雨日記

雨とイギリスとアートにおけるコーヒーなはなし。

さいごになりましたが。

2006-12-28 08:49:23 | Weblog
今年最後の文章になります。


2006年でしたね。

今年もいろいろありました。
いろいろいろいろいろいろありました。

みんないい思い出です。
笑えたことも、笑えなかったことも
今思い出して笑えることも、笑えないことも
みんなひとまとめにしてしまいましょう。
そうすれば、全部あったかい思い出になります。
都合がいいようにできてます。
でも、これでいいような気がします。



まあ、過去にひたることはあまりよくない気もしますが
たまには引っ張りだしてみるのもわるくはない。

今年はそう思えることが、いつもより多かった気がします。
いいことです。まちがいなく。



よい人々に囲まれてます。そこはほんとに感謝です。
皆のおかげで今年もよい一年でした。



来年は、なんてことが言えません。
それでもきっと楽しくなると思います。いつもと同じように。
どうしようもなくまたいろいろあるのだろう、と思います。

それでもって、くだらないはなしをしながらコーヒーでものめたら。



いやあ、まったく2006年だった。
それでは2007年もあいかわらずによろしく願います。












今日は寒かったから。

2006-12-15 05:41:51 | Weblog
外はとても寒くて
風がふいてるし
暗い雲が街中を灰色にしてしまうし

冬ってこうだったかあ、と思ってしまう。

あたたかいところで見る冬は
シンとして、きらきらしてて
とてもきれいなはずだったのになあ、と思ってしまう。

あたたかいところで見る冬の冷たさは
とても魅力的にうつるくせに
冷たいところでそれを見ると、やっぱり冷たい。
と、少し失望したりする。



こうだったはず、とかいうとても自分勝手な映像で
文句言われる筋合いはないよ、と、冬がいったとしても

ぼくは多分、この冬がすぎるとまた、
勝手な希望をつぎの冬に描くのだと思う。



ボタン人生論。

2006-12-11 06:24:50 | Weblog
世の中に、"創句"と呼ばれるものがあると知ったのは一昨日。
友達にかりた永六輔選・著の本の中。
その中に載せられた、たった数行、数文字の短文たちは、
説明、解説はいっさいなく
それこそ、そこにかかれたもののみで
なんだか、とても気持ちのいいものだな、と思った。

そのなかで一番ひっかかったもの。


“かけ違えた釦(ボタン)のまま生きる”


なんなんだ。いったいどういうことなんだ。
よくわからない。
でも、なんだか、やっぱりよくわかんないんだけど
どこからともなく、勇気がわいてくる気がする。

かけ違えたまま、

やっぱりかけ違えてるよ,それ
て、言われても

かけ違えたまま

あ、しまった、なんかかけ違えてるじゃないか、これ
と、気づいたとしても

かけ違えたまま

何も言われず、静かに笑い者になってても
そのまま気づかなくて
ずーーっと、後になって気づいたとしても

かけ違えたまま、生きるのだ。

よくわからないけど。

ボタンをかけ間違えている状況というものは
とても、可笑しい。
そして、なにより哀しい。

ぼくはこの句をつくったひとの言わんとしてることを
きちんと理解できてないかもしれない。

でも、僕にとってのこの句は、
その可笑しさ,哀しさ、の後ろにある
なんだか間抜けな強さというか、なんというか

そういったものをフッと感じさせてくれる句なのだ。


とても気持ちがいい。
この短い文にぼくは人生を悟った気分でいるのだ。




いつか、なんとかして。

2006-12-03 08:07:06 | Weblog
昨夜、バラバラのプリントとかを整理してたら
夏にもくもくと集めていたフライヤーの束がでてきた。
そのほとんどは演劇のフライヤーだった。

よくいくヒトは知ってるかもしれないけど
ひとつ演劇をみにいくと、それだけで二十枚くらいのフライヤーが一挙に手に入る。
手に入る。というより、渡される。
二回いけば単純計算で四十。でも実はそのほとんどが前のと同じなのだけど。

でも、そういうのを眺めるのが好きなぼくにとってはとても嬉しかった。
だから演劇を見始めることとなったこないだの夏は
見に行ってはフライヤーを抱えて帰ってきて。それからそれをじっくり眺めていた。



演劇ってすごいんだよ。
この夏に、友達に連れてってもらって四つ見ることができた。
まだ四つしかみてないけど、十分に自分はこいつに魅せられつつある。

熱気と緊張がある。
大きなホールにも、ちっちゃな小劇場にも。共通して。

それは演目が始まる前。チケットきられて会場に入った瞬間から。
ステージの上のセット。まだ役者はいない。
フライヤーの束を抱えて、席を探して座る。
携帯を切って。
荷物をしまい、落ち着いて姿勢を直す。
フライヤーをひとつひとつめくっていく。

だんだんと埋まっていく客席。

なんかワクワクというよりゾクゾクするこの間。
それをごまかすように
横の友達とひとつふたつ言葉を交わす。




そのうちに照明が落ちる。

そこから始まる物語。
あとは役者にもってかれる。

全体と細かい部分がいちどに舞台上でみせられる。

どこに目をむけよう、なんて考えてる暇もなく。
でも、たまに、はっとして、全く会話に参加してないあの人の表情を見る。


そうして進む物語。

ちょっとした間に演出家の存在を感じる。

客席と舞台。
間に線は無く。
マイクを通さない役者の声が反響する。

あきらかに作り物の世界にある
とてもつもないリアルさ。



客席から拍手とともに物語は終わり、カーテンコール。
さっきまであそこの世界にいた人たち。ちょっと変な気分。
おおきな拍手によって何度も呼び戻される役者たち。
その、よいしょ、て言う感じの戻り方がたまらなくうれしそう。
そういうのみるとまた拍手に力が入る。



これがぼくが演劇について
観る側として、得ることができた熱気と緊張。

でもね。
実はもっと憧れてしまうのが。やる側の熱気と緊張。
絶対にすごいよ。
だって、毎回こんなことやってるんだよ。
そりゃあ、そこにいたるまでがほんとに大変なことなんだろうけど。
でも、これはずるいよ。すごいよ。
今回は。とかあの時やったときは。とか。
毎回すごいことを生に体験して。
自分で体験しつつそれで見るヒトもそっちにもってけるなんて。

こんなこと考えてたらつい、ため息をついてしまった。
それくらいぼくにとっては魅力的なのだ。

多分この魅力は、もうひとつぼくが持っている、ライブ直前に楽屋で待機してるバンドマンに対する憧れとかなり近いところがある。

重要なのは。常にある、飽きることの無い熱気と緊張感。
歳をとろうがなにしようが、けして止まること無い疾走感。
そうゆうのがいい。
ぼくはそういうのに憧れる。


老後に南の島で海見ながら犬と暮らすのもいいなあ
と思うときもあるけど。


ぼくは、やっぱりこういうものに憧れてしまうのだ。
だから、昨日の夜はひとり
どうにかして、いつか演劇のポスターを制作し、
なんとかしてこの世界に関わっていかなければ。
と密かに将来の野望を抱くのだった。