見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

「移民」という国策

2008-01-08 00:37:48 | 南米
リマ市内にある「日本人ペルー移住史料館」へ行った。
ブラジルのサンパウロで日系女性の話を聞き、B型パパイヤさんから『外務省が消した日本人』を紹介してもらい、「移民」について知らなければならないことが南米にたくさんあるように思っている。



史料館を併設する日秘文化会館はリマの市街地に建っている。鉄格子の門と警備員で厳重に警戒された入り口を入ると、数階立ての文化会館の内部は様々な日系人(だと思う)が行き交い、賑やかだ。建物の一階には、銀行・和食レストラン・旅行代理店などが軒を並べ、ひとつのコンプレックスビルのようだ。
入り口横にある小規模のギャラリーでは、油絵教室の受講生の方々の絵画展が開かれていた。覗いてみると「いらっしゃいませ」と白髪の女性たちが、やや癖のあるトーンの日本語で迎えてくれた。制作者の名前と年齢がローマ字で書かれている。「日系1世の方もいますよ」と示した油絵の下に、91、94といった年齢の数字が読み取れた。何か話を聞いてみたいと思いつつ、楚々とした様子の女性たちに対して何か失礼な質問をしてしまいそうな気がして言葉を発することができず、絵画鑑賞もそこそこに2階に併設する「日本人ペルー移住史料館」へ移動した。

そこでは、カラフルでわかりやすいパネルや当時の記録物を丁寧に示しながら、日本とペルーの過去の関係から移住100周年を迎えた1999年までの歴史が端的に説明されていた。
そして、初めて知ったことがいくつもあった。明治維新後の初の移民地は、153名が渡ったハワイだったことや、ペルーへの移民は、サトウキビ農園の労働者として移民斡旋業者との契約で海を渡ったことなどなど。斡旋業者と農園主との契約書も展示されており、「契約4年。労賃約25円/月。労働者一人当り約120円の斡旋手数料。移民年齢は20~45歳まで」などという契約内容が生々しく迫る。

そもそも「移民」とは何だろう。
この旅で訪れた国のどこでも、自分の国を離れて店を開いたり仕事を得て、定住する人々と出会った。ラオスには、夫婦でレストランを開店した若者もいた。「移民」という言葉の定義では、彼らも「移民」なのだろう。
が、ペルー移民、日系1世として使われているその言葉を、今、日本を離れて外国で暮らそうとする若者たちに同じように遣うことにほんの少し躊躇いを覚えるのはどうしてだろう。

ウィキペディア(Wikipedia)で「移民」を検索したところ、「植民」、「棄民」という刺激的な言葉が飛び込んできた。
国策としての移住と個人意思の移住の違いを、歴史的事実を元にもっと学ばなければならないのかもしれない。


↑日秘文化会館の入り口に建つ石碑。刻まれた言葉が胸に強く迫ってきた。





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