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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

私語について

2007-09-28 11:12:08 | 
実は、磐田の出張授業でとても後悔していることが一つある。

私語を無視してしまったこと。


教員も参観している授業で、居眠りはともかく、私語があるというのは想定外だったので、そのままにしてしまった。
むしろ、予定を変えてでもいつも通りの対応をした方が、授業体験としてはおもしろかったかもしれない。
せっかくのチャンスを逃がしてしまった気がしてずっと気になっている。


私の講義科目をいくつかとった経験のある人は、私が私語に対してどういう考えをもっているかを聞く機会が、一度くらいはあるのではないかと思う。
まぁ、今のところ静かな授業が多いので、体験しないままの人もいるだろうし、文章にしたことはない気がするので、この機会に書いておこうかと。


大抵、私語は第1回目の授業の油断の中で出てくる。
隣の人と、ちょっとだけ話をする。

この場合、私は「なに? どうした?」と聞く。
素直に話の内容を答えてくれれば、それを元に話を転がしていくまでなのだけれど、大概は「何でもありません」と答えてしまう。

ここが「キモ」。
授業中の「私語」の殆どは、授業そのものから触発されて頭に浮かんだ言葉であって、全く無関係ではないと思う。おなかが鳴ったとか、おならが出たとか言うのもあるかもしれないけれど、晩ご飯のことやこの場にいない誰かを思いつくのだって、授業の何かがきっかけを作っているのではないかと思う。

だから、「なに?」と訊かれたら、隠さないで話の中身を教えてほしいのだ。


そうしたら、「私語」は「公語」になる。

授業中に隣の人に話しかけたくなる最大の話題は、教師の言葉や身振りや板書に関することだろう。そこには、教師の気づかないミスや説明不足が潜んでいる可能性が高い。板書の文字が読めない、とか。
それは、隣の人とだけ、分かち合えばいい問題ではないし、前に書いたように、授業が終わってから個人的に質問して終わりにすればいいものでもない。
気づいていない人、気づいていても誰にもいえない人にとって、それはとても有益なヒントだ。

そう。
だから、ちゃんと、大きな声で発言すればいいのだ。

「あの字、なんて読むの?」という言葉を、ささやくのではなく、教室中に聞こえる声で言えば、共有できる。

何度でも言うけれど、授業は放送とは違う。
ライブだ。
その場にいる人たちが、頭に浮かんだあれこれを共有することで、一人で学んでいては得られない、多様な考えを知ることができる。
それこそが、教室の授業の愉しみでもある。


私語を指摘された学生は、大抵すぐに謝って黙り込んでしまう。
私は、悪いことをしたと言って糾弾するつもりはないのに、そういう態度をとられると、授業はストップする。

学生たちはたぶん思い違いをしているのだ。
もちろん、私語が、私語のままであるなら、授業の妨害にしかならないからやめてほしい。
しかし、授業中に浮かんだ思いは言葉にした方がいい。
「つまらないこと」と、決めつけてしまうのが、いかにもったいないか。
実は、そのときそのとき想起されることの中にこそ、可能性への種が隠されているのだと思う。

だから、私は、頭ごなしに「うるさい」「だまれ」とは言わない。
ただ、この話をしても、なお囁きあったり紙を回したりしている場合には、教室から出て行っていただくことにしている。


静岡大学も、来週から後期が始まる。
さて、この話をするチャンスがあるかな。

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