コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

様々な壁

2008-02-02 19:23:55 | 
彦星先生に無理を言ってお願いした「情報意匠論」講義も、4年目が終わった。
この間の成果は、本当に目を瞠る物がある。

今回の発表会には、学長、あっぱれ会代表でもある満井理事をはじめ、学内の、問題意識を持った多くの方々が参加してくださった。
しかし、人文の教職員は、学部長と私しかいなかった。

彦星先生や学生たちの告知もあったし、私は学科会とメールで学科の教員には告知している。
もちろん、授業もあるし、この時期は何かと忙しいのだから、仕方ない部分もある。

前日に学科以外の学内の主だった人に送ったメールに書いた私の現状認識。

ご存じのように、この講義は、あっぱれ会の活動の一環として、市民からの助成を戴いて開講している地域連携科目として、04年度に始まりました。
初年度の学生提案は、「天晴れ門前塾」という、大学を超えた学生連携・地域連携の新しい形として、注目されています。
また、05年度に作成したスーパーもちづきの新聞広告は静岡新聞広告賞のグランプリ並びに読者が選ぶ広告賞のダブル受賞、昨年度の作品も受賞しています。

こうした華々しい成果があるとはいえ、言語文化学科を含め、学内の教職員の認知度は十分とは言えない状況です。
言語文化学科の教員に向けては、学科会でも告知し、メールでも連絡をしましたが、冷ややかな反応しかないのが実情です。


実情です。

私が言語文化学科の中で人望がない、というか、嫌われ者だ、というどうしようもない現実を乗り越えられないでいる所に、大きな問題があるのは自覚しているのだけれど。
確かに、私はいい加減な人間だ。理想論ばかり大口をたたいて、実務能力はゼロ。「人」としても尊敬に値しないと自分でも思う。
しかし、地域と動いている活動内容、学科や学部、大学への貢献に関しては、その問題と切り離して評価して欲しい。それが辛い。
せめて、コニタみたいな奴に任せて置くわけにはいかない、と立ち上がってくれる人が出てくれたらいいのに。



さて、発表会。
あとで聞いたらPCのモニターケーブルが行方不明だったためにパワーポイントが使えなかったらしいのだが(しかし、PC頼みのプレゼンに於けるこの手の「事故」の発生率の高いことと言ったら!)、端から見て、そういう混乱はほとんど無く、むしろアナログな発表の伝達力に、改めて感心していたのだけれど。


あ、声ね。
毎年思うことだけれど、若い人の声が通らない。
というか、個人差が大きすぎる。
これは真剣に取り組むべき課題だと思う。


例年通りのスーパーもちづきの広告戦略も、それぞれに学生らしい視点が、社会と結びつく形で形象され、この授業が企業と結びつく事の大きな意義を感じさせてくれる物になっていた。実現が楽しみだ。今後は、他のメディアをどう使うか、と言う発展を期待しつつ。

観光協会への押し売りプレゼンも、地方大学に集まる県外出身者の重要性が改めて意識できたのではないかと思う。このことは、実は、「静岡の文化」でもずっと投げかけていた問題。バレンタイン企画は時間がないけれど、実現して欲しいなぁ。


そして、もう一つが、「履修案内」。
新入生は、入学時に学生生活に必要な情報が満載の4冊の本を渡される。しばらくの間、その重い本を持ち歩かないと、授業を選ぶことも、教室にたどり着くこともできない。しかも、今必要な情報が、どの本の、何処に載っているのかが判らない。

この、構造的な欠陥は、たとえば発信主義に代表されるような役所的な作り方をしてきた歴史に原因がある。
教職員は、「ユーザーインターフェイス」と言うことを考えてこなかった。

こういう問題は、しかし、「お客」である学生との関係の変化の中で、当然浮上してこなければならないはずだ。
とはいえ、実際にこの課題がこの授業で取り上げられたのは、受講生の自発的な提案ではない。
そういう注文があったから取り上げられたにすぎない。

プロジェクトをはじめるに当たって、受講生30人にアンケートを採った所、全員が履修案内類のわかりにくさに不満を持っていると答えているのだという。
今までもずっとそういう不満はあったはずなのに、学生が、自分たちの手でナントカしよう、とはしてこなかった現実。そして、そういうことを授業の中で扱えるなどとは思いも至らない「教育」を生きてきてしまったと言う現実を直視しないと進みようがない。

発表は面白かった。内容の骨格はこれで良いと思う。
さて、実現しよう。

だれが?

ここにも大きな落とし穴があった。
受講していた学生たちは、発表したら終わりだと思っていたらしい。
アイデアが採用されれば教職員が作ってくれる。こんなのを作ってください。と言う認識。

それでも大きな一歩なのだけれど、それでは「情報意匠論」ではないでしょ。
この授業が、あるいは「静岡の文化」が、他の教室科目、あるいはフィールド調査科目と決定的に違うのは、現場に返し、形にする所までが織り込まれている所にある。それは、授業時間という制約を離れて、延々と継続していくものなのだ。

このことは、授業前にも、授業中にも、何度も語られてきたはずだ。
先輩たちの業績を見てもわかるし。

それでも尚、学生たちが、「授業でおしまい」という意識を持っていたのは、話を聞いてないとか、不真面目だとか言うことではない。彼らはやるべき事をしっかりやっている。しかし、「授業」というのはそういう物だと思っている。


学問は自己満足で良いと思っている。
社会にコミットしなければならないのだとしたら、学問は学問でなくなってしまう。

しかし、学問は、学生生活は、否応なく、社会の一部なのだ。
だから、授業が授業として自己目的化してしまうのもまた、もはや「学問」とはいえない。

蝶の羽ばたきが、遠くで嵐を引き起こすように、今口にしているパンが、ここに至るまでに世界中の人間が関わっているように、教室は世界に繋がっている。

試験管の中で純粋培養した実験データを確認してレポートを書くのは、大事なことだけれど、その先に進むのでなければ意味はない。

小学校以来、ある種のフィールドワーク授業はあったはずだし、自由研究などでも研究報告をした。しかし、その成果は、教員によって評価されて終わり、と言う慣習があって、やがて忘れられる。先輩たちの膨大なストックは、日本中の学校の倉庫に眠ったまま、後輩たちはそれを見ることもなく、同じテーマを繰り返し、取材協力者をあきれさせてきた。


今回、このグループは、私を含め、教職員への協力要請をしていない。
私は、学科会で説明して予算を取り、教務係長にも事情を説明し、取材協力があれば応じて欲しいと言ってあったし、そのことも先輩学生を通じてグループにも伝わっていたはずだ(この辺は、私が細かなフォローをしなかったことに、大きな責任を感じている。私の学生時代の感覚から言えば、こういう「根回し」さえ、大きなお世話以外の何ものでもないのだけれど)。

そう。今回私は、自分には似合わないような「親切」をしてしまったのだと思う。
それが、徹底しなかったために起こった悲しいこと。


庭に鳥の餌場を作るなら一生続ける覚悟をせよと、子供科学電話相談の先生が言ってたなぁ。


なにはともあれ、新入生のために、新しいガイドブックを間に合わせないとね。


我々には、みんな、それぞれの歴史と、立場があって、それぞれに思いこみで生きている。
すぐ前に書いたように、私の感覚から言えば、自分たちの手で作ること、そのために沢山の人に協力要請をすることは当然だ。
しかし、普段のレポートでも、授業中に、何度も、テーマが決まったら相談に来なさい、と言っているにもかかわらず、自力でやろうとする。その姿勢は立派だけれど、レポート作成の過程で学び、成長することは山ほどある。その一瞬の「実力」を試験するわけではないのだよ。私は、一緒に学びながら、全員が優秀なレポートを完成させてくれることを望んでいる。成績の正規分布など糞喰らえだ。



壁がある。
学生と、教員と、職員と。
外側にも、内側にも。

学問観の壁、成績の壁、人間としての壁。


乗り越えたくて乗り越えたくて、壊し去りたくて、あがいているのだけれど、それがまた気味悪がられているフシもあり。
餌を求めてすがってくる奴には冷たいしね。

「教育」は難しい。

いま、あっぱれ会の協力によって開講している二つの授業科目は、学校教育の「常識」を破壊しようとしている。
しかし、その方が、ずっと学問そのもの、教育そのものの理想に近いのだと信じている。

今年度、初めて開講した学際科目も、私の担当する「茶の世界」以外の科目も、今までの寄せ集め的「総合」科目とは全く違うコンセプトでちょっとあり得ない贅沢な授業を展開している。

希望はあるよ。

理想を発信し続けること。

背中を見せるだけで生きていきたいね。

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