雨日記

雨とイギリスとアートにおけるコーヒーなはなし。

デザインによせて。 ~エピローグ~

2006-09-15 21:04:30 | Weblog
三部構成でかいてみた自分とデザインについて。

大きな影響を与えてくれた三人の素晴らしいデザイナーに感謝します。
ひとりでも欠けていたら、今回のこの発見はありえなかったと思います。

今まで書いてきたことを通して。

結論をいうと、この発見は次の発見によって覆される可能性は十分にあるということです。
ここで僕は、デザインにおける新たな魅力を発見しました。でも、これが必ずしも僕のデザインに対する結論ではなく。
最初に書いたように、途中経過で。
これから、僕はロンドンで三年間大学でデザインを学ぶでしょう。でも、学校以外でもデザイン以外のものに沢山触れてみたいと思っていて。そしたら卒業して。デザイン事務所に就職するかもしれないし。いきなり彫刻に目覚めたり、陶芸にはまって修行しているかもしれない。そういった、色々なことを通して、自分のデザインやアートに対する見方は変わってくるのが自然だし、その変化を止めようとは少しも考えていません。深沢さんもこういっています。大学のたった数年の間に、才能があるかないか見いだせるほどデザインは簡単なものではない。そう。どれもこれもそう生半可に片付けられることじゃないんです。だからこそ面白いともいえるでしょう。

今回ひとつ言えることは。
まだまだ浅い自分の考えにとらわれるのは危険だな。ということ。
まだまだ。かじったどころか、触ったくらいだよ、君は。
デザインさんにそういわれました。そんなんでわかったような気でいたら困るよー。

すいません。

まだまだ見えないとこあるな、と。魅力はかくれてるな。奥に行かないとわからないこともある。
それを探らずに投げ出すには、まだ早すぎる。

ああ。危ない。
あなたの投げ出そうとしてるそれにも、まだなにかあるかもよ。

僕はデザインをもう少しみてみます。三人に触れて、そういう想いでいっぱいの今。
三人の方にもう一度感謝。そして、この素晴らしいデザイナー達を教えてくれた人たちにも一礼。



ここでデザインによせては終わりです。
読んでくれてありがとうさようなら。



デザインはとてつもなく素晴らしいもの、、、かもしれないよ。







デザインによせて。 服部一成編

2006-09-15 20:45:00 | Weblog
ちょっと、観念的な話しになりましたが、、、

こう言って服部さんは色々なヒントを僕にくれたのでした。

時は9月の10日。日曜日。
葛西薫さんの講演会が行われた東洋美術学校で、こんどは服部一成さんによる講演会が開かれました。

少し眠たげで、しゃがれた声で。服部さんはボソボソッと話し始めました。

このころの僕は、段々とデザインを勉強したいという熱が冷めてきていました。どうしても、手段や道具から切り離すことのできないデザインというものを、ずっと好きでやっていけるかどうか自信があまりなくて。そっちより、もっと自由に思える自己表現の世界というものに、漠然とだけど魅力を感じていました。

だから、今回はなんとなく機会があるから、というような。とても失礼な話だけど、どこか気の抜けたかんじで見に行ってしまいました。

でも、予想とは裏腹に。服部さんのデザインにたいする熱と姿勢にやられたのでした。

デサインとは、手段だ。でも、ただ単に手段といわれたときに、そこからこぼれ落ちてしまう大事なものがあると思っています。それがあったから、ここまでやってこれたと思っています。

一番、信じたい。一番、言ってほしかった。
そんな言葉でした。
まるで、形になってない断片みたいな言葉たちだけど。デザインに取り憑かれてると、自分とデザインについて表現していた服部さんの、まぎれもなく素直な想いだな。と思って。

そして。写真家中平卓馬氏の宣伝美術を担当したときのはなしで、こういう逸話があって。
服部さんが中平さんに、仕事の初めに挨拶に行ったときに言われた言葉。

僕以上でも以下でもないものにしてほしいね。

そして、服部さんの先輩であるデザイナーの仲條正義氏との会話で交わされた言葉。

百円のものは百円のデザインをしたいよね。百円にたいして千円や一万円のデザインをするのは品がないよね。

この二つの言葉は、服部さんの中に強く残った言葉だったらしいのですが。
自分にとっても、ひとつコトってものにつまづいて、なにか見つけたような。そんな気分になったりして。



自分はいったいデザインのなかに何を求めていたんだろうな。と思いました。
デザインに自分の個性を見いだそうとしてみたり、芸術性とかいう自分でもはっきりわかってないものが含まれてるかどうかでなやんでみたり。しまいにはデザインはなんか商業的で、かたいモノなんだ。とか思うようになっていって。

どこでなにを置いてきてしまったんだ!

服部さんは若いころ、仲條さんのデサインしたマッチ箱のグラフィックデザインに出会い、それにどうしようもなく豊かな気持ちをいだいて。そのマッチ箱がある喫茶店に通ったころがあると、話していました。

僕にとってのそれは、高校二年のときにCD屋でみつけたRAMONESのファーストアルバムのジャケデザインで。白黒の写真のなかに四人の革ジャンパンクスがボロボロのジーンズとコンバースをはいて横一列にならんでて、その上に白地のロゴがはいっていて。このなんでもないけど、どうしようもなくかっこいい、と思える。このCDを買わずにはいられないような。はじめて視覚的に音楽を知って。

見つけた!ていうような。なにこのジャケ、かっけーんだけど!


そういうのをいつの間にか、グルグルと色々なかっこだけは良い言葉を並べて説明するようになってしまった。理屈とか言葉とか、そういったものには説明できないことがあったはずだった。たとえ、自己表現とはちがくても。たとえ、アートとは区別できてしまっても。デザインは、デザインのなかに、ちゃんと持っていたんだっけ。

そういう大事な、言葉で説明してるとこぼれてしまいそうな。
もっと、それを知りたい。そう思えてきて。
デザインをもっと探ってみたい。その価値は十分すぎるくらいあるはず。


曇りが晴れたな。と確信できました。

もうちょっとみてみよう。
先はわかんないけど。いまはもうちょっと。


なんかデザインを思い出したような。
いや、ちがうな。もう一度発見しなおしたんだなあ。

とにかく、すばらしい言葉と、いまの自分に響く
そういったものが溢れていた

服部一成さんと彼のデザインたちのはなしでした。