コドモの王国

文部科学省解体による教育自由化で、
効率のいい学習方法が日本中に広がる、
と思っているブログ。

「ゆとり教育」を改める

2006年09月30日 | weblog
教育改革するらしく、これまでの「ゆとり教育」を
改めるそうです。

「へぇ・・・・・・・・・」
これが私の感想でした。量の問題じゃないだろ?
という意味です。

教育を〈与えている〉側、文科省や教育担当補佐官の
【自己満足】にしか思えませんでした。

例えるなら、百科事典10冊分教えていたけど、
2冊増やして12冊分これから教えます。
だから2冊分賢くなります。エッヘン!みたいな。

でも現実は?
現実の学校は?
現実に教育を〈与えられてる〉〈押し付けられてる〉
生徒の大半は?

テストの時だけ頭に入れて、すぐに忘れるだだ漏れの
知識。それを減らそうが増やそうが何の意味もない。
                    



それよりも個人個人の能力に応じて、学習スピードに
応じて学べるシステムを作るべきなのでは?
と考えます。

英語検定試験や、漢字検定試験のように、
「全国統一」の試験を受けて合格すれば、次のステップへ
進め、落ちてまだ今の段階を理解してないのなら、
分かるまで勉強し直す。そのほうがいいのでは?

算数なら、「たし算」を理解したなら「ひき算」という風に
理解したのなら、どんどん進ませ、小5や小6の年齢でも、
中学生や高校生の問題が解けるなら学ばせばいい。
逆に、小3、小4の問題が解けないなら小5、小6でも
分かるまで前に進めない。
それを義務教育の15歳までやる。
どんなに分からない生徒でも、小学生レベルは理解して
もらう。無理なら16才になっても分かるまで勉強の
面倒はみる。

これなら「落ちこぼれ」も「浮きこぼれ」も出ようがないし、
分からない授業を聞かされる膨大な時間の無駄もなくなる。

それをしないで「ゆとり教育」「反・ゆとり教育」と言っても
意味がないように思えます。
私にはどちらにしたって「落ちこぼれ」と「浮きこぼれ」を
産み出すシステムにしか見えないからです。










「指導力不足」の記事を読んで

2006年09月23日 | weblog
大学出ただけの新入社員に、数十人の部下の
管理をいきなりまかせたらどうなるか、
考えればすぐに分かる。

この新入社員は不安のあまり、ノイローゼに近い
状態になるか、なめられないように開きなおって
威張りちらすか、どっちにしてもまともじゃない。
             
部下の方もたまったもんじゃない。
             
一番悪いのは、もちろん会社。
              
だからこの問題は、文部科学省が一番責任が
あると思います。
             


指導力不足:公立校の教員506人 文科省05年度調査

2006年09月23日 | weblog
 適切な指導ができないなどとして、05年度に「指導力不足」と認定された公立学校の教員は前年より60人減り、全国で計506人だったことが22日、文部科学省の調査で分かった。40代が45%、50代が37%とベテランが8割以上を占め、文科省は「子供の質や教員に対する保護者の見方の変化に対応できていないため」と分析している。116人が研修を受けた後に現場復帰する一方、111人が退職や免職、転任で教壇を去った。

 05年に新たに認定されたのは246人。全体でみると、男性が72%を占め、小学校50%▽中学校26%▽高校15%など。自治体別では横浜市が23人で最も多く、次いで千葉県、三重県の22人。教壇を去った111人のうち、103人が依願退職、6人が免職となり、2人が他職種に転任した。

 指導力不足教員は各教育委員会が(1)「授業が成り立たない」など指導力や教科に関する専門知識が不足(2)児童生徒や同僚、保護者らと信頼関係が築けない(3)教員としての意欲や使命感に欠ける--などと定義。大半は医師や弁護士、保護者ら外部も含めた判定委員会を作り、独自の判定基準に基づいて認定している。認定制度は00年度に始まり、04年度に全都道府県・政令市に広がった。

 05年度の認定例では「非常に厳しい言葉で威嚇するようにしかりつける」(50代の小学校女性教諭)▽「授業中に教科とかかわりのない話が多く、計画通りに教科書の指導ができない」(40代の中学校男性教諭)などが見られた。【長尾真輔】

毎日新聞 2006年9月22日 18時30分

中学2、3年の授業風景

2006年09月18日 | weblog
中学の2年生、3年生の頃の授業風景って
こんなだったな、というのを書きます。

分かっても、分からなくても進んでいく
授業。黒板に書かれたことをノートに
写していく。
理解してなくても2ヵ月おきにはやってくる
中間、期末テストのために、やっつけで記憶
し、テストが済めばすぐに忘れる。
大半の生徒ってこのタイプだった気がします。

で、塾などで学校の授業よりはるか先の内容まで
完全に理解してるので、学校の授業中は、
意識をオフにしてる優等生タイプ。

今度は反対に、既に中1の内容でつまずいて、
教師からすれば授業を受ける対象外。本人も
授業をきく気がないタイプ。
中3ぐらいになると、授業中廊下に出て帰りだし、
教師と大声のバトルが響く。

トレーニングジムでジョギングをすることに
なりました。
Aさんは5キロでも楽々走れます。
Bさんは2キロならなんとか走れます。
Cさんは1キロも完走できません。
コーチは、3人の体力に合ったトレーニング
メニューを作りました。1年後、
Aさんは10キロ、Bさんは5キロ、Cさんは
3キロ走れるようになりました。
めでたし、めでたし。

・・・・言いたいことは分かると思いますが。

「学力をつけるために」学校に行ってるはず。
でも現実の授業は、
「学力をつけるふりをして、時間を無駄にすること」
だった。
                 












15歳の思い出

2006年09月17日 | weblog
15歳、中学3年生の時の話です。

朝、登校し教室に入ると、クラスメートの1人が
興奮して駆け寄ってきます。
「Aが死んだ!Aが死んだ!」

Aとは20代男性の国語教師で、そのことと
〈死んだ〉という言葉がうまくつながりません。

「死んだって、どういうこと?」
「だから、Aが死んだんだって!」
クラスメートはじれったそうに言います。

やっと私も言ってる意味が分かりました。
「エーッ!マジで?!」
「マジマジ!本当に死んだんだって!」

そのクラスメートはとても興奮して、とても
嬉しそうでした。教室を見渡してもみんな
ワクワクしたようにそのことを喋っています。

私も嬉しい気分でした。TVでおめでたいニュースが
駆け巡り、日本中がお祝い気分一色になるように、
A教師が死んだニュースは、クラス中をお祭り気分に
したのです。

そのお祭り気分は、自分たちのクラスだけではなく、
3年生全体のものであることが分かりました。
体育館でA教師が亡くなったことの全校集会が
ひらかれたのですが、横に並んでいた他のクラスの
人たちも、ワクワクした気分でざわついていたからです。

A教師が脳の病気で突然死された事を、校長先生が
壇上で語られていました。陸上部の顧問だった事、
年が生徒に近いので、友達のように慕われていた事など。
                     
校長先生が話している間も、3年生のざわつきは止まり
ませんでした。みんな嬉しそうでした。こういう時、
女子が泣いたりするものですが、だれ1人泣いていません。
本当に正直な話、ただ「面白かった」のです。

全校集会が終わり、教室に戻ると、担任の女性教師が
泣きながら怒りました。あの態度はなんです、お世話に
なった先生がお亡くなりになったのに、そのような事を
話されてました。          

まったく担任教師の言う通りです。
でもあの時、高校受験がせまってきた中3の秋、
あの中で暮らしていた人間として、あの反応は
自然そのものでした。

意味が見出せない授業、1つしかない学習スピード、
そのために続出する浮きこぼれ、落ちこぼれ。
現場が混乱するという教師側の都合で、効率のいい
学習方法を生徒側に与えないし、提示すらしない。
おそろしいほど退屈で閉鎖的、それを長時間うける苦痛。
                  
今の15歳も何も変わっていない。
放課後、楽しそうに笑っている中学生たちを
みかけるが、置かれている環境は微動だにしてない。

つめたい環境は、つめたい感情しか産み出さない。
そんな事を考える出来事でした。
                    






聖餐杯(さかづき)

2006年09月10日 | weblog
荘厳なる足音

光の扉は開かれた

光降る朝を甦りし花々は

喜びの歌で出迎へた    

太陽の時代が現れる

凱旋の日は近い
               
(教育が自由化して、「普通の職業」の
ように、効率の悪いもの、質の悪い人材が
淘汰され、効率や質の良さを競ってどんどん
良くなり、それが教育の利用者の利益になる
「当たり前」のことが、実現される日を想い
書いた詩です。)
              




感想文

2006年09月04日 | weblog
教育の実質的最高責任者といえば、
文部科学大臣のはずだが、いじめ
問題や、会話も出来ず、劣等感だけ
植え付けてきた英語教育の責任も
取らない。
           
大学出ただけで、管理能力皆無の新人
教師になんのフォローもせず、授業を
させて、ノイローゼになっても本人の
責任で、文部科学省は責任も取らず、
改善もしない。
           
司馬遼太郎の指摘したとおり、大臣は
なんの責任も取らない祠なのだ。
文部科学省の役人も、校長も、教師も、
それを何も考えずありがたがってる神主
なのだ。
        
幾百万の日本人が、戦争で死んでも実質的
責任者がいなかったように、
欠陥教育で膨大な時間を無駄にした多数の
日本人に対してなんの責任も取らず、今も
それを続けている。
           
ひどい言葉ですが言わせてください。
「コイツラ、キチガイダ。」




司馬遼太郎の本から (4)

2006年09月03日 | weblog
【この徳川の幕藩官僚の体質は、革命早々の
明治期にはあまり遺伝せず、高等文官制度が
軌道に乗った大正以後に濃厚にあらわれてき
て、昭和初期にはその遺伝体質が顕著になっ
た。          

太平洋戦争という、日本国の存亡を賭けた大戦
でさえ、いったいたれが開戦のベルを押した実
質的責任者なのか、よくわからない。
東京裁判における各国の法律家もおどろかざる
をえなかった。   

太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような
「上司」もしくはその「会議」というものが押したの
である。   

そのベルが押されたために幾百万の日本人が死ん
だが、しかしそれを押した実質的責任者はどこにも
いない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」
というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。】
               






司馬遼太郎の本から (3)

2006年09月03日 | weblog
【しかしヤクニンはあくまでも「上司、上司」と、
それが日本の神社の神の託宣であるかのようにいう。
             
日本にあっては上司とは責任ある個人ではなく
祠(ほこら)であり、ヤクニンとは祠に仕える神主の
ようなぐあいであるかもしれない。】
             

司馬遼太郎の本から (2)

2006年09月03日 | weblog
(司馬遼太郎『世に棲む日日』から)

【上司とはいったいたれか。その上司と
かけあおう。
と、外国人が問いつめてゆくと、ヤクニンは
言を左右にし、やがて「上司」とは責任と姓名を
もった単独人ではなく、たとえば「老中会議」と
いった煙のような存在で、生身の実体がないという
ことがわかる。】
           

      

司馬遼太郎の本から (1)

2006年09月01日 | weblog
何十年と非効率なものを、平気な顔で維持し続ける
「役人」って何なんだろう?と思い続けてきました。
(このブログにおいては、文部科学省。)

司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』(文庫本3巻
204ページ)に書かれたものが、納得できるもの
だったので、載せます。
                 
【「ヤクニン」という日本語は、当時(幕末)、「ローニン」と
いうことばほどに国際語になっていた。ちなみに役人というの
は、徳川封建制の特殊な風土からうまれた種族でその精神内容
は西洋の官僚ともちがっている。極度に事なかれで、何事も自分
の責任で決定したがらず、ばくぜんと、「上司」ということばを
つかい、「上司の命令であるから」といって、明快な答えを回避
し、あとはヤクニン特有の魚のような無表情になる。】