心霊現象や怪談等ではかなり知られた(でも、日本文学研究者の)Y国大のI先生が、mixiで、
久々に学生さんたちと長時間にわたって雑談。
どうでもいい話で談笑することが久しくなかったなあ、と思い至る。
無駄な雑務が増えすぎたせいとはいえ、ちと反省。
と書いていらっしゃる。
彼は本当にご多忙なので、僅かでもそういう時間をもっていること自体、改めてすごいなぁ、と思う。
私はどうだろう。
半端に親しい人の殆どが、私のことを超多忙だと思いこんでいる。
これは、半分本当だけれど、実情とは違う。
やらなければならないことは確かにたくさんあって、自分の手に余っている。
しかし、常に仕事をしているか、と言うとそうでもなく、ぼんやりしている時間は、多分他の教員よりもかなり多い。
そういう時間も必要だ、と言ってしまえば正当化も出来るのだけれど、I先生や彦星先生を見ていると、自己嫌悪に嘖まれるのも確かなのだ。
と、そのことはさておき、私も、I先生と同じような思いがある。
学生たちと雑談しなくなって久しい。
就職して最初の3年くらい(あぁ、つまり、30歳になる頃まで)は、本当に、同僚よりも学生の方がずっと世代も、従って興味のある話題も近かったから、友達のようなつきあいが出来た。
ゼミとは関係なく、研究室(そのころは本当に、広々していた)でお茶を飲み、日付が変わる頃まで四方山話をして過ごしたことが、何度もあった。
拙宅にも頻繁に学生が出入りしていたし。
そこで語られる中身は、決して学問的な何かではないし、授業のことでも、教育指導でもない。
しかし、そこから生まれた信頼関係は、今の学生たちとの関係より遙かに濃かったと思う。
今の学生たち、特に、ここ何年か、地域との関わりの中で学外でも触れ合う機会が多くなっている連中とは、それなりに私的な結びつきもあるのだけれど、どこかに、見えない壁がはっきりと存在している。
学生たちは、私を「敬遠」しているように見える。
気軽に誘っては申し訳ない、と言うような。
教師と学生なのだからそれは当然なのかもしれないけれど、こっちとしてはその前に人間同士で向き合いたいと思っているのだけれど。
こんな事を書いている途中に1年生からメール。
情報意匠論関係で新入生向けの履修案内攻略本を作っているチームに、必要経費として物品を購入して上げよう、と言う話が教員内にあったので、何が欲しいか、と言う事への返事。
学生たちは「教授たちとおいしいごはん食べに行きたい」と。
いや、泣けるねぇ。
ホントに、涙でそう。
もちろん、そうなると公式な予算を使うわけに行かないので教員がポケットマネー、と言うことになるのだけれど、その価値は十分あるでしょ。
嫌になるほど沢山の会議がある。
しかし、会議の合間、テーマから離れた雑談の時間にこそ、沢山の「芽」があると思う。
花見会や忘年会も、タダの楽しみだけじゃなく、そういう効果があると思っている。
教育というのは、「授業」だけじゃない。
人として真正面から向き合うことで、お互いに学びあうことがある。
当たり前なんだけれど、それが出来ていないのが悔しい。
私などより遙かに多忙な彦星先生が、そういうことのために、ちゃんと時間も場所も用意しているのには、本当に頭が下がる。
さっきの一年生のメールがものすごく嬉しいのは、学生たちの方から「一緒に食事」、と言ってくれたことだ。
今の学生たちは、教員がお膳立てしないと動かない。
彦星先生の「合祝」も、私の花見会も、学生たちからの企画ではない。
この連中も、最初はかなり受動的な動きしかしていなかったのが、ずらりと教員たちが並ぶ学科会でちゃんとプレゼンをし、満場の拍手を浴び、一足先に私とは食事をしながらの雑談もあり、で、そういう「学び」の愉しさを理解してくれたんだと思う(そう解釈していいよね)。
「卒論ミュージアム☆」に続いて、動いたね。
小さい穴だけれど、壁の向こうに、少しだけ光が見えた気がする。
ありがとう。
久々に学生さんたちと長時間にわたって雑談。
どうでもいい話で談笑することが久しくなかったなあ、と思い至る。
無駄な雑務が増えすぎたせいとはいえ、ちと反省。
と書いていらっしゃる。
彼は本当にご多忙なので、僅かでもそういう時間をもっていること自体、改めてすごいなぁ、と思う。
私はどうだろう。
半端に親しい人の殆どが、私のことを超多忙だと思いこんでいる。
これは、半分本当だけれど、実情とは違う。
やらなければならないことは確かにたくさんあって、自分の手に余っている。
しかし、常に仕事をしているか、と言うとそうでもなく、ぼんやりしている時間は、多分他の教員よりもかなり多い。
そういう時間も必要だ、と言ってしまえば正当化も出来るのだけれど、I先生や彦星先生を見ていると、自己嫌悪に嘖まれるのも確かなのだ。
と、そのことはさておき、私も、I先生と同じような思いがある。
学生たちと雑談しなくなって久しい。
就職して最初の3年くらい(あぁ、つまり、30歳になる頃まで)は、本当に、同僚よりも学生の方がずっと世代も、従って興味のある話題も近かったから、友達のようなつきあいが出来た。
ゼミとは関係なく、研究室(そのころは本当に、広々していた)でお茶を飲み、日付が変わる頃まで四方山話をして過ごしたことが、何度もあった。
拙宅にも頻繁に学生が出入りしていたし。
そこで語られる中身は、決して学問的な何かではないし、授業のことでも、教育指導でもない。
しかし、そこから生まれた信頼関係は、今の学生たちとの関係より遙かに濃かったと思う。
今の学生たち、特に、ここ何年か、地域との関わりの中で学外でも触れ合う機会が多くなっている連中とは、それなりに私的な結びつきもあるのだけれど、どこかに、見えない壁がはっきりと存在している。
学生たちは、私を「敬遠」しているように見える。
気軽に誘っては申し訳ない、と言うような。
教師と学生なのだからそれは当然なのかもしれないけれど、こっちとしてはその前に人間同士で向き合いたいと思っているのだけれど。
こんな事を書いている途中に1年生からメール。
情報意匠論関係で新入生向けの履修案内攻略本を作っているチームに、必要経費として物品を購入して上げよう、と言う話が教員内にあったので、何が欲しいか、と言う事への返事。
学生たちは「教授たちとおいしいごはん食べに行きたい」と。
いや、泣けるねぇ。
ホントに、涙でそう。
もちろん、そうなると公式な予算を使うわけに行かないので教員がポケットマネー、と言うことになるのだけれど、その価値は十分あるでしょ。
嫌になるほど沢山の会議がある。
しかし、会議の合間、テーマから離れた雑談の時間にこそ、沢山の「芽」があると思う。
花見会や忘年会も、タダの楽しみだけじゃなく、そういう効果があると思っている。
教育というのは、「授業」だけじゃない。
人として真正面から向き合うことで、お互いに学びあうことがある。
当たり前なんだけれど、それが出来ていないのが悔しい。
私などより遙かに多忙な彦星先生が、そういうことのために、ちゃんと時間も場所も用意しているのには、本当に頭が下がる。
さっきの一年生のメールがものすごく嬉しいのは、学生たちの方から「一緒に食事」、と言ってくれたことだ。
今の学生たちは、教員がお膳立てしないと動かない。
彦星先生の「合祝」も、私の花見会も、学生たちからの企画ではない。
この連中も、最初はかなり受動的な動きしかしていなかったのが、ずらりと教員たちが並ぶ学科会でちゃんとプレゼンをし、満場の拍手を浴び、一足先に私とは食事をしながらの雑談もあり、で、そういう「学び」の愉しさを理解してくれたんだと思う(そう解釈していいよね)。
「卒論ミュージアム☆」に続いて、動いたね。
小さい穴だけれど、壁の向こうに、少しだけ光が見えた気がする。
ありがとう。
最近の学生は受動的で自ら動こうとしないですよね。
話は変わりますが・・・・・
食事、楽しみにしています(INアソシア★)!!!笑
完成までがんばりますね(*^_^*)
また、一緒に楽しく過ごした「さわやか」行きましょうね。
「グローバルバイキング」とかのことだと思ってた。
いやはや。
あそこは確かに美味いけど高いぞ。
がんばってもらわにゃ。
でもやっぱり高そうだなぁ……。