「土曜プレミアム- 独占解明!誰がツタンカーメンを殺したのか!?~謎の少年王・悲劇の生涯 -」 20120811(土)フジテレビ 21:30~23:40
エジプトでアラブの春という民主化運動が行われた。以前はファラオが国をまとめており,西島秀俊がツタンカーメンの謎について迫る。
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エジプトに王朝が迎えたのは約5000年前であり、ピラミッドやスフィンクスを建設していた。約3300年前は、ツタンカーメンが即位したアマルナの宮殿は風化し忘れ去られている。しかし、90年前にハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発掘し、20世紀最大の発見とされた。
発掘に関わった人は次々と謎の死を迎えた。上野のツタンカーメン展は大ブームで大阪では93万人以上を動員するほど人気である。ツタンカーメンはわずか10歳前後でファラオについた少年だったが、19年の生涯だった。リバプール大学のハリソン教授は、殴り殺されたことを解明した。
ハワス教授は、ツタンカーメンのミイラにCTスキャンをかけ死の謎に迫る。また、3D映像により完全再現を行う。ツタンカーメンと一緒に11体のミイラが見つかっているが、DNA鑑定をすることで謎を解明していく。更に、ツタンカーメンの最愛の妻についても紹介していく。
カイロを訪れた西島秀俊がツタンカーメンの死の謎について迫る。西島秀俊はまずエジプト考古学博物館を訪れ、ハワス教授に出会った。2階の特別室には、黄金のマスクが飾られている。当時はその人にそっくりに作るため、ツタンカーメンそっくりに作られているとハワス教授は西島秀俊に話した。
マスクの裏側に「死者の書」が記されている。ツタンカーメンが10歳前後でファラオとなったが、側近のアイ、将軍のホルエムヘブ、ネフェルティティが権力の座を狙っていたことが明らかである。ハワス教授は、ツタンカーメンの性格が明るかったと思われると話した。
副葬品の中からは、セネトというゲームをして遊んでいたとされている。ツタンカーメンの謎の死に世界が感心したのは、発掘した研究者たちが次々と謎の死を迎えたからである。1968年にロバート・G・ハリソン教授がツタンカーメンの頭部に殴られたあとがあることを見つけた。
ハワス教授は、最後の死の謎を解明できると話した。王家の谷には64の墓があり、ハワス教授は人々を寄せ付けないためにこのような場所に墓を造ったと説明。セティ1世の墓の壁面には、あの世へと向かうファラオの姿が描かれている。
墓は王にとって後世に残る権力の象徴であるため、自分の力を誇示するために立派な墓を造ったという。ツタンカーメンの墓は全長120メートルの豪華なセティ1世とはまるで違く、階段は狭く壁面には何の装飾も施されていない18メートルという小さなものだった。
だが、ミイラが置かれた隣の部屋には5000点を超える副葬品が収められていた。ハワス教授は、実はここは他の誰かのために造られた小さな墓だったが、急きょ王墓として利用されたということは、ツタンカーメンは急死したと考えられると説明。
ツタンカーメンのミイラを実際に目にした西島は小柄とコメント。また、ミイラが黒い理由も急死した根拠の1つだという。今回旅した西島は、よりミステリーの奥深さや世界中の人が魅了される理由が分かったとコメント。また、濱田龍臣がツタンカーメンの格好をして登場した。
セティ1世の葬祭殿の壁には王名表として、古代エジプト王朝歴代の王の名前が刻まれているが、そこにはツタンカーメンの名ではなく、ツタンカーメンの側近だった将軍ホルエムヘブの名があった。
ツタンカーメンの死の謎に迫る手がかりを探す。西島秀俊は、エジプトのアビドスという街に向かった。
そこには、ツタンカーメンの4代後のファラオのセティ1世が造ったセティ1世葬祭殿という遺跡があった。西島秀俊はセティ1世葬祭殿の中に入り、ツタンカーメンの死の謎の手がかりが壁画に描かれている通路へと進んだ。その壁画には古代エジプト王朝の歴史の王の名前が刻まれた王命表が描かれていた。
ツタンカーメンの3代前のファラオ・アメンホテプ3世の次に書かれているのは、ホルエムヘブの名が書かれている。本来ならば、その間にツタンカーメンを含む4人の名前が刻まれているはずだとザヒ・ハワスさんが説明した。4人の名前は、何らかの理由で名前が消されてしまったと考えられる。
ツタンカーメンがファラオとなったアマルナの宮殿も破壊された形跡がある。ツタンカーメンの身に何かあったとすると、ホルエムヘブが最も疑わしい。ホルエムヘブは、元々ツタンカーメンの家臣だった。将軍として王に使えて、周りの諸国と戦い金などの財宝を勝ち取って来るのが役目だった。
しかし、王家の血は引いておらず、本来ならファラオの座を継ぐ立場ではなかった。同じように考えると、ツタンカーメンの直後にファラオとなったアイも疑わしい。アイは、ツタンカーメンの側近として、影で政治を操っていた。
表面上は忠実な家臣だったが、本心では自分がファラオとして政治を動かして見たいと思っていた可能性も考えられる。ツタンカーメンの墓には、ツタンカーメンのスギの際に行われた、アイが喪主を務めた口開けの儀式が描かれた壁画がある。
儀式の時は後継者はまだ王冠を冠らないのがしきたりだが、アイはすでに王冠をかぶっていた。そのため、容疑者はホルエムヘブとアイの2人と考えられる。西島秀俊は、エジプト考古学博物館を訪れた。この博物館には、ツタンカーメンの父・アクエンアテンのミイラが展示されている。
異端の王・アクエンアテンは、ひたすら宗教に没頭し、宗教革命を行い、民衆の混乱は極まった。その事実は、レリーフに描かれていた。また、それまでの王と全く 違ったのは、古代エジプトでは王が先頭をきって戦い富を勝ち取るのが定めとされているのに、神は戦いを好まないとして戦わなかった。
ホルエムヘブとアイはそれに怒りを感じていた。博物館には、いかに憎悪の対象となっていたを示す証拠の棺が残されていた。棺の顔の左目意外の部分が剥ぎ取られていた。
異端の血が流れているツタンカーメンは、幼くして妻をめとり王となった。
ルクソール神殿には、ツタンカーメンと妻・アンケセナーメンの像がある。普通は王妃が小さく作られるが、この像は2人が同じ大きさに作られていた。2人は身を寄せあうように支えあい、身に迫る危険から逃れようとしていたように読み取れる。
後年、妻の思いが書かれた粘土板には「私は恐ろしいのです」という文があった。犯人はホルエムヘブとアイのどちらなのか。SHELLYと濱田龍臣は、犯人はホルエムヘブだと予想。荒俣宏は、父・アクエンアテン王の代から家臣をしていたアイはツタンカーメンと血がつながっているため怪しいと話した。
2005年にザヒ博士が撮影したツタンカーメンのCT画像で、左足のヒザの上が真っ二つに切れているのがわかった。それだけではなく、全身に13か所の傷があった。犯人はホルエムヘブか、アイか、または第3者なのか。
2005年エジプト・王家の谷でハワス教授は、ツタンカーメンのミイラをCTスキャンするという世界を驚かせるプロジェクトを立ち上げた。そして、5195舞のCT画像を立体化すると、頭蓋骨の不自然な穴、内側に曲がった左足、真っ二つに折れた骨という新しい事実を発見。
93万人が押し寄せるほど人気の大阪・ツタンカーメン展。ハワード・カーターの発掘調査に関わった関係者たちが次々と謎の死を遂げたことについて、新聞はツタンカーメンの呪いだと書きたてた。一体誰がツタンカーメンを殺したのか。