最近、『常識』論とハフマン木の話が好きなこぺです。
ハフマンさんはエライ人です。常識論は考えれば考えるほど、自分が如何に非常識かを教えてくれます。いいことです。
さて、今日は「一個だけなら、以前にも同じようなこと書いたからスルーしようと思っていたのに、同様なニュースを二つ目にしたから書きます」というネタ。
MP3プレーヤーで聴力障害の恐れも=EU報告EUの行政機関である欧州委員会の要請で行われた同研究は、子どもやティーンエージャーは大音量から守られるべきだとして、「娯楽音」というコンセプトや大音量の携帯電話に反対する立場を取っている。
とか、
こんにゃくゼリー:死亡幼児は兵庫県の男児 安全性問う声幼児がこんにゃくゼリーを食べて窒息死した事故で、国民生活センターは30日午前、死亡したのは兵庫県の男児(1歳10カ月)と発表した。こんにゃくゼリーによる死亡は17人目で、昨年10月に業界団体が表示改善して以降、初の死亡事故。再び死者が出たことでこんにゃくゼリーの安全性を問う声が高まるのは必至。行政や業界の対応の不十分さを指摘する声も上がっている。
とかって…。
前(
●想像力)にも書いたけど、こんなのは、個人の意識の問題である。子どもを含む、判断の出来ない人には『利用させない』という選択肢を提供すれば良いだけの事である。
何でもかんでもマニュアル化して、考えなくて済むようになれば、それが良い世界だと言えるのだろうか。もちろん、誤りによって子どもに何かしらの被害が及ぶことは、決して良い事ではないが、それを防ぐ最も良い方法が、そのアイテムを無くすこと、ってのは余りに情けない話だと思う。私にはその対処法自体が子どもっぽいゾと感じてしまう。
こう言う話をすると、全くもって老化の始まりのようでイヤなのだが、私が小さい頃の記憶を思い返すと、公園で遊ぶときには、常に自分で選択肢を作らなければならなかった。私の近所の公園には当時、建築廃材(というか、木の切れっ端)なんかが結構捨てられていて、『20世紀少年』よろしく秘密基地を作ったり、ゲートボール場でゲートボール以外の遊びを考えてやっていた。
木の切れっ端は全くランダムな大きさで、それをどう使うかという所から考えなければならない。しかも、総合的な目的としては基地を作ることにあるので、『建物』としての体をなしていなければならない。つまり、『使いたい』『作りたい』という『気持ちを触発させられる素材』と、『これを作るために必要な素材』とがあり、その辺のバランスも求められた。
当然、廃材であるから、中には釘が飛び出ていたり、割られて鋭利な断面を見せている木もあった。最初は気にしなかったが、足に釘が刺さったりする事で流石に学習し、危険を回避するために、鋭利な面を地面に刺して壁に利用したり、石で釘を打ち、『く』の字に折り曲げたりするようになった。また、その公園では(私たちは正義の味方であるにも関わらず)秘密基地の建設は認められておらず、ハデにトンカン音を立てたりしては「うるさい」「勝手に廃材を使うな」などの理由で近所のオッサンに怒られるので、出来るだけ静かに行うというのも私たちの『常識』であった。
…こんな話をするのがイヤな理由はもう一つあって、必ず「今は自由に外で子どもを遊ばせられる時代ではないじゃない!」と言い返してくる人がいること。「いや、だから例としていってるだけで」とイチイチ説明するのも面倒だ。上のような話を聞いて、そこに本質があると考えるような人に説明をしても徒労に終わるだけである。だからそう言われたら、残念な顔をして「ソウデスネ」という他ない。
話を元に戻すと、こうやって失敗しながら自ら選択肢を生み出し、その選択肢を洗練させていくことが、内田樹さんのおっしゃる『常識の涵養』なのではなかろうか。だとすれば、こんにゃくゼリーの販売禁止、製造禁止なんてのは、常識を育てるきっかけを一つ失うことと同義だ。
私は、禁止を求めている人ってのは、結局の所子どもを馬鹿にしてる人なんだと思う。同じ道を歩いていて、ほんのちょっとだけ後ろを歩いている本来なら同志である人間を、『子ども』というセグメントに閉じ込めて、自らと分離して考えているようだ。
多分、そのツケは自分に返ってくるのだ。高齢者というセグメントでひとまとまりに扱われ、そして多分そうなったらそうなったで「ヒドイ」と言う。もちろん自らの非は認めず、他者のせいにした上で。
奇しくも今回の件に関連して、担当大臣が『常識』というキーワードを使っている記事を見かけた。
(「こんにゃく入りゼリーはだめで、モチは規制しなくてもいいのか」という問題に対して---
「モチはのどに詰まるものだという常識を多くの人が共有している」
@niftyニュースより
そう。その通り。言ってることは正しいよ。でもね…
だったら、やろうとしてる事が違わなくなくない?
あぁ…偉そうに書いているが、きっと私もそうなるのである。いや、もうなっているのかもしれない。これは恐ろしい事である。