コドモの王国

文部科学省解体による教育自由化で、
効率のいい学習方法が日本中に広がる、
と思っているブログ。

星は捨てられた

2006年01月31日 | weblog
子供達のためという標語を掲げ
自分達のためにしか動かない大人達
教室に閉じ込められた僕達は
犬の體の持ち主と成る

家畜の自由を楽しむのも知恵なのか

剥がれ落ち続ける光の破片に
世界は残酷に凹む



少年A

2006年01月28日 | weblog
発狂した『教室』を、
神社の裏手に埋めて掌を合わせ、
涎を垂らして『意味不明』を街宣する『教師』も、
火曜の朝の『不燃ゴミ』に出す。
中身がプラスチックで出来ているから。
『燃えるゴミ』じゃないと、
近所の主婦に叱られたから。

ほろ酔い加減の父が言った。
『職場』と『取引先』も埋めてくれ、と。

それは俺への皮肉か、切なる願いか。

地下鉄の中で考えていた。
『大人』なんて一人も居ないこの世界に、
背広姿で『大人』を演じている、
先に生まれし者達の社章バッジに目をやりながら。

これが俺達の未来なのかと、
『絶望』しながら吊革を握って。

自分だけはこうはならないと、
『楽観』しながら車窓を眺めて。

NUMBERGIRL 鉄風鋭くなって







『教育』というキレイな名のもとの『構造的暴力』

2006年01月27日 | weblog
教育テレビの人間講座
『いま平和とは』(最上敏樹)の
テキスト83ページの中に
  
「誰かが誰かを殴ったり殺したり
するという意味での暴力ではないが、
自ら望んだわけでもない不利益を
こうむるかたちの暴力を《構造的暴力》
と名付けました。」

という箇所があります。

読み書きだけなら、小学校まででいいのに、
15歳まで義務教育で学校に行かされ、
資格を取ろうにも、受験資格に「高卒以上」
「大卒以上」とあるために、高校、大学と
行かざるおえない。

20歳前後まで望んでもいない知識の
習得に、大量の時間を費やすことを
強制させられている今の10代の現状は、
まさに《構造的暴力》の被害者なのでは
ないのか、
と、私は思うのです。

もちろんこの膨大な被害は今も続行中で、
大勢の人間はその問題の自覚すらない。

これが最終的には、国民の知的範囲を狭め、
結果国際競争に勝てない要因になることや、
過度のストレスをかけられ10代を過ごしたことで
増加する精神疾患など、さまざまなマイナス要因を
産み出すのだ。

同じ日本人の「可能性」「幸せ」を少しでも奪うことは、
同じ国に住む以上、回り回って、
自分の「可能性」「幸せ」も少し奪われるということなのだ!





進歩する気のない教育システム

2006年01月26日 | weblog
コンビニでも、携帯電話でも、次々と
サービスや性能が向上して、それが
利用者の利益になっているのを、
『当たり前』として見てると、

『教育』の進歩の遅さに
「え? ウソ? やる気あるの?」
と言いたくなる。

車の教習所みたいに、自分のペースで
習得していくことなんて、なんで
今だに出来てないのか、とか
10年前、20年前、30年前から
変わらない、変わろうとしない
現実を驚いて見ています。

以前の中華人民共和国が、「100%共産主義」で、
そのせいで、いつまでたっても進歩なく、車も乗れず、
自転車しか乗れない貧しい国だったように、
我々は、
進歩する気のない貧しい教育
代々受けさせられてきたのだ!!





『勉強する意味』を問うことを、警戒する教師たち

2006年01月26日 | weblog
大学教授・芦田徹郎さんは、
新聞の中でこう語っています。

「『豊かな社会』が当たり前の
若い世代にとって、ものの豊かさ
それ自体には、もはや格別の意味は
ないのである。

豊かさと平和の恩恵を存分に享受
しているはずの若者の不安と不満を、
年長の世代が理解しにくいのは、
若者たちの欠乏感の本質が
『意味への飢え』であることに、
目をつぶっているからである。

親も教師も、子どもたちが将来の
安楽な生活を手に入れるための
勉強には熱心である。

ところが、勉強することの意味、
進学することの意味、お金を稼ぐ
ことの意味に子どもたちが疑問を
感じ、生きる意味を考え直すこと
には、強い警戒心を示す。」と。

ほんとそう思います。
ガラクタの知識を詰め込もうとして
生徒がやる気がないとせめる姿は、
まずい料理だしておいて、
客が来ないと文句いってるような
ものだと思う。

なんでそんな態度が、『学校』『教師』
だと許されるのか、
キチンと説明して欲しいです。

他の職業のように、「自由競争」の原理が
教育にも働いていたら、こんな傲慢な態度が
通用するわけがない。



尾崎豊『卒業』

2006年01月25日 | weblog
(尾崎豊『卒業』より)

人は誰も縛られた かよわき小羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向うべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身  卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業

卒業


尾崎豊というカリスマに惹かれ、崇拝にも似た気持ちを抱いていた10代の頃。
何故そんなに惹かれたかと言えば、自分なりに大切に守っている「友情」や「理想」と、周囲の大人達とのズレ。反抗期だから素直に言えないが、親への感謝の気持ちなど、こんなに見事に表現できることに対して驚いていたし、感動したからだった。

そして、学校が押し付ける勉強の「意味」への素直な疑問。

若きスーパースターに登りつめた尾崎豊ではなくて、
無名の高校生に過ぎなかった尾崎豊は、クラスの中では、かなり浮いた存在
だったらしく、フィルムコンサートの中で、勉強する意味などに対して、授業中
教師に質問し続け、クラスメート達の支持も得ず、冷めた視線で見られていたことを告白している。

「ねえねえ、どうして尾崎君はいつも怒っているの?」と、休み時間にクラスメートに質問されたこともあったらしい。

私は「スーパースター尾崎豊」より、そんな「クラスから浮いている尾崎豊」に
惹かれたんだと思う。

何にも考えず要領よく従い、流されているだけでヘラヘラ笑っている人間より、
信念があるからこそ、疑問が浮かび、それをぶつけ、怒りが生じ苦しんでいる。
そんな不器用さは、信用に足る大切なものに、10代の私の眼には映ったのだ。

私には尾崎豊のような「きらめく才能」は無いが、
たとえ不器用でも、疑問や怒りを正直に、このブログにぶつけたいと
思っています。


教室という絶望

2006年01月25日 | weblog
青空の下、幸せそうに遊んでいた子供が『文部科学省』に髪を掴まれ、そのまま教室に閉じ込められた。
その子は、未開の世界に触れるための手と、独りで生き抜き大地を踏みしめるための足を、押さえつけられ切断された。自分で判断出来ないように脳味噌もいじられたが、腕がいいのだろう苦痛は無かった。
自由の身となったその子は、芝生の上にちょこんと置かれた。
夏の陽射しを感じるが、光は見えない。
子供の両眼は白濁で、視力を奪われたから。
耳は聴こえるので、誰かが「笑え」と言ったのだろう。
その子は笑っていた。

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上記の詩は、「学校大好き!」という方々には、そこまで書かなくても、
と引かれる内容ですが、私が表現したかったのは、この詩のような直接的
暴力を学校がするわけがありませんが、分からない授業を何のフォローもなく
進み続けるその姿勢、いじめで自殺者、自殺未遂者がでるまで放置する無責任さを
こういった形で表しました。

つまり現在の文部科学省が画一的に押し付けている教育方法は、
「身体的」に奪うことは無いが、10代という貴重な「時間」や「可能性」、
「精神的」という部分において、奪い、踏み潰している面がまぎれもなくあると、
私の眼からは映る現実であります。



学校に、おまわりさんを招く。

2006年01月20日 | weblog
学校というところは、警察の目が届きにくい
空間です。

そのため生徒サイドで、組織的に暴力をふるう
タイプがあらわれると、普通の生徒はこわくて
泣き寝入りするしかありません。

これが警察の力に守られている大人なら、
傷害、恐喝などの罪で加害者を捕まえ、
被害を最小に食い止めることが出来ています。

という訳で、学校におまわりさんを招きます。
警察力の恩恵は、大人だけのものでは無いはず。

『金八先生』の見すぎで、警察を学校内に入れることは
教師サイドの敗北だ、なんて非現実的なことを言うのは
やめてください。

大人の世界だって、警察が存在しないのなら、
暴力的な人間が主導権をにぎり、好き勝手する
のは100%間違いないのですから。

警察が介入しにくい社会なら、大人たちも「なめられない」
ように、剃りこみをいれたり、金髪にしたり、タトゥーを
したり、集団で座り込んだり、目つきが悪かったり・・・・
冗談のようですが、本当になると思います。

自分の属している集団の中で、自分の居場所を確保したい、
最低でも馬鹿にされたくない、というのは、子供、大人に
関係のない本能のようなものだからです。










しあわせになろう

2006年01月20日 | weblog
僕等が幸せになるために、
文部科学省解体。




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はじめに私の目からは、『文部科学省』という組織がどのように
映っているか話したいと思います。

ここに、お父さん、お母さん、7才の男の子、5才の女の子の4人家族が
います。男の子の膝が擦りむけて血が流れています。女の子は風邪を引いて
高熱です。

しかし、お父さんもお母さんも知らんふりで何もしません。
男の子は膝を抱えて泣いています。女の子は、ゼーゼー苦しそうに呼吸を
しています。それでも、この両親は何もしません。

見かねた近所の人が、子供たちを介抱しようとすると、この両親は
怒鳴りました。「私たちは、あんた達と違って一流大学を卒業して
いるんだ。うちのことに関わるんじゃない!!」

私にとって『文部科学省』は、高学歴かもしれないけど全然子供を
愛していないこの両親のようなものに映るのです。

小学生から大学生まで、1000万人以上の子供を預かっているのに、
その扱いに愛情はなく、その事の批判は一切受け付けず(正確には聞いた振りだけ
する悪質さ)、一流大学を出ている我々役人が決めたことに黙ってしたがっておけ!という傲慢ぶり。

先の4人家族の例で話すと、たとえ中卒や高卒、無名の大学出身かもしれないけど、膝から血が出てる男の子がいたら、傷の手当てをし、高熱を出してる女の子がいれば、安静に寝かせて薬をあたえ、そばで見守ってあげる。そんなお父さんやお母さんのほうが、ずっといい親だと私は思っています。

いじめを放置し、加害者をつけあがらせ、被害者に自殺を考えさせるほど追い詰めさせ、勉強ができる子に「飛び級」もさせず「浮きこぼれ」にし、勉強についていけない子のフォローは一切せず「落ちこぼれ」にし、日本人のほとんどが身につかない英語の授業の改善もせず、言いだしたらキリがないが、その本質には
親子のような「愛」で結ばれた関係ではなく、主人と飼犬のような「調教」の関係がある。

しかもこの「ご主人様」に「愛情」はない。あるなら、いじめ問題、学力問題をここまで放置しないだろう。

高熱を出してる幼児を、放置し続けるその行為は、どんな言い訳をしようと「愛情が無い」以外の何ものでもないように。

人並みの愛情のある人間なら、「教育」はこうするだろうというのを、
このブログに書きますので、時間があればお読みください。