コドモの王国

文部科学省解体による教育自由化で、
効率のいい学習方法が日本中に広がる、
と思っているブログ。

文部科学省解体

2008年08月24日 | weblog
社保庁解体する前に、文部科学省解体して欲しかった。

この国は、文部科学省、教育委員会、教師など、
「無責任平等主義」の教育システムの恩恵を預かってる
ごく少数の人間のために、振り回され、世界の中の
下位の立場まで堕ちるだろう。

資源はなく、人材しかない国なのだ。

頭が良くても、飛び級は平等に反するからと、足踏みさせ、
「ヘキサゴン」の出演者のように、小学校卒の学力すらなくても、
中卒、高卒にさせる無責任さ。

人材しかない国なのに・・・・・・。
潰れるぞ、この国。

先進国意識のある今の日本人が、東南アジアの国の人たちを、
内心、自分たちより「下」だと思っているように、
中国やインド、そのうちアフリカ諸国まで台頭してきたら、
相対的に順位は下がり続け、自分たちが「下」に見られている。

ネットで24時間テスト受けれるようにして、合格したら、
次の課程に進めるようにしたり、いくらでもやることはあるだろう。

日本中の『知』を集めた巨大樹のような新生・文部科学省。
競争原理の中で、進化を遂げる教育システム。

私の中には、そんな眩い未来が見えます。


やはり、社保庁の前に、
文部科学省を解体すべきだったのだ。





TVで観た、河上亮一さんの感想。

2008年08月24日 | weblog
1週間前、NHKの討論番組に『プロ教師の会』のリーダー的存在、
河上亮一さんが出演されてた。

『プロ教師の会』は、私が心の底から軽蔑する存在で、
その理由は、学校でいかなる問題が起こっても、
我々教師は、一切責任が無い、をスローガンに掲げる、
信じがたい集団だからです。

で、そこの河上亮一さんがTVに出てる。
もちろん観た。

ニコニコ笑顔を絶やさず、穏やかに発言を
繰り返す。

人材派遣の女性社長が、社会人になったら、競争の結果、
勝者、敗者に分かれる事に晒される現実を、あまりにも、
学校は隠しすぎて、平等でない大人の社会に出ると、
学生は戸惑うのではないか、という趣旨の発言をされた。

その時の河上亮一さんの返答は、世の中には、競争にさらされない
場所も必要だという事を、おっしゃっていた。

競争にさらされない『おとぎ話』のような世界・学校。

でも、学生はテスト三昧で、競争に晒され続けている。
教師同士は順位をつけられない。

学生は、いつか社会に出て、競争に晒される。
教師は、退職するまで競争に晒されない。

こう考えた時、河上亮一さんの発言は、
間違っても学生の将来のために言われた言葉ではなく、
自分たち教師の『おとぎ世界』を守るための言葉なのだ。

そう見抜いたあと、河上亮一さんの笑顔が、
とても薄っぺらく、
とてもとても醜いものに、
私の眼には映った。

俺は、なんでこんなに怒ってるんだろう?

2008年08月16日 | weblog
(俺は、なんでこんなに怒ってるんだろう?)と、
私は思う時があります。

自分なりに振り返ると、小学生の高学年から、中学生ぐらいにかけて、
十八史略や史記、論語、韓非子、マキャベリ、陽明学など、「人間とは
こういうものである。だからこう生きるべきだ。そして人の上に立つ人間は
こう考え、こう行動するべきだ。」と主張している本が好きで、よく読んで
いました。

子供なりに、自分が行動する時の、基準や指針になるようなものを欲して
いたからです。

その時の、自分の中に刻まれた考えを言葉にすると、
「人に与えた影響力に見合った、同等の責任が発生する。」
というものです。

ちいさな子供は、周囲に与える影響力がないから、責任も発生しない。
親や、大人、周囲に与える影響力が高いほど、比例して責任も重くなる。

こう考えた時、「子供たちのため」と口にして、子供たちの上に立っている教師というのは、
それ相応の責任が発生し、私の目からは、その責任を果たした存在に見えない。

だから今のままの事なかれ主義なら、それならそれでいい。ただ、その現状の
責任の小ささに合わせて、影響力も小さくしてくれ。
その具体例が「先生」という尊称で呼ばれることを自ら放棄する。
「子供たちのため」なんていう立派すぎる言葉を、事なかれ主義者が使わない。
というものです。

私はこういう考え方をしているので、日本で最も影響力のある
「官僚」「政治家」が、影響力に見合った責任を果たしてるとは
思えませんし、国際政治なら、常任理事国には、世界全体の貧困、
餓死の責任も取らないなら影響力を行使するな、と思っています。

たぶん私の中には、既に
『影響力法』
とも言うべき法律が存在しているのです。

影響力に見合った責任を果たしてない者は、
果たしていない度合いに応じて、罰を受ける。

だから私の目には、教育関係者、官僚、政治家などが、
影響力に見合った責任を果たしていない時、
罪人が裁かれもせず、のうのうと生きているように見える。

だから怒るのです。









『先生』と呼ばれるだけの価値はあるのか?

2008年08月08日 | weblog
2年前に、全国の高校で、必修逃れの事件があった。

最近、話題になった教師採用の不正事件も、多くの人が
これは大分県で発覚しただけで、全国的に不正は行われていると
感じている。

こういった時の日本中の教師の反応は、私には、
いつもこう見える。

じっと息をこらして、なかったことになるのを待ってる卑怯者。

戦前の教師たちが、教え子を戦地に送り込んだ事を反省し、
戦後の我々教師は、そんなことはしないぞ!という決意からか、
学校で国歌を歌う事を反対したりする。

でもそんな「子供たちのため」、国歌斉唱を反対してた教師たちも、
教育委員会の不正採用が、既成事実になってることに、
内部告発すらしていない。

戦前の教師が、教え子を戦地に送り込んだ原因のひとつに、
「反対なんかすれば、教師でいられなくなる」だとすれば、
最近の教師の、右にならえの事なかれ主義も、
本質的には、まったく同類だ。

彼らは、戦前の教師となにも変わっていない存在だ。

教え子のために、自分の生活を犠牲にする気などさらさらない。

だったら、せめて、
「私は『先生』なんて尊称で呼ばれるような人格者ではありません。
ルール違反や不正が行われている事を知っても、
それを公にして自分の生活が脅かされるのは嫌なので、
見て見ぬ振りをします。というより、してきました。

これからも、私のこのような態度は改められる事はないでしょう。
私自身が改める気が無いからです。

こんな私も、さすがに「先生」と呼ばれる事には良心の呵責を
感じますので、これからは「さん」付けで読んでください。

一応年上ですので、これからはそう読んでください。」

ぐらい生徒に言ってもいいんじゃないか?

日本中にいる教師の一人ぐらい、そう言って当然じゃないか?

でもその、たった一人すらいない教師たちって・・・・・・・・。