こぺる【自動/ラ五】

①ゆるゆるする。②なんとなくなんにもしない。
そしてオッサンへ…

●最後のM-1

2010-12-27 | よもやま
(ネタバレあります。2010年のM-1グランプリをまだ見ていない人で、これから観ようと思う人は読まないで下さい)

3年ぶりにM-1を生で見た。『生』と言ってもテレビで、だけれど。

見る前の私の状態としては、
・出場者8組+敗者復活1組(これはもちろん『見る前』ではなく、番組途中で分かるコンビだけれど)の内、確実に認識しているのはナイツさんと笑い飯さんだけ。
・ハライチさんはネタを見て、「あ、見たことある」レベル
・去年優勝したパンクブーブーさんは、「去年のM-1のネタは観たはずだけど、覚えていない」レベル
・過去のM-1で好きなコンビは『サンドウィッチマン』さん。「ダイエット中失礼します」は秀逸なセリフだと思っている。

観ようと思った動機は、『最後』であることと、カノジョが絶対観て「おもしろかったん!話」をするので、会話についていくため。

で、感想としては・・・

楽しめました!

特に、第一ラウンドの9組が決勝の3組に残るための課程が良かった!
「もう、この3組で決まりでしょ!後は消化試合」と思っていたら、次から次へと・・・。
もちろん、全てのコンビが素晴らしかったワケではなく、残念ながら笑えなかったコンビもいたし、審査員の得点にすべて納得したわけではないけれど、それは仕方の無いことで、誰が何を面白いと思うかは、その人の人生経験やその時の環境や状況に応じて当然異なる。
例えば、特定の政治家を「彼はバカだ」と言えば多くの人の笑いを取れるだろうが、「そんな彼を選んだ有権者は愚かだ」と言えば、少なくとも彼に票を投じた人は笑えないだろう。でも彼に投票していない人は笑えるかもしれない。。。笑いの一つの要素は『差別』であり、多寡あれど『不謹慎』なものなのだ。

とまれ、第一ラウンドを観た限り、巷で言われている「影響力の低下」「システム・人材の限界」なんかは感じなかった。
多くの人が『来年も・・・』という気持ちを持ったのではないだろうか。

スリムクラブさんは確かに面白かった!けど、私の好きな・・・というか「これぞ漫才!」というタイプでは無い。
が、やはりあの『間』。観ているこちらが「4分しかないのに、大丈夫なん?」と心配してしまうほどたっぷりと開けた『間』は、素晴らしい。
審査委員の松本さんが「勇気がある」と評したのは素人ながらも頷いてしまった。
スリムクラブさん以前と以後で評価の基準が変ってしまったのでは?と思う程のインパクト。

銀シャリさんは、私の中では初見のマイナスイメージをネタの良さで徐々にひっくり返された感があり、『上手い!』という印象。
次のナイツさんは、『いい人そう』という私の好印象を裏切らないどころか、所謂「ヤホー」ネタ以上のものに進化していた。
『いい人そう』な彼らが吐くちょっとした毒は、引く人もいるかもしれないが、私は大好きだ。

パンクブーブーさんのネタはすごく良くできていて、誰もが「全て実際にはやってないという面白さ」を知った上で尚笑えるんだけど、そのエクスキューズのバリエーションの多さが完成度の高さに繋がっているような気がする。
ただ、予見できるだけに決勝でもそのタイプを続けてしまったのが残念。
決勝での順番でオオトリを選び、さらに前の二組のネタも第一ラウンドでの輝きを上回るものでは無かった為、余計に『飽き』を感じてしまったのかもしれない。
決勝はどの組も、第一ラウンドを観た人が抱いてしまう「もっと面白いものを!」という期待感を満たせなかったように思う。
唯一私が声を出して笑ってしまったのはスリムクラブさんの「民主党」ネタだ。(ただ、あれは彼らのスタイルからすると、若干ズルイとは思う)

さっき、笑いの要素の一つとして『差別』を挙げたけれど、もう一つ要素を挙げるとすると、それは『愛』なのだ。
同じネタでも、誰が言ったかによって笑いの有無や質は異なる。
だから、友達同士の会話には笑いが絶えない。互いに気心の通じ合った相手の言うことは面白く感じてしまうしのだ。
芸人で言うと、誰かのファンの人はその人が何を言っても笑ってしまい、アンチはそれを観て気持ち悪いと感じる。
M-1がスゴイのは、「結成10年以下」という縛りによって、『愛』という要素を廃している所。
観ている人が「コイツは誰だ!?」というキツイ状況の中、会話だけで笑いを生み出していくという難しさ。そのハンディを吹き飛ばすほどのエネルギーがM-1のスゴさなんだと思う。

そう考えると、この最後のM-1はやはり『最後』であるべきM-1だったのかもしれない。
そして、決勝でどの組も爆発を感じられなかった以上、「笑い飯を優勝させてあげたい」という『愛』が結果に反映されるのも私は理解できる。
私がそういう年齢になった、ということでもあるが。

●どちらが辞任すべきか

2010-12-14 | よもやま
法務大臣としてのビヘイビアを『ジョーク』にした彼が辞任したことは、
彼がどうこうという話とは別にして、私はおかしいと思っている。

あれは聞き手の常識の問題で、普通ならば『ジョーク』として捉えてあげるべきコメントだ。
『悪意』の人間がそれをいいように編集して報道することを考慮しなかった点は多少問題かもしれないけれど。

言葉には『間』があって、その間が笑いに繋がったり、緊張につながったりする。
それはその人と面と向かい合うか、それに近い状況下で初めて伝わるものであって、文字に起こしたり、映像をかいつまんだりしていてはなかなか伝わらない。
ある曲から全ての『間』をとったら、それは作者の意図した音楽と言えるだろうか。例えばgeneral pause。私はこの音のない音が好きだ。前の音の余韻と、次の音への予感のハザマにある緊張感。たまらん!それがあるのと無いのとは雲泥の差がある。

まぁ余談はさておき、その『間』を取り除くことには、すべきときとすべきではないときがある。
その判断は非常に大切であり、その判断の背景となるものはその人の良識である。
そのことを知って、恣意的に文字に起こしたり、編集して『間』を詰めたり取り除いたりするのは、悪意以外の何なんだろう。

昨日のエントリにも書いたけど、こういうのを言葉狩りと言うのだと思う。


さて、本題。

「甘受」という言葉。
実際に映像を見ると、かなり言葉選びに時間がかかっているものの、その末に選んだ単語としては・・・。
最低のセンスだ。

あきらめろ

と言っているのに等しい。
岡田サンは、小沢さんの首を狙うよりもこの『陰の総理』とやらにターゲットを変えた方が、今となっては国民受けするんじゃない?
・・・こういうベタな政治的な台詞を吐くのが嫌いな私をして、敢えてこう書かせてしまうほどに、どうしようもない。


でも、この発言をもって私たちが怒る、というのもどこか違う気がする。
沖縄で暮らす人とそうではない人、という区別で考えたときに、私たち(沖縄で暮らしていない人)に憤る資格はあるのだろうか。資格があるとして、その憤りは沖縄で暮らす人と同じものなのだろうか。どこかに『甘受してほしい』という気持ちがあるんじゃないだろうか。その罪悪感を誤魔化すための憤りではないのだろうか。

「あれは失言ではなく、ホンネだよ」

という言葉は、おそらくその人自身が少しはそう思っているから、そのように感じるのだ。
もちろん、積極的に沖縄を指定している訳ではなく、「ウチの県には来て欲しくない」という意味だろうけど。

私を含めて・・・ね。。。

●嫌いな表現

2010-12-14 | よもやま
皇族の方には、『手術』でさえも『ご手術』となるのですな。
寛仁親王殿下、がんのご手術へ - MSN産経ニュース

アナウンサーはより一層読みにくいだろうなぁ。
正直なところ「やりすぎ」だと思う。もちろん、表現として、ね。
敬意やお見舞いの意を表す事は大切なことだけど、それは何でもかんでも単に『御』を付ければ良いというものではない。
やりすぎると、逆に馬鹿にしているようにさえ感じられる。

そういえば、言葉についての「やりすぎ」感は、アスリートのインタビューで特に感じる。
私が特に嫌いなのが、
「~~をやらせてもらっている」
という表現。あなたがそれをする事は自由なのだ。止めることも自由だ。
誰の許しを得ることもないのだ。
すごく遠回りに、例えば国の支援を受けていたりとか、「ファンあっての・・・」みたいな、そういう所で気を遣っての表現なんだろうけど、やっぱり「やり過ぎ」と感じてしまう。
素晴らしい成績を収めた結果としてインタビューを受けている人には、私はそういう他者を気遣ったコメントではなく、もっと『我』を見せて欲しいと思う。

上の新聞でも、アスリートの例でも、じゃあなんでそうなるのか、というと、私は『為にする行為』なんだと思う。
「そう言っとけば少なくとも批判はされない」という。。。

こんな偉そうに言ってる私だって、仕事で『やらせてもらっています』と言ったことあるもんね。
楽なんだよね、結局。

小さいことをチクチクと言ってくる、所謂『うっとおしい人』がいるから、そうなるのか、それともそういう人に対抗するエネルギーを持ち得ていないからなのか、そこのところは分からないけど、こういう傾向が強まると、自分の言葉を発するリスク、言葉狩りにあうリスクを避けることを第一に考える訳だから、言葉からどんどん真実味は薄れていくように思う。

言葉を「自分の気持ちや考えを伝える為のツール」として考えたとき、虚構で上塗りされたそれらは本当に言葉と言えるのかギモン。



●最近思ったこと

2010-12-05 | よもやま
最近涙もろくなった。おっさん化著しい。

で、思ったこと。
若い頃って、物事に対して『真理』を求めようとしていて、年食ってくると、物事に『自分』を重ねようとする。
真理を求めるエネルギーが減ってくるのと、『自分』が肥大していくからなんだろうな、と33歳の私は考えている。
『自分』を重ねる、というのがどういうことか、というと、おっさん初心者の私としてはなかなか正確に表現することが難しいのだけれど、平べったく言うと、良いモノの中に自分と共通するモノを勝手に見いだそうとしてしまう傾向がある、ということだ。
「カタカナ二文字で表しやがれ!」と言われれば、『エゴ』ですな。


そして、『33歳の私』と刹那性を強調した理由は、この考えがいずれ変るだろうな、とも感じているからである。
このことは結構意味が大きくて、上の理論で言えば、明確におっさん側寄りである事の証拠となっている。
だって、私がもし『真理』を求める傾向が強ければ、考えが変ることを否定するはずなのだ。
加齢によって考えが変る、なんて、到底真理っぽくないもん。


そして、上の文章で、『おっさん寄り』と明確に二分することを否定していることが、私がおっさん寄りであることの明確な・・・もうええか。

The おっさん である。意味は良くわかんないけれど。


今の私の悩みは、この変化に身をゆだねて良いものかどうか、だ。
これに身をゆだね過ぎると、想像力は劣っていく。これは肌に感じるレベルのリアルな予感としてある。

こういうことを書く事への否定的な見方も生まれてくる。「それ書いてどうなるの?」みたいな。
でも、それに抗いたい気持ちもあって、その気持ちをリアルに語れるのは今だけなんだよねぇ。

●順番

2010-12-02 | よもやま
「彼は仕事はきちんとするが、大酒飲みで女たらしだ」
こう言うと悪口だけれど、
「彼は大酒飲みで女性にもだらしない傾向があるが、仕事はきちんとこなす男だ」
というと、それほど酷い人物ではないように感じられる。


この例と同じような話があったので書いてみよう。

以前(●誰が… - こぺる【自動/ラ五】)にも書いた彼女の事である。

結局元の世界からは引退したとの事である。
出馬当初言われていた非難である「わらじ履きすぎ」的指摘を振り返ってみると、今この時点でその批判の原因は完全では無いながらも取り除かれた。

でもそれを決して褒められはしない。どこかでチラっと見たけれど、『嫌いな女性』ランキングの上位にもご登場なさっているらしい。

こうなると、わたしは『かわいそうに』と思ってしまい、彼女を擁護したくなる。
哀れむべき天の邪鬼である。

確かに非難されるべき点はあるが、それは『判断が甘かった』という点だ。
でも、それを出馬当初の彼女は『できる』と思っていたのだ。もしかしたら今だって出来ると思っているかもしれない。反発が大きかったからの選択肢かもしれない。
本当の理由は分からないけれど、とにかく彼女は『反省』し改めた。
『判断が甘い』状態であっても当選し、当選後さらに彼女は、必要に応じてより良いと思われる選択をした。

なのに、今彼女は『嫌いな女性』として認識されている。

もし、出馬と引退の時期が逆だったら・・・。
少なくともここまで嫌われはしなかったのではないだろうか。

冒頭で挙げた男は、どう言おうと一人の男を表している。ただ、長所と短所の言う順番が異なるだけだ。
彼女の場合も、引退の順番が異なっただけだ(いやホントは違うけどさ)。

さらに言えば、例に挙げた男はどう言われようが一人の男であるのに対し、彼女には成長、反省、改善といったプラスの要素がある。
これはちょっとかわいそうじゃなかろうか。


これって結局人間が感情の生き物であるって事なのかな、と思う。
『嫌いな女性』という感情のみで決まってしまうランキングに登場したという所が象徴的だなぁ。
もちろん、彼女が当選したのだって、『理論』ではなく『感情』や『印象』によって票が集まったのだから、しょうがないという見方もできる。

でもなぁ。

何だろう。それで損するのは自分たちなのに、身勝手だなぁと思うし、そんな身勝手で不快にまとわりつく泥のようなものに手足をとられ尚、それに迎合せざる得ない彼女はかわいそうだな、と。

ま、この「かわいそう」だって感情でしかないし、私はだからと言って彼女を支持するものではないのだけれど。