。なかでも自分でなにかをつくりだす、ということは自己表現であり、それはアートであると思ってました。

僕は絵を描くことが好きで、その延長線上でデザインという分野をある日見つけました。
だから、僕にとってはデサインってアートのなかの一分野みたいにずっと思ってきたんです。
でも、もしかしたらそれは違うのかもしれない、という考えをどうしても否定できずにいたこの頃。葛西薫の講演でもその迷いを打破できるほどの信じるものをつかめなかった僕は、どこにもいけない自分の考えをもてあましていました。
そんなときに読んだのは友人に借りた深沢直人さんの本です。

軽い説明をいれると、深沢直人さんは工業デザイナーです。有名な仕事は、無印の換気扇みたいなCD playerなどです。見たことある方もおおいとおもわれます。僕の読んだ「デザインの輪郭」という本も、デザインを学ぶ学生必読みたいな位置づけらしいです。それもよくわからないけど、それほど今のデザイン界にとっておおきな存在ということです。

この本で、深沢さんはデザインをするということは
創造する というより 見えてくるもの
という捉え方をしていました。
なかなか気がつかないかもしれないけど、デザインは人の生活のなかにどこにでも存在しています。目立つそこのギターも、今なんにも意識しないで打っているこのキーボードにもデザインが存在します。

かっこいい、オシャレ、クール、いままで見た事ない、雰囲気をつくりだす、
そういったものだけがデザインではないのです。

デザインが人の生活にある、もしくは必要であるならば、人の生活のなかからデザインが生まれるのです。
人が何かをしようと、手を動かした時。そこにあるべき形が見えてくる。それがデザインの輪郭で、それをつかむことがデザインなんだ、ということを深沢さんは書いていました。


この考えが頭にはいってきて、というよりカーンてなぐられた気分で
実を言うと、結構ショックでした。自分がデザインに求めていた側面を否定された気がしたからです。

深沢さんは、そのデザインという困難な作業のなかで、その輪郭をつかめたときのよろこびとか、自分の生活にどれだけデザインが影響を及ぼしているか、ということを熱っぽく書いていました。多分、上の部分を読まずに、ここの部分だけ読んだら、ああわかるわかるそうそう気持ちいし楽しいんだよね、て浮かれてたろうけど。もうそんなわけにもいかず、いままで、どこか自分が、自分のデザインが、とかいってた僕はその喜びもあいまいになっていったのです。

デザインは自己を表現するものではない。
僕は今まで、僕はこういうデザインをしたいんだとか
あの人のデザインのスタイルが好きだとか
デザインにアートを取り入れなきゃつまんないじゃんとか
そういうことを信じてやってきた部分があって、
それに憧れて、将来に希望をいだいていました。




あれ?ちがうかもしんない。
もしかしたら、デザインってちがうのかもしんない。



そう気づかせてくれたのは深沢直人のデザインでした。









デザインによせて。 葛西薫編

2006-09-11 23:24:25 | Weblog
葛西さんのデザインってなんにもマーケティングの匂いがしないんだよ。

すこしやらしい表現だけど、僕はよく葛西薫さんを知らない友達らにこういう風に説明します。

曙橋にある東洋美術学校というところで、葛西薫さんの講演会があったのは七月のはじめ。
僕は葛西薫さんの大ファンで、その情報をつかんだとき、初めて葛西薫さんの話しを生で聞けるのだ!と、ミーハー的な気分でうれしさいっぱいでした。

しかしながら、このころ一つ、デザインという分野にたいしてなにかひっかかったものがありました。
デザインじゃなくて、ちょっと絵かきたいな。
ていう気持ちとか
デザインを勉強するよりも、もっとアートよりのことを色々掘り下げた方が面白いのかな?
といったものが、どこかにスッとあるのが、だんだん大きくなってきていたのです。

デザインはコミュニケーションツールだ。とか伝達手段だ。
とかよくいわれてきて、それでもそれはある一部分だけで、もっとアーティスティックにもやりようによればなんだってできるはずだ。って信じてやってきたのが、だんだん自信がなくなってきたってのが本音かもしれません。

だから、ミーハー気分の横には、ここで何か見つけたい。何か信じられるものをつかみたい。と、ある意味すがるような気持ちもあるのでした。



テーマは言葉と文字ということでした。葛西さんは、割と慣れた調子に自分の仕事や作品にふれつつ、そのエピソードや成り立ちなどをテーマにからめて話していました。

ときどき、葛西さんはあいまいな表現をつかいました。
「ちょっとおもしろいかな、て思ってこうしたんですよ。」
「なんかいい感じだな、と思ったんですよね。」

ときには色々なことを理屈に沿って説明した後に
「でも実際そんなこと、そんなに考えないんですけどね。」
などと、おどけたりするのです。

僕はその、すこし曖昧でぼやけたところにこそ、いま探してるものがあるのかもしれない、と必死に身構えたけれど、
なにかこれだっていうものは結局つかめず

その葛西さんのいい感じとか、ちょっと面白いとか、前まではとてもわかってるつもりで
とても嬉しいかんじだったんだけど
その時きくと、すこし、そのうれしさも迷いがあって。
どうしてもそのつかめないモノに、ひきずられてる感覚がありました。


でもやっぱり感覚は嘘をつきませんでした。

最後に、葛西さんがいままでdirectionをしたウーロン茶のCMを流しました。


僕は葛西さんを知る前からウーロン茶のCMが好きで
CMとは思えない静けさと奥行きと空気感がたまらなく好きでした。
そのart directorを知ったときには、ああ、これだ、このひとだ、と思ったものでした。

ウーロン茶のCMはかなり昔のものから今実際やっているものまで通して上映されました。
ひとつ。ひとつ。
たった何十秒の映像がつづけて流れます。
見たことあるのも、ないのもありました。
ひとつ。ひとつ。

ふわっと流れました。すーっと入ってきました。
言葉にならない、ものを。
もらったというより、思い出したというものに近い感覚がありました。

本当に目頭まであつくなってしまって
今まで悩んでいたことを、その流れてくる映像を眺めている間は確かに忘れていました。


結局、具体的なことはつかめず講演は終了しました。
僕の悩みは未解決です。
でも、どこかになにかある。これだけは、あの映像たちをみたおかげで信じることが出来るのでした。






デザインによせて。 ~プロローグ~

2006-09-10 23:53:48 | Weblog
うん。
デザインによせて。

この夏の間に、三人のデザイナーのデザイン観に触れて
自分のデザインにたいする見方が
いろいろな方向へ揺さぶられた気がします。

これから、その人たちに
揺さぶられて かきまぜられたことを
なんとか言葉にしてみたいと思います。

自分なりの解釈を
言葉にならないことが多すぎますが
正直に素直に書ければと思います。

全部途中経過の実況中継。

デザインとは。

はじめに言っておきますが、
結論もオチもない、ただいま迷走中の頭の中の話しです。


 

宵待草。

2006-09-03 15:14:54 | Weblog
「宵待草」
監督 神代辰巳
出演 高橋洋子、高岡健二、夏八木勲
音楽 細野晴臣

細野晴臣による映画音楽の最初の作品。
ということでみました。
新宿ツタヤのロマンポルノばかりならんであるところに、ひとつだけ場違いな感じにありました。
それもこの監督がそういったところで60、70年代に活躍したひとらしく。

だからという訳でもないけど、はじまりはベッドシーンから。いや、座敷に布団だけども。

ところでところで、この映画には2人の男と1人の女を中心に話しが進む。
じつは、僕はこの人物配置がほんとに好き。昔の、今もかな。ロードムービーといえば。
男2の間に不思議な女の子一人。
しかも、その人物背景もまた定番。
男2人の革命犯に誘拐された1人の女。それがいつのまにか三人一緒に逃げることになる。

このベタベタど真ん中直球ストレートロードムービーでも
なんで、この作品がこんなにも魅力的なのか。

世界感だとおもう。そして音楽。
そう、この映画は見せ方が本当に素敵なのです。

アホな台詞と、奇怪な言動。なにか緊張感のない戦い。
殺し合う二分前まで2人でヘラヘラニヤニヤして会話を交わしている。

一枚のすこしぼけたフィルターを通し
しかもそれを斜め上から平和そうに眺めてる感じ。


でもそれは哀しい話。
なせなら

宵待草の詩を口ずさむ彼らは

捨てるものも無く、たいした理由もなく
何かに疲れて、どこかで何かを置いてきたような、
そしていつのまにか諦めてしまったような。

そんなモノを含んだ高い笑い声がきこえてくるので
この可笑しさは、どうあがいても哀しさに直結してしまうのかも。

その哀しさをまた、滑稽で温かくつつんでくれるのは

ポコポコうごくカメラワークであり
細野晴臣の音楽であるわけです。

邦画はよく、雰囲気映画だから、といわれますが
この映画は、だから、なんていえなくなると思います。
少なくとも僕はそんなこと言えません。