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ゆうとたいへ

六十を過ぎて始めた自転車旅行、山登りをつづります

2019年6月20日 台湾の2・28事件での一つの出来事

2019-06-20 | 昼間のエッセー

190620_台湾の2・28事件での一つの出来事


産経新聞 2019年6月20日 p.7


 台湾の2・28事件での一つの出来事

 ここには人間の信義というものが描かれている。 


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 1945年、日本の敗戦後、中国軍が台湾に進駐して来た。

 1946年、(その後台湾の国民党総統となる、台湾生まれの)李登輝は、日本から台湾に戻った。

 1947年、台湾住民が、新しい進駐者である中国の国民党に対し、暴動を起こした。

 これを「2・28事件」という。

 その事件のとき、台湾の新聞社の社長・阮朝日(げんちょうじつ)(台湾人で日本内地の学校を卒業した)は、憲兵に連行され行方不明となった。

 長女の阮美姝(げんみす)は、父が連行されるところを見ていた。

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 台湾では、1949年から1987年まで戒厳令が布告された。

 戒厳令とは、軍・警察が令状なしで個人を逮捕できる状態をいう。
 
 1987年、戒厳令が解除された。

 1988年、台湾の国民党の蔣経国が死んだ。憲法の規定で、そのとき副総統であった李登輝が総統に昇格した。

 ・・・・

 阮朝日の娘、阮美姝は、李登輝の妻、曽文恵(そうぶんけい、中国では夫と妻の性は違う)が、同じ台湾の女学校の二年先輩であることを知っていた。

 阮美姝は、李登輝の妻に、父を探してくれるよう手紙を書いた。

 ある日、李登輝の妻から、阮美姝へ電話があった。

 「私は曽文恵です。いま、主人に代わります」

 阮美姝は、覚悟を決めて、父のことを李登輝に話した。

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 1993年、国民党総統・李登輝と妻・阮美姝は、阮美姝の自宅をたずねた。

 阮美姝が集めた「2・28事件」の資料を見るためであった。

 1995年、「2・28事件」の慰霊碑がつくられた。

 ・・・・

 1997年、阮美姝の家に、かっての憲兵隊の運転手だったという老齢の男が現れた。

 その男は、憲兵が阮美姝の父を連行し、台北郊外の山で銃殺した、と言った。

 「あなたの父は、最期のときまで目をカッと見開いていました」と言い残して立ち去った。
 

 


2019年6月20日 「ユーチューバー」というものが子供のあこがれの職業?

2019-06-20 | 昼間のエッセー

190620_「ユーチューバー」というものが子供のあこがれの職業?


2019年6月19日 産経新聞 p.19


 子供が将来やりたい職業としてユーチューバーというものがある。

 ユーチューバーとは「動画投稿サイトで自主動画を公開し、多くの閲覧者を獲得して主に広告収入で生活する」。

 いわば、個人でやる放送局だ。

 人間は、楽して、みんなから称賛をもらえ、それでお金をもらえるなら、そういう仕事をしたいと思うから、小学生がそう思うのも当然だ。