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非常にハードなペルーの移動日程を組んでくださったのは、ペルー在住数十年のツアーコーディネータ、ナオコさん。
高山病対策まで考え、標高3360mのクスコから1000m下がったインカ道の宿場町オリャンタイタンボに一泊し、翌朝、山岳鉄道に乗ってマチュピチュに向かうルートをアレンジしてくれた。
<マチュピチュを囲む山々>
マチュピチュを写真で見る限り、しっかりした足ごしらえと登山準備が必要だと思っていたのだが、列車を降りてすぐに専用バスが用意され、九十九折の道を30分ほどバスで登ると、到着した場所からメインの遺跡までは、ハイキング気分で散策できるように整えられていた。さすが、世界遺産を誇るペルー有数の観光地である。
<九十九折の専用バス道路>
尖った絶壁の山々がそびえるウルバンバ渓谷の山間に、マチュピチュは鎮座していた。標高2280m。「老いた峰」を意味するマチュピチュは、山裾からその存在を確認できないことから「空中都市」という異名をもっている。
確かに、バスで九十九折を上がっていく途中から山頂付近の石組みが見え始めるが、1911年に米国人歴史学者H.ビンガムが山肌をよじ登って発見するまで400年以上、誰の目にも触れることなかったというのも頷けるほど、山頂にひっそりと存在している。
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マチュピチュの総面積は5平方km、その約半分の斜面には段々畑が広がり、西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれ、周囲は石で組まれた城壁で固められている。数ヶ所にある神殿の石組みは、「剃刀一枚通さない」と強調されるインカ文化の特徴。これと同じ石組みがイースター島でも見られることから、ムー大陸存在説が消えないのだという。
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この空中都市が、16世紀半ばの建造と聞いて改めて驚いた。
何の根拠もなく、インカ帝国は、卑弥呼やローマ帝国と同時代であるかのように錯覚していた。マチュピチュは5,6世紀頃の古代遺跡だと思い込んでいたのだ。
それが16世紀半ば、しかもインカ帝国滅亡の理由は、コロンブスの大陸発見から始まるスペイン植民地政策の一過程であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/64/627f93b406a72c3545ce645ebd56fb0a.jpg)
この旅で見てきた風景が、歴史というひとつの線でつながっていく不思議な感覚にとらわれた。
イベリア半島におけるムーア人最後の王国グラナダを、スペイン人が陥落させたのは15世紀。そして、ポルトガル王に冷たく出資を断られたコロンブスが、スペイン王女のバックアップを得てアメリカ大陸へ到着したのが16世紀。それを機に、スペイン人の領土拡大政策が勢いを増す。
その侵略政策に南米のインカ帝国が巻き込まれ、少数のスペイン軍にあっけなく陥落したという歴史の事実をペルーに見たことになる。
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何からの記録や手がかりの残る16世紀半ばの世界でも、謎に包まれているものは少なくないということだ。
インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを残し、さらに奥地へと消えてしまう。攻め入るスペイン人から逃れ、復讐の作戦を練るためにインカの人々が作った秘密都市だったともいわれている。が、マチュピチュに関する多くの謎は、未だに解明されていない。
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↑絶壁に石組みの建物が立ち並ぶ
高山病対策まで考え、標高3360mのクスコから1000m下がったインカ道の宿場町オリャンタイタンボに一泊し、翌朝、山岳鉄道に乗ってマチュピチュに向かうルートをアレンジしてくれた。
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マチュピチュを写真で見る限り、しっかりした足ごしらえと登山準備が必要だと思っていたのだが、列車を降りてすぐに専用バスが用意され、九十九折の道を30分ほどバスで登ると、到着した場所からメインの遺跡までは、ハイキング気分で散策できるように整えられていた。さすが、世界遺産を誇るペルー有数の観光地である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/9a/c8bf4f36368ba2fde69137e2e8c0cef4.jpg)
尖った絶壁の山々がそびえるウルバンバ渓谷の山間に、マチュピチュは鎮座していた。標高2280m。「老いた峰」を意味するマチュピチュは、山裾からその存在を確認できないことから「空中都市」という異名をもっている。
確かに、バスで九十九折を上がっていく途中から山頂付近の石組みが見え始めるが、1911年に米国人歴史学者H.ビンガムが山肌をよじ登って発見するまで400年以上、誰の目にも触れることなかったというのも頷けるほど、山頂にひっそりと存在している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/94/26c4f0070fd21a6c6fccde1e491021c0.jpg)
マチュピチュの総面積は5平方km、その約半分の斜面には段々畑が広がり、西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれ、周囲は石で組まれた城壁で固められている。数ヶ所にある神殿の石組みは、「剃刀一枚通さない」と強調されるインカ文化の特徴。これと同じ石組みがイースター島でも見られることから、ムー大陸存在説が消えないのだという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/54/72ee5efb32a0d9b178aad4a0abb3c523.jpg)
この空中都市が、16世紀半ばの建造と聞いて改めて驚いた。
何の根拠もなく、インカ帝国は、卑弥呼やローマ帝国と同時代であるかのように錯覚していた。マチュピチュは5,6世紀頃の古代遺跡だと思い込んでいたのだ。
それが16世紀半ば、しかもインカ帝国滅亡の理由は、コロンブスの大陸発見から始まるスペイン植民地政策の一過程であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/64/627f93b406a72c3545ce645ebd56fb0a.jpg)
この旅で見てきた風景が、歴史というひとつの線でつながっていく不思議な感覚にとらわれた。
イベリア半島におけるムーア人最後の王国グラナダを、スペイン人が陥落させたのは15世紀。そして、ポルトガル王に冷たく出資を断られたコロンブスが、スペイン王女のバックアップを得てアメリカ大陸へ到着したのが16世紀。それを機に、スペイン人の領土拡大政策が勢いを増す。
その侵略政策に南米のインカ帝国が巻き込まれ、少数のスペイン軍にあっけなく陥落したという歴史の事実をペルーに見たことになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/dc/4d27ea92a198db48f77a42424cad57e5.jpg)
何からの記録や手がかりの残る16世紀半ばの世界でも、謎に包まれているものは少なくないということだ。
インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを残し、さらに奥地へと消えてしまう。攻め入るスペイン人から逃れ、復讐の作戦を練るためにインカの人々が作った秘密都市だったともいわれている。が、マチュピチュに関する多くの謎は、未だに解明されていない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/fc/a5e84929bcdb440c6dc9ae202ebeaaa9.jpg)
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↑絶壁に石組みの建物が立ち並ぶ
しかし・・・高所恐怖症の私は、バスの道を見ただけで行けそうもありません。その時代にここに生まれてなくてよかった!